年中行事(ねんじゅうぎょうじ)(読み)ねんじゅうぎょうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

年中行事(ねんじゅうぎょうじ)
ねんじゅうぎょうじ

年々一定の暦日に伝統的に繰り返し行われる宗教的行事あるいは公的儀礼。年中行事の語は、元来、宮中の祭政一致的な公式行事をさすことばであったが、今日一般には1年をサイクルとして、年ごとに繰り返し行われる行事全般を意味する。小は村落や学校、企業体から、大は国家や全世界的なローマ・カトリック教会に至るまで、それぞれの集団のメンバーが、同じ時間の認識に基づき、同じ目的、同じ価値観そして同一の様式に従って行事を行うところに年中行事の社会的・文化的統合機能が存在する。

 未開社会や伝統的社会における年中行事は宗教的傾向を示し、人々の世界観を反映すると同時に、また、年中行事の内容はそれを行う人々の生活全体の集約的表現の様式でもある。たとえば、日本のそれぞれの年中行事には、定まった食物、家や墓地や祭壇などの定まった装飾、定まった衣類、あるいは儀礼に用いられる道具や催される芸能その他があり、それらは、その行事を行う人々の、生活全体の技術の総ざらえとしての意味をもっていた。今日残る伝統芸能や伝統工芸は、年中行事とともに発達し保持されたものが多い。

 日本民俗学では、年中行事が行われる日を「ハレの日」とよび「ケの日」と対照させ、日本人は長い間、単調で質素で労苦に満ちたケの日々の間に、労働から離れ、神に奉仕し、大きな消費を伴うハレの日を挿入することによって1年に一定のリズムをつくりあげたと指摘している。生活様式という視点からみれば、日本人はハレの生活様式とケの生活様式の双方を巧みに織り混ぜることによって、限られた生活資源を有効に使ってきたといえる。そして、このような事情は農耕を主とする社会ではどこでも似ているのである。

 季節の移りに支配されない近代産業社会は、宗教的要素が社会・文化において小さな役割しか占めなくなったことと相まって、年中行事がもつ意味も機能も小さくなっている。生活は刺激が多いわりにはリズムに乏しく、豊富な物資は、年中行事がかつて人々に与えていた消費の喜びを奪ってしまった。このことは、年中行事の世俗化とともに、伝統的社会と近代社会とにおける大きな相違である。

 さらには、年中行事の国家規模での画一化が近代社会にはみられる。1月1日の正月行事や5月5日の節供など、貴族から武士階層を経て庶民の間に一般化した行事もあったが、多くは農事暦に基づいており、したがって、南北に細長く季節の変化が地域によって異なる日本の場合は、年中行事の時期も内容も、村落ごとに異なるとさえいえた。しかし、今日では、年中行事は国家的祝祭日と同一化しようとしており、かつての多様性はしだいに消えようとしている。

[波平恵美子]

日本の年中行事

本来は「日中行事」と対応して上代の宮廷行事に限って用いられた語であったが、やがて武家・庶民の社会にも広まって漢語の「歳事(歳時)・月齢」と同義になり、また民間には古くからオリメ(折目)、トキオリ(時折)、セツ(節)など、こうした行事ないしはその時期をよぶ習わしがあった。節句・節供も通例、中国伝来の「五節供」をさすが、本来は節(季節の変わり目)ごとの行事の供物(節供)がその本義といわれている。

 ともかく年中行事は、暦日の推移、季節の変転に応じて、特定の行事が秩序正しく輪転して行われるので、おのずから民族生活の特質に応じた一つの「体系」を形づくる。日本は四季の変化が著しく、稲作主体の農耕生活はとくにそれに敏感に反応して、特徴的な複雑な年中行事体系をおのずから成立させ、また統一国家としての永続が、公私の交流でそれを複雑化させた。年中行事では「家行事」「村行事」として民間一般に行われる形と、神社の祭礼や寺院の法会(ほうえ)の形とが区別されるが、後者は例大祭・特殊法会に集約されて、前者ほどの系列化を示さない。農民社会に伝流されてきた年中行事は、春秋両季に対応する「稲作」を中核とする農耕儀礼の系列を骨格とし、それに年暦を折半する形の正月と盆の行事が加わり、さらに農作に害をなす邪霊鎮送や雨乞(あまご)い・日乞いの祈願行事の夏祭が加わる形である。

 正月は年初の「神迎え」に関連して人間関係の更新を誓い合う「年賀」や「仕事始め」など種々の「予祝」行事があり、とくに農作の予祝としての呪(じゅ)的儀礼が「小正月(こしょうがつ)」(15日)中心に多彩な形で行われてきた。その後、節分、事八日(ことようか)、三月節供、社日、春彼岸、4月8日、五月節供と春の行事も多く、それに苗代の水口祭(みなくちまつり)から田植に至るまでの「農作始め」の予祝儀礼が加わり、さらに神社の「としごい(祈年)」の祭礼が重なる。夏季には天王祭、祇園(ぎおん)祭、夏越の祓(なごしのはらえ)、七夕(たなばた)あるいは風祭、虫送りなど農作・人身を脅かす悪疫邪霊の鎮送・修祓(しゅうばつ)行事が続き、また雨乞い・日乞いもこの期に重なった。やがて秋季、稲の成熟に伴っては八朔(はっさく)、穂掛け祭、刈上げ、十日夜(とおかんや)(案山子(かかし)あげ)、亥の子(いのこ)祭、庭じまいなどと一連の収穫時の報謝的儀礼が続き、農作の護(まも)り神(田の神)を送り出す。「田の神」はかくて「山の神」となり翌春また田野に下って農作を守ると信じられてもきたのである。大師講(だいしこう)、えびす講、12月1日、12月8日、冬至祭とその後も若干の行事が続き、正月準備の諸行事を加えて、その「年暦」は一巡する形である。

 正月に迎える神は「年神(としがみ)・正月様」という漠然とした神格しか与えられていないが、年初に家々に迎え入れ、やがてそれを送り出す意味だけは、「松迎え・松送り」の行事や「正月飾り・年神棚」のしつらえに示され、また一部地方には「ミタマ」と称し「祖霊」の訪れとそれを思念して「供物」を捧(ささ)げる風習も残っている。そして除夜の「魂祭(たままつ)り」のことは古典にもその事例をみいだしうるのである。盆行事は古く仏教行事と習合して死者の追福供養の意味が明らかではあるが、家代々の死霊の一体化した「精霊(しょうりょう)さま」が年々一定時期に家々を訪れ、その加護を期待して饗応(きょうおう)し、やがてそれを丁重に送り出すといった想念は仏説からは出てこないらしい。ともかく正月と盆における「祖霊」の送迎儀礼と、それに伴う人事関係の「切替え・再認」の儀礼は、農作の予祝報謝儀礼とともに、日本の年中行事系列の骨格をなすものとみてもよいであろう。これらはすべて「ハレの日」として農作業のくぎりに配置されて、村人の憩いと楽しみの日となり、花見、磯(いそ)遊び、野遊び、山あがりなど信仰的意味を残しながら多分に行楽化したものも生じ、盆踊り・村祭りのにぎわいなどもそこに加わった。

 都市生活の年中行事も農村の形をおおむねは受け継いだ。ただそこでは、社寺の祭礼法会や縁日市、あるいは花見・納涼等の行楽行事がむしろ中心になり、それに商店街の季節的催し事も加わって、多数市民の交歓する「場」を造出していったことが注目される。現在、全国的な意味での「年中行事」のおもなものは、ほとんどこうした都市の社寺の大祭などに集約されているのである。

 日本の年中行事の原拠は『延喜式(えんぎしき)』神祇(じんぎ)部の宮廷祭事の記事に求められ、祈年(としごい)、鎮花(はなしずめ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)等の農耕儀礼と鎮魂、大祓(おおはらえ)、大忌(おおいみ)祭等と京周辺の名神大社の奉斎が主になっていた。その後「臨時祭」がいくつか追加されもしたが、やがて鎌倉期には衰退し、幕府体制下には別系のものが生じて室町幕府に至って大成した。それは「五節供」中心の形で、中国習俗を多く受容し、また宮廷儀礼の先蹤(せんしょう)をも加えて「典礼化」したものである。そしてこれをめぐっては「故実(こじつ)の学」も成立し、その後の江戸幕府や諸藩の年中行事の典拠ともなった。こうした「公」の場の「年中行事」に中国の暦法・陰陽道(おんみょうどう)の影響が強かったことはいうまでもない。しかし民間の年中行事はこうした「公」場面の年中行事や暦法の影響を受けつつも、実質的には案外に民族固有行事の伝統を失わずにいまに至っているとみられるのである。

[竹内利美]

中国の年中行事

中国の漢民族の間では年中行事を歳時・歳事などと称する。中華民国成立(1912)以来、公的には太陽暦を用いているが、漢民族の伝統的な年中行事は太陰暦において営まれている。さらに太陽年に基づく二十四節気が重要な意味をもち、高度に体系化された暦に従った固定的な日に行事が行われるのが一つの特徴である。また漢民族全体からみると、年中行事の行事内容は、各地でその気候・生業形態等によって若干の差異はみられるが、高い普遍性をもって存在している。また祭祀(さいし)の多くが家族単位で行われる。現在多くの行事が改革されているが、古くより伝わる漢民族の伝統的年中行事は以下のごとくである。

 正月は年中行事のなかでもっとも重要なものである。元旦には諸神・祖先の祭祀がなされ、これ以後5日まで年賀が行われ、華やかな正月気分が満たされるとともに、不吉なものを避けるさまざまの禁忌が課せられる。正月には年糕(ニェンカオ)(餅(もち))をはじめとする種々の料理が豊富につくられる。5日が過ぎると仕事が再開され、通常の生活へ戻っていくが、正月は15日の元宵節(げんしょうせつ)をもって終了する。この日は町並みに灯籠(とうろう)が掲げられ、音楽、灯猜(トンツァイ)、花火が催され、人々はだんらんを意味する団子(元宵(ユワンシャオ))を食べて正月最後の楽しい時を過ごす。またこの日は上元節ともいわれ、廟(びょう)などにおいて天官大帝を祀(まつ)る所もある。陰暦1月は初春にあたり、春は農耕の開始時期である。このためかつて北京(ペキン)では天子が百官を率いて東郊へ行き、春を迎える迎春の盛大な典礼が催された。3月3日には墓参をする地方もあり、北京などでは上巳(じょうし)として郊外へ散歩に出かける踏青(ターチン)が行われる。水辺で穢(けがれ)を払う行事も安徽(あんき/アンホイ)省で報告されている。清明節には墓参が各地で行われる。

 5月は悪月、百毒の月とされるが、このころより気候は暑くなり、悪疫や病虫害が流行し始める。5月5日の端午節は、この毒を消し災いを除く健康祈願の意味が込められている。そのため魔除(まよ)けとして門にショウブやヨモギを挿し、粽子(ツォンツ)(ちまき)をつくり、祖先を祀る。この日、華中から華南では竜舟(ロンチョウ)競渡が行われる。6月6日には北京をはじめとする都市で虫干しがみられる。7月は鬼月(クエイユエ)といわれ、1日に地獄の門が開き月末に閉まるまで、祀る者のいない霊魂(鬼)がこの世をさまようとされる。このため各地で盂蘭盆会(うらぼんえ)が行われる。この月には結婚、転居、旅行、出棺を忌む風習がある。7月7日は七夕であり、乞巧節(チーチヤオチエ)ともいわれ、婦女子が裁縫の上達を祈る風が各地にみられる。15日は中元節で祖先を祀り、この日は地官大帝の誕生日で祭祀が行われる。

 8月15日は中秋節であり、月餅(げっぺい)を供えて月を祀り、一家だんらんを行う。江蘇(こうそ/チヤンスー)、安徽、広東(カントン)、台湾の各省では、芋あるいは芋を用いた料理を供える、あるいは食するという風習がみられる。この日は単に観月の日ではなく、農耕と深いかかわりをもつことが考えられる。台湾でもこの日に土地公を祀ったり、農家では田に金紙をさして神に収穫を報告し感謝する地域もある。また、かつて小作関係の締結の許否はこの日に決定されることがしばしばであった。9月9日は重陽節であり、祖先を祀り、高い山へ登る地域もある。

 冬至には祖先祭祀が行われ、小豆粥(あずきがゆ)、紅白の米の団子や、北京では餛飩(ワンタン)が食べられ一家だんらんが行われる。この日にすでに一つ年を重ねるとされる。12月23日あるいは24日にはかまど神(竈君(ツァオチュン))の送神が行われる。各家にいる竈君は天へ戻り、最高神玉皇大帝にその一家の1年の行状を詳細に報告し、正月にふたたびその家に与うべき吉凶禍福を携えて地上に帰ってくる。大晦日(おおみそか)には諸神・祖先を祀り、一家がそろって年越しの食事、団円飯(トワンユワンファン)・年夜飯(ニェンイエファン)を囲む。夜半、かまど神などを迎える接神、あるいは新しい年を迎える開正(カイチョン)をして、ふたたび新しい1年が始まる。

 中国漢民族の年中行事は、中国国内において時間的にも空間的にも高い普遍性をもつと同時に、それは日本、朝鮮半島、インドシナ半島の各地の年中行事に大きな影響を与えており、これらの地域において類似した行事をしばしばみいだすことができる。

[植野弘子]

イスラムの年中行事

イスラムの年中行事は宗教に関係し、すべて太陰暦に従う。イスラムにはスンニー派シーア派の二大宗派があるが、両者に共通する年中行事は、ズール・ヒッジャ月(第12月)8日からサウジアラビアのメッカで行われる巡礼大祭である。同月10日にはメッカを中心として全イスラム圏で犠牲祭が行われる。ラマダーン月(第9月)は断食月で、シャッワール月(第10月)1日には断食明けの祝祭がある。断食明けと犠牲祭はイスラムの二大祭である。預言者の誕生日も祝祭日とされるが、広いイスラム圏では聖者崇拝も行われる。

 シーア派は、ラジャブ月(第7月)13日の教祖アリーの誕生日を祝う。ラマダーン月の後半には、アリーが刺された日、死亡した日、死後3日目の日が続く。ムハッラム月(第1月)10日はアーシューラーといい、3代目教主ホセイン(フサイン)がカルバラーで殉教したのを追悼する行列がある。翌月のサファル月(第2月)20日は、ホセインの死から40日目で、ホセインの首がもとの胴についた日である。同月28日は、第2代ハサンと第8代レザーの忌日である。

 シーア派のイランには、イスラム以前の文化の名残(なごり)がいくつかみられる。その一つが太陽暦の春分の日に行われる新年祭で、イラン最大の楽しい祝祭である。古代には、王の即位は新年に行われ、宇宙が更新するとされた。1年の最後の火曜日の夜、いくつものたき火の上を跳び越える除夜の行事がある。正月13日には、一家、町中が郊外に出かけ、夕刻に帰ってくる。あの世に接して帰ってきて、これで正月行事は終了する。

[井本英一]

西洋の年中行事

西洋の年中行事は、フランスの7月14日(革命記念日)のように、その国固有のものもあるが、一般に聖なるものへの畏敬(いけい)と豊饒(ほうじょう)への願いを込め、ときには緊張し、ときには楽しいくふうを凝らして行われる。年中行事の基本には1月6日の主の公現日、3月末か4月に行われる復活祭、それに続く移動祝日のキリスト昇天祭、聖霊降臨祭、聖体節、6月24日の聖ヨハネ祭、8月15日の聖母昇天祭、墓参りをする11月1日の万聖節、翌日の万霊節、12月25日のクリスマスといった教会暦があるが、それらの日に行われる行事はかならずしもキリスト教的といえない。初期キリスト教は異教の聖地に教会を建てたように、異教の神聖な日をキリスト教の神聖な日にすり替え、4世紀からは、1月6日に祝っていたクリスマスを太陽崇拝にとって重要な冬至に移し、夏至は聖ヨハネ祭にしたりした。そればかりでなく、何世紀にもわたって多くの行事を禁止し、そのため廃れたり、子供の行事化したものがあるが、異教的要素は払拭(ふっしょく)できなかった。

 オーストリアの山村で、1月5日にウシの鈴をつけた子供たちと仮面をかぶった若者たちが家々を回って新年を祝福するのは、ゲルマン信仰で冬に祖霊が来訪し、崇拝と供犠(くぎ)を要求した残存形態である。霊魂の季節である冬には、こうした死霊を象徴する仮面の行事が多く、復活祭前の謝肉祭(カーニバル)で頂点に達する。「冬の王」が夏に負けて焼かれるハンガリー、スイス、フランスその他の火祭りでも、死霊が再生と豊饒をもたらす。火と煙と灰は各地で無病息災と豊作、家畜の多産を約束するものだった。オランダの火祭りで少年が少女を火の周囲で追いかけるのは、火祭りが愛を実らせる機会でもあったことを示している。火祭りでは北欧の聖ヨハネ祭(夏至)のそれが有名だが、ドイツ人はこの日に入浴すれば健康に9倍いいと信じた。キリスト教の祝日はつねに俗信と結び付き、占いの日としても利用された。

 また年中行事のなかには歴史的由緒をもつものがある。ドイツのオーバーアマーガウで10年ごとに中世の受難劇を上演するのは、17世紀に村にペストが入り込まないように神に上演を誓ったからだという。19世紀初頭の大飢饉(ききん)がきっかけで始まった農業祭もある。自然と深くかかわる年中行事は当然農事暦でもあって、たとえばランベルトゥスの祝日(9月17日)はカラスムギを収穫する最終期限を意味し、10月16日の聖ガルスの祝日は、6月に山上に放牧したウシが飾りをつけて村に戻る日でもあった。秋にさまざまな収穫祭があることはいうまでもないが、教会の縁日も、農作業が一段落する10月の第3日曜日に行われることが多くなった。縁日のほかにも、人の都合を考えて季節や月をずらせたり、夜から昼へ変わった行事がある。期日が安定していても、五月祭のように村では昔ながらに五月柱を立て、都市では労働者の祭典というように、農業社会と工業社会で祝い方が違うものもある。もともと年中行事は村を基盤として発達したが、のちにはクリスマスツリーのように都市が村に影響を与えるようになった。カトリックとプロテスタントの地域で、行事の日と考え方にずれがある場合もある。年中行事には、特定の人(パリのファッション関係者は11月25日の聖カトリーヌの祝日を祝う)や、特定の地域だけで行われる(オルレアンなどでは5月の第2日曜日にジャンヌ・ダルク祭を祝う)固定した行事がある一方、遠くに伝播(でんぱ)する行事もある。アメリカのニュー・オーリンズの告解(こっかい)火曜日の行事は、19世紀初めにフランス帰りの若者が伝え、テキサスの聖土曜日の火祭りはドイツ移民が伝えた。伝播する行事は変容しやすいが、アメリカ全土で11月1日前夜にぎやかに行われるハローウィンは、ヨーロッパよりもキリスト教布教前のケルト的古態を残している。そのアメリカからは、逆に母の日という新しい行事がヨーロッパに伝播した。

[飯豊道男]

『「年中行事覚書」「新たなる太陽」(『定本柳田国男集 13』所収・1963・筑摩書房)』『「年中行事」(『折口信夫全集 第15巻』所収・1955・中央公論社)』『桜田勝徳他著『日本民俗学大系 7 生活と民俗Ⅱ』(1955・平凡社)』『鳥越憲三郎著『歳時記の系譜』(1977・毎日新聞社)』『和歌森太郎著『年中行事』(1957・至文堂)』『山中裕他編『年中行事の歴史学』(1981・弘文堂)』『宗懍著、守屋美都雄訳注『荊楚歳時記』(1978・平凡社・東洋文庫)』『敦崇著、小野勝年訳『燕京歳時記――北京年中行事記』(1967・平凡社・東洋文庫)』『内山寛著『世界の祭りと年中行事』(1969・白陵社)』『遠藤紀勝著『ヨーロッパの祭』(1977・駸々堂)』『谷口幸男・遠藤紀勝著『仮面と祝祭』(1982・三省堂)』『植田重雄著『ヨーロッパ歳時記』(岩波新書)』『W・ディーナー著、川端豊彦訳『ドイツ民俗学入門』(1960・弘文堂)』『ジュヌヴィエーヴ・ドークール著、大島誠訳『中世ヨーロッパの生活』(白水社・文庫クセジュ)』『A・ヴァラニャック、M・C・ヴァラニャック著、蔵持不三也訳『ヨーロッパの庶民生活と伝承』(白水社・文庫クセジュ)』『寺田恕子・草場安子著『フランス生活事典』(1983・白馬出版)』『井上義昌著『英米風物資料辞典』(1971・開拓社)』『安東伸介・小池滋・出口保夫・船戸英夫著『イギリスの生活と文化』(1982・研究社出版)』


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