度会家行(読み)わたらいいえゆき

精選版 日本国語大辞典 「度会家行」の意味・読み・例文・類語

わたらい‐いえゆき【度会家行】

鎌倉末期の神道家。伊勢神宮外宮祠官で、中期伊勢神道代表者。その神学は建武新政運動の精神的支えとなった。のち、吉野朝に協力して働いた。著「類聚神祇本源」「神道簡要」など。生没年未詳。

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デジタル大辞泉 「度会家行」の意味・読み・例文・類語

わたらい‐いえゆき〔わたらひいへゆき〕【度会家行】

南北朝時代の神道家。伊勢外宮禰宜ねぎで、伊勢神道の大成者。北畠親房と親交があり、南朝方を支持。著「類聚神祇本源」「神道簡要」。生没年未詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「度会家行」の意味・わかりやすい解説

度会家行
わたらいいえゆき

生没年不詳。鎌倉末期より南北朝期の伊勢(いせ)神宮外宮(げくう)(豊受(とようけ)大神宮)禰宜(ねぎ)で伊勢神道(しんとう)の大成者。外宮禰宜度会(村松)有行(ありゆき)の子。1306年(徳治1)禰宜となりしだいに昇進、1341年(興国2・暦応4)一(いちの)禰宜(長官)となって1349年(正平4・貞和5)まで勤めた。家行はその大きな時代の変動期に祠官(しかん)として奉仕するとともに、行忠(ゆきただ)・常昌(つねよし)らに次いで学者としても優れ、『神道簡要』1巻、『類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)』15巻、『神祇秘鈔(ひしょう)』1巻、『瑚璉(これん)集』5巻などを撰(せん)している。なかでも『類聚神祇本源』はその代表作で、神宮古典のほか和漢の諸書を引用して天地開闢(かいびゃく)より天照大神(あまてらすおおみかみ)の出現、神宮の鎮座、神宣、また神道について論じており、本書は後宇多(ごうだ)上皇、後醍醐(ごだいご)天皇の閲覧を受け、北畠親房(きたばたけちかふさ)も一覧しており、南朝へ大きな思想影響を与えている。また家行は南朝を助け、1338年(延元3・暦応1)北畠顕信(あきのぶ)が義良(のりよし)親王(後村上天皇)・宗良(むねなが)親王を奉じ、親房とともに海路伊勢より東国へ向かう便を図った。1343年(興国4・康永2)には親房が東国より逃れ吉野へ帰るのを助け、1347年(正平2・貞和3)楠木正行(くすのきまさつら)と連絡をとりつつ南勢方面で戦った。このようなことで1349年北朝側より違勅の科(とが)で解却(げきゃく)された。

[鎌田純一 2017年10月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「度会家行」の意味・わかりやすい解説

度会家行 (わたらいいえゆき)
生没年:1256?-1351?(康元1?-正平6・観応2?)

鎌倉末~南北朝時代の神道家。伊勢神宮外宮の祠官度会氏の生れで,父は外宮三禰宜有行。曾祖父の代から度会郡北浜の村松(現,伊勢市村松町)に住んだので,村松家行と称した。1306年(徳治1)外宮禰宜となり,40年(興国1・暦応3)一禰宜に昇進,49年(正平4・貞和5)までその職にあった。神宮では一禰宜を長官と呼ぶので,村松長官ともいった。51年に96歳で没したとする説があるが,正確な生没年はわかっていない。鎌倉時代中期以降,伊勢では度会氏の人々の間で,神宮に伝わる古伝承や深秘の儀礼を再確認し,それを拠り所にした神道説をたてようとする動きがさかんになった。家行は,その中心となった度会行忠に従って,神祇の基本を学び,さらに儒教・老荘の典籍,新旧さまざまな仏典を読み,伊勢神道の教説を集大成した。1318年(文保2)に著した《神道簡要》1巻は,《神道五部書》にはじまる伊勢神道の教説の綱要を簡潔に述べた書であるが,その基礎となる教学を詳細に記したのが20年(元応2)に完成した《類聚神祇本源》15巻であった。家行はこの書で,数多くの文献から抄出した神祇に関する記述を分類編成することによって,神道説の体系化を図ったが,その根本的な主張は同書の〈神道玄義篇〉に要約されている。家行は,神道の究極は清浄にあると説き,絶対的な清浄を,無の中から天地が開闢しようとする瞬間にあらわれるものと考え,それを《旧事紀》にみえる最高神,天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊にほかならないと主張する。そして,人間は一心不乱の状態に近づくことによって,心の清浄を得ることができると教えた。

 家行は,30年(元徳2)に《神祇秘鈔》1巻を書き,ほかに自説を要約した《瑚璉集(これんしゆう)》5巻を著している。家行の著書は,後宇多天皇,後醍醐天皇をはじめ,公家の間でも読まれた。建武新政が崩れると,南朝勢力の再編のために伊勢に来た北畠親房を援助したが,思想的にも大きな影響を与えたことは広く知られている。
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百科事典マイペディア 「度会家行」の意味・わかりやすい解説

度会家行【わたらいいえゆき】

鎌倉末期の神道家。伊勢神道の大成者。伊勢神宮外宮(げくう)の禰宜(ねぎ)。宋学の影響を受け,独自の神道説をたてた。北畠親房(ちかふさ)の師で,後醍醐(ごだいご)天皇の吉野還幸,親房の常陸(ひたち)から吉野への帰還,楠木正行(まさつら)の挙兵などを援助した。著書《類聚神祇本源》《瑚【れん】(これん)集》《神道簡要》など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「度会家行」の解説

度会家行
わたらいいえゆき

生没年不詳。南北朝期の伊勢豊受(とようけ)大神宮の神官。有行の子。1306年(徳治元)禰宜(ねぎ)に補任される。南朝方について,後醍醐天皇の吉野遷幸に尽力し,36年(建武3・延元元)宗良親王を奉じて伊勢国に下向した北畠親房・顕信父子を援助した。40年(暦応3・興国元)一禰宜となるが,49年(貞和5・正平4)北朝方から違勅の科により禰宜を解任された。伊勢神道の大成者として知られ,「類聚神祇本源」「瑚璉(これん)集」「神道簡要」「神祇秘抄」などを著し,親房をはじめ南朝方に大きな思想的影響を与えた。1351年(観応2・正平6)96歳で没したとする説があるが,56年までその活動が確認され没年未詳。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「度会家行」の解説

度会家行 わたらい-いえゆき

1256-? 鎌倉-南北朝時代の神職。
康元元年生まれ。暦応(りゃくおう)4=興国2年伊勢神宮外宮(げくう)の一禰宜(いちのねぎ)(長官)となる。伊勢神道を大成し,北畠親房(ちかふさ)らに影響をあたえた。南朝方として戦いにも出陣し,貞和(じょうわ)5=正平(しょうへい)4年北朝より解任された。晩年は不詳だが,一説に観応(かんのう)2=正平6年(1351)8月28日96歳で死去。家名は村松。初名は行家。著作に「類聚(るいじゅう)神祇本源」「瑚璉(これん)集」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「度会家行」の意味・わかりやすい解説

度会家行
わたらいいえゆき

[生]建長8(1256)
[没]正平6=観応2(1351)
鎌倉時代末期の神道家。初名は行家。父は伊勢神宮外宮祠官の度会有行。嘉元4 (1306) 年伊勢神宮外宮の禰宜となり,建武中興後の戦乱の際,北畠親房の協力者として活躍した。度会神道を大成し,神器と神勅を中心とし,正直と清浄を強調する神道説を述べ,度会神道展開に一転機を画した。主著『類聚神祇本源』 (15巻,20) ,『神道簡要』『神祇秘抄』『瑚 璉集』。

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旺文社日本史事典 三訂版 「度会家行」の解説

度会家行
わたらいいえゆき

1256〜1362
鎌倉末期・南北朝時代の伊勢神宮外宮の神官
伊勢神道の大成者で,著書に『類聚神祇本源』がある。また南朝のために尽力し,彼の思想は北畠親房に影響を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内の度会家行の言及

【類聚神祇本源】より

…鎌倉時代末の神道書。度会(わたらい)家行著。15巻。…

※「度会家行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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