広済渠(読み)こうせいきょ

世界大百科事典(旧版)内の広済渠の言及

【宇文愷】より

…建築,土木を主とする高級官僚技術者。文帝のもとで新都大興(唐の長安の前身)の都市計画を主導し,渭水と黄河を結ぶ広済渠の開削,仁寿宮の建設を総督。煬帝(ようだい)のもとで東都(唐の洛陽の前身)の建設を主導し,将作大匠から工部尚書となった。…

【大運河】より

… 唐でも洛陽が運河交通の中心で,その北東の黄河南岸に位置する河陰(滎陽)から,隋代の通済渠により汴州(河南省開封市)を経て淮河に連絡したのである。隋の通済渠は唐代には広済渠といわれ,一般には汴河の名が通用した。河陰から黄河をさかのぼって長安に達するには,途中で三門峡の険所を避け,黄河の北岸で物資を車に積み換え陸運せねばならなかった。…

※「広済渠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」