精選版 日本国語大辞典 「幽玄」の意味・読み・例文・類語
ゆう‐げん イウ‥【幽玄】
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幽玄の語の用例は中国の後漢(ごかん)にさかのぼるが、注目されるのは以後の漢訳仏典の用法で、隋(ずい)の智顗(ちぎ)ぎはこの語を「微妙難測(みみょうにしてはかりがたし)」(金剛般若経疏(こんごうはんにゃきょうそ))、唐の法蔵は「甚深(じんじん)」(華厳経(けごんぎょう)探玄記)と解説している。いずれも、仏法の深遠でたやすくは理解できない意味であるが、日本でも平安末期までの用法は仏典に限らず、およそこの原義を離れない。歌論の場合、上古の歌の神秘な趣(おもむき)を「興幽玄に入る」と評した『古今(こきん)集』序や、優れた歌体である「高情体」の属性を「義幽玄に入る」と規定した壬生忠岑(みぶのただみね)の『和歌体十種(わかのていじっしゅ)』はもとより、種々の映像や情調を重層させる特異な手法を幽玄とよんだ藤原俊成(しゅんぜい)(1114―1204)の用法も、またこの手法を追究して「詞(ことば)に表れぬ余情(よせい)、姿に見えぬ景気(けいき)(けはひ)」を求めた初期の藤原定家(ていか)(1162―1241)らの歌体が「幽玄の体」(無名抄(むみょうしょう))とよばれたのも、すべてこの原義から説明できる。したがって幽玄はまだ審美論としては現れず、それが優美・典雅などの意味で理解されるようになるのは鎌倉期も後半である。
二条為世(ためよ)(1251―1338)が「世俗凡卑」に対して「花麗幽玄」(延慶両卿訴陳状(えんきょうりょうきょうそちんじょう))といい、定家偽書の『三五記(さんごき)』が十体(歌体を10種に分類したもの)の一つである「幽玄体」を「やさしく物柔らかなる筋」と規定したなどがそれである。「優(いう)」「やさし」は早くから歌の本質とされていたもので、これを取り込むことによって、幽玄は歌の審美的理想として定位される。南北朝以後の幽玄説はこのうえにたって、さらに華麗さを強める方向に進んだ。正徹(しょうてつ)(1381―1459)は定家偽書ばかりでなく、直接に定家の初期の主張であった「余情妖艶(ようえん)」(近代秀歌)に学んで中世においてもっとも華麗な幽玄に到達し、連歌論でも二条良基(よしもと)(1320―88)は、俊成の幽玄を標榜(ひょうぼう)しながらとくに「花香(はなが)」(十問最秘抄)ある幽玄を説いている。また世阿弥(ぜあみ)(1363―1443)の能楽論も、幽玄を「美しく柔和なる体」(花鏡)と規定する一方「花」を力説しているが、やがて「花」を越えて「冷え」へと進む。この方向を徹底させたのが心敬(しんけい)(1406―75)の連歌論で、正徹を継承しながら幽玄の本質である「やさし」さを「心の艶(えん)」の方向に追究して「冷え痩(や)せ」た美に到達した。これは、幽玄を仏教的な心地修行の基礎のうえに置くことによって得られた成果でもあるが、しかし作者の心のあり方に向けたその厳しい内省は、実は俊成・定家以来、幽玄論の根本にあった「有心(うしん)」の問題にほかならず、心敬の幽玄はまた有心についてもっとも深く思索したものとして注目される。
[田中 裕]
『藤平春男著『新古今歌風の形成』(1969・明治書院)』▽『田中裕著『中世文学論研究』(1969・塙書房)』
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中世芸術の基本理念の一つ。本来は,深遠微妙な性命的神秘性を意味する漢語で,中国の老荘・仏教思想や詩論の用語。日本では,仏典などの用例以外,《古今集》真名序に〈興入幽玄〉とあるのが文学的用例としての初出。以後,〈此体,詞雖凡流,義入幽玄〉(《忠岑十体》高情体),〈義以通幽玄之境〉(《中宮亮顕輔歌合》基俊判),〈余情幽玄体〉(《作文大体》)など,しだいに余情美への傾斜を示す用例を経て,中世初頭,藤原俊成が歌合判詞類に14例用いるにおよび,重要な歌学用語となった。その内容については諸説あるが,心細く寂しい美や優艶美さらに長高美などの複合した,縹渺(ひようびよう)とした余情美の性質を示すだけでなく,対象に深く浸透する表現態度をも内包する。その形成には,戦乱無常な時代背景や天台止観の影響を無視できない。藤原定家の有心(うしん)理念も,この幽玄とのかかわりを有していたと思われる。ただし,鴨長明《無名抄》に,新古今調を幽玄体とし,その属性を〈現さずして深き心ざしを尽す〉と説くとき,〈幽玄〉が,一般に理解されているような象徴的複合美の方向とは異なり,むしろ簡素美の方向への展開を示すものといえよう。その後,前者の系列は,《愚秘抄》《正徹物語》の妖艶美志向,二条良基連歌論の一部,〈たゞ美しく柔和なる体〉(《花鏡》)と説く世阿弥能楽論などへと展開し,花やかな優艶美へと傾斜していったことが認められる。後者の系列は,心敬の連歌論や禅竹の能楽論における〈心の艶〉や〈ひえさび〉への志向などがそれである。こうして〈幽玄〉は,歴史的社会的背景と関連して多様な相貌を示しながらも,中世のみならず,広く日本文化の中心的文学理念の一つであったといえる。
執筆者:上条 彰次
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…これも,ショーの踊り子からバレエのダンサーに至るまで,日常生活においてはへんてつもない人間が,舞台に立つとまったく別人のごとき輝きを発するという現象はしばしば経験するところである。そのような,登場したとたんに人の心をパッととらえて離さないような魅力,ほとんど呪縛力というべきものを,世阿弥は〈花〉と呼び,能の美的規範としてはその内実を〈幽玄〉(優美艶麗)とした。それは単なる現実の身体的資質の函数ではなく,他者の視線の前に自分の身体を演出する才能であるが,しかしその演出が見えてはいけない。…
…自己の和歌を集めたものに《拾遺愚草》《百番自歌合》があり,一般の歌を集めたものに《二四代(にしだい)集》《小倉百人一首》《八代集秀逸》があり,自作の物語に《松浦宮(まつらのみや)物語》がある。 父俊成から御子左家(みこひだりけ)を継いだ定家の歌風は,初めは俊成の幽玄の風であった。和歌革新後は妖艶風に変化したが世間ではやはり幽玄といった。…
…すでに中国詩論に用例を見るが,日本でも,〈其情有余〉(《古今集》真名序),〈詞標一片,義籠万端〉(壬生忠岑《和歌体十種》余情体),〈あまりの心さへあるなり〉(藤原公任《和歌九品》上品上)など,歌体の一つまたは最高の歌の条件とされ,歌論などで重視されている。平安時代,すでに〈余情幽玄体〉(藤原宗忠《作文大体》)という言葉も見えるが,〈なにとなく艶にも幽玄にもきこゆる〉(《慈鎮和尚自歌合》跋)など藤原俊成により自覚された幽玄理念や,〈余情妖艶体〉(《近代秀歌》)などという定家の和歌理念も,余情表現を本性としている。和歌,連歌,俳諧などが第一義の文学であった時代では,余情は文学表現上とくに重要な理念であり,能楽論や茶道・花道などに及ぼす影響もすくなくなかった。…
※「幽玄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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