府兵制(読み)ふへいせい(英語表記)Fǔ bīng zhì

精選版 日本国語大辞典 「府兵制」の意味・読み・例文・類語

ふへい‐せい【府兵制】

〘名〙 中国、西魏に始まり唐で完成した兵制。唐では全国に六百余の折衝府を置き、府内の壮丁を選抜して兵士とし、府兵は平時農作に従事し、農閑期訓練を受け、交代で首都・辺境の警備に当たった。租庸調は全免されたが衣食軍器自弁であったため負担が重く、均田制崩壊とともに逃亡が相次いで七四九年廃止された。

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デジタル大辞泉 「府兵制」の意味・読み・例文・類語

ふへい‐せい【府兵制】

中国、南北朝時代西魏せいぎに始まり、代に整備された兵農一致の兵制。農民の中から選抜徴兵し、農閑期に訓練した農民兵を交替で都や辺境の警固にあたらせた。7世紀後半、募兵制に移行。

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改訂新版 世界大百科事典 「府兵制」の意味・わかりやすい解説

府兵制 (ふへいせい)
Fǔ bīng zhì

中国,西魏・北周・隋・唐で行われた兵制。唐代では〈軍防令〉に規定され,日本古代の軍団の制の祖型となった。中国では有力な将軍が軍府を開く制度があり,魏晋南北朝になると中央地方に軍府が置かれ,その兵を府兵と称した。しかし狭義の府兵制は,西魏が550年(大統16)前後に編制を完了した二十四軍に始まるとされている。東魏に一敗した西魏は,関中地方の豪族に郷兵(郷民の招募による軍団)を組織させ,従来の胡族部隊とともに中央軍に編制した。柱国大将軍6人-大将軍12人-開府儀同三司24人という指揮系統を構成し,開府儀同三司が1軍を掌握した。1軍は多数の団を含み,儀同三司以下の将官がこれを率いた。各級の将官はそれぞれ軍府を開き,府兵は一般民籍を脱してこれに所属した。

 隋の中国統一以後,軍籍をやめて民籍に編入し,一般農民の壮丁を簡点して府兵とした。隋以後はまた指揮系統を中央衛府と地方軍府とに分離し,府兵は自家で農業を営むかたわら,地方軍府の管轄を受けて諸任務に当たった。唐制によれば約600の折衝府を全国に布置し,1府平均1000人を収容した。中央には大将軍のひきいる左右十二衛があり,それぞれ所定の折衝府を管轄した。府兵は輪番で上京して首都の警備に当たる(衛士)ほか,都護府所管の鎮・戍(じゆ)に派遣されて辺防に当たった(防人)。在郷期間は農閑期に軍事訓練を受けた。

 府兵ないし府兵制の歴史的性格については諸説があり,制度の起源について鮮卑兵制説と中国兵制説がある。府兵は本来国家の招募に応じた者で,勲功によって将官に昇る道が開かれていた。北周の武帝以来,府兵は侍官の称号を与えられ,天子を侍衛する名誉ある軍士とみなされていた。西魏以来の実力者,君主は府兵軍の総帥として政権を掌握し,中国再統一の道を進んだ。唐代になると,制度が固定化して生きた性質を失い,昇進の道が閉ざされた。帝国の拡大と辺境情勢の重大化は,その負担を過重ならしめ,これに均田体制の崩壊が加わって逃亡あいつぎ,玄宗の天宝時代(742-755)になると折衝府は実人員を有しなくなった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「府兵制」の意味・わかりやすい解説

府兵制
ふへいせい

中国の北朝、隋(ずい)、唐で行われた軍隊制度。550年ごろ西魏(せいぎ)の丞相(じょうしょう)宇文泰(うぶんたい)が地方に儀同府(ぎどうふ)という軍政機関を設け、その府兵をもって二十四軍を組織したのに始まるとされる。もともと後漢(ごかん)以来の将軍府、都督府を軍府と総称し、各軍府所属の兵を某々府兵といったが、隋・唐に至って各種軍府を整理し、軍事行政を民政系統の州、郡、県から切り離して中央直轄とした。こうして地方常設の軍府としては鷹揚(ようよう)府(隋)、折衝(せっしょう)府(唐)だけが置かれることとなり、その兵がすなわち府兵とされた。彼らは農民のなかから一定数を選抜し、農閑期に訓練を施す農民兵で、装備、食料を自弁させ、軍馬の飼養を割り当てるなどするかわり、在役期間中の徭役(ようえき)、租税を免除し、これを軍府の長官たる鷹揚郎将(隋)、折衝都尉(唐)などが率いて中央の十二衛に交替上番させ、あるいは辺境の鎮守に防人として交替で派遣した。こうして全国的共通母体から兵士を徴集し、中央、地方、辺境を一本に結び付ける制度として唐代に完成をみたが、軍府の大半長安・洛陽(らくよう)周辺に集中して負担が偏り、また国内治安が主目的で、辺境防備や遠征軍は多量の臨時徴募兵に頼らねばならなかった。749年に至り形骸(けいがい)化したため停廃された。

[菊池英夫]

『菊池英夫著『府兵制の展開』(『岩波講座 世界歴史5』所収・1970・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「府兵制」の意味・わかりやすい解説

府兵制【ふへいせい】

中国,西魏()に始まる兵農一致の徴兵制で,日本古代の軍制の祖型となったもの。北周・隋を経て唐で整備された。では全国に600余の折衝府を設け,均田農民(均田法)の中から壮丁を3年ごとに選んで府兵とし,租庸調を免除して農閑期に折衝府に集めて訓練し,また衛士として輪番で国都や辺境の守備に当たらせた。しかし府兵の負担の過重による兵役忌避や均田制の崩壊により,募兵制に切り換えられた。→節度使
→関連項目開元の治

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「府兵制」の解説

府兵制(ふへいせい)

西魏に始まり隋唐で整備された兵農一致の制度。もと軍府に属する兵の意味で,北魏では鮮卑(せんぴ)の兵を主力としたが,西魏の宇文泰(うぶんたい)は漢人農民を徴集して「二十四軍」を編成し,中央の十二衛に上番させた。これらは特別の兵籍にのせられていたが,隋代に兵籍,民籍の区別を廃し,徴集母体を一般民戸に及ぼし,唐はこれを受け継いだ。唐では全国に折衝府(せっしょうふ)を置き,丁男中から府兵を選んで課役を免じ,農閑期に訓練し,兵士は兵器を自弁して,1年ないし1年半に1~2回,衛士(えいし)として国都に上番し,在役年齢中に3年間,防人として辺境の守備にあたった。この制度は均田制崩壊による農民の没落,外民族の活動激化に伴う募兵制の発達により衰え,749年廃止された。府兵制は変形しながら朝鮮,日本でも行われた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「府兵制」の解説

府兵制
ふへいせい

南北朝時代の西魏に始まり均田制と結びついた兵農一致の義務兵制
北周・隋と受け継がれ,唐代には中央に兵部を設け,禁軍と地方の折衝府をこれに属させた。国境付近の辺境には鎮および戍 (じゆ) を置き,外敵の防衛に当たらせた。均田制の適用を受ける丁男を徴発して農閑期に訓練し,禁軍の衛士となるもの,辺境の防人となるものを選んだ。府兵は租庸調を全免されたが,武器・衣食は自弁であった。また,徴兵は長安と洛陽周辺に集中したため負担が偏り,均田制の崩壊によって,7世紀末ごろから徐々に募兵制に代わり,749年廃止された。

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世界大百科事典(旧版)内の府兵制の言及

【軍制】より

…西魏の宇文泰(505?‐556)は,漢人徴募兵を直属させて六柱国・十二大将軍・二十四開府儀同が統率する二十四軍に編成,恒常的に儀同府に統轄し,郡県の戸籍から分離し,賦役を免除した。これらは,当番出動以外は農業に従事する民兵であって,隋・唐の衛・府兵制の起源とされる。 隋は禁衛軍として十二衛を確立,府兵の徴募母体を民戸全体に及ぼし,地方でも軍政民政を分離して軍権の中央直属を強化した。…

【唐】より

… 武韋時期を経過した時点で,隋以来の律令体制の破綻は,もはや誰の目にも明らかとなっていた。例えば,兵農一致の原則に立つ,西魏以来の府兵制は崩れ,傭兵による募兵制が採用され,その軍団の最高司令官として,膨大な兵力を左右できる節度使が設けられた。節度使の起源は,シルクロードの安全を確保するために涼州におかれた710年(景竜4)の河西節度使に始まり,742年(天宝1)には辺境にいわゆる十節度使が設けられるまでになった。…

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