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小説家。文久(ぶんきゅう)元年6月8日(新暦7月15日)肥前長崎生まれ。本名直人。1877年(明治10)東京大学医学部予備門に入学するが、病気のため中退。のち実業家を志し大阪商法会議所の書記見習、農商務省の官吏となるが、長続きせず、挫折(ざせつ)と放浪のときを過ごす。87年政治小説『女子参政蜃中楼(しんちゅうろう)』を発表、文壇に迎えられ、死に直面した若妻の心理を克明に描いた『残菊』(1889)、『おち椿(つばき)』(1890)、『小舟嵐(おぶねあらし)』(1890~91)など主観的傾向の強い作品を多く発表する。95年になると一転写実的手法に転じ、深刻(悲惨)小説『変目伝(へめでん)』『黒蜥蜴(くろとかげ)』『亀さん』を発表、96年には心中物の傑作『今戸心中』『河内(かわち)屋』のほか、『重(かさね)づま』(1898)、『もつれ糸』(1899)、『目黒小町』(1900)などで、愛欲のもつれと人間の怨念(おんねん)を追求した。また『雨』(1902)では庶民の貧しい生活をリアルなタッチで描いてみせるなど、硯友(けんゆう)社同人でありながら、その存在は異彩を放ち、その文学世界は今日なお多くの問題点と可能性を含んでいる。昭和3年10月15日死去。作家の広津和郎(かずお)は次男。
[尾形国治]
『『明治文学全集19 広津柳浪集』(1965・筑摩書房)』▽『『定本 広津柳浪作品集』二巻・別巻一(1982・冬夏書房)』
明治期の小説家。長崎生れ。本名直人(なおと)。柳浪の号は,戯作の筆もとった祖父の号に由来する。父は藩士・医家で,のち官吏となる。柳浪は医業に興味が持てず,大学予備門で廃学して書記や役人の職を転々とし,両親没後は放蕩と窮乏の青年時代を送ったらしく,厭世,不安,無為の人生観を身につけることとなった。1887年(明治20)26歳で処女作《女子参政蜃中楼(しんちゆうろう)》を発表。89年硯友社(けんゆうしや)同人に加わり,文筆活動に入る。90年《東京中新聞》に入社して通俗な小説の濫作を強いられる中で,佳作も残し,《変目伝(へめでん)》《黒蜥蜴(くろとかげ)》(ともに1895)等の心身障害者の暗い情念と行動を描いた作品は,深刻小説(悲惨小説)と呼ばれて文壇に一期を画した。その後も《今戸心中》(1896)や《雨》(1902)など,小市民や細民の生活の破滅を描く佳作によって明治30年代の小説界に活躍したが,その後はほとんど筆をとらず引退した。広津和郎は次男である。
執筆者:土佐 亨
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(佐伯順子)
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…死,貧窮,病苦などがもっぱら描かれる。代表的な作家は,広津柳浪で,《黒蜥蜴(くろとかげ)》《亀さん》(以上1895),《今戸心中》《河内屋》(以上1896)など,人生の悲惨を好んでとりあげた。《今戸心中》は名作として名高い。…
※「広津柳浪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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