広通渠(読み)こうつうきょ

世界大百科事典(旧版)内の広通渠の言及

【漕運】より

… 三国から南北朝時代にかけて,北方が荒廃するに反して南方の開発が進み,隋が全国を統一したときには南方から物資の供給を受けなくては,国家が立ち行かないまでになっていた。そこで都の長安から渭河に沿って広通渠,淮河(わいが)と長江(揚子江)とを結ぶ山陽瀆(さんようとく),黄河と淮河とを連ねる通済渠をつぎつぎに開いて,都から長江まで水路を直通させた。さらに黄河から北へ今日の天津付近まで永済渠を,長江から南へ今日の杭州まで江南河をつくったので,中国の東部を縦貫する大運河の骨格ができ上がった。…

【大運河】より

…これは久しく不通になっていた汴水が再開された重要な事件であった。
[運河系統の整備]
 隋が南北を統一すると,旧来の水路を整備し新水路を開いて運河系統を完成したが,最初に開かれたのが広通渠である。これは584年(開皇4)に都の長安の北で渭水を導き,東方の潼関(どうかん)まで達した運河で,国都の物資を充実させるのが目的であった。…

※「広通渠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」