平石村(読み)ひらいしむら

日本歴史地名大系 「平石村」の解説

平石村
ひらいしむら

[現在地名]徳島市川内町かわうちちよう 平石

加賀須野かがすの村の南に位置し、東は米津よねづ新田、南は沖島おきのしま村・富吉とみよし新田・富久とみひさ新田、西は大松おおまつ村・竹須賀たけずか村。当地域は一七世紀の初めまで吉野川水系流末の潟湖であったが、京都の商人三島泉斎が、のちの笹木野ささぎの(現松茂町)と加賀須野・平石の村域を含む広範囲を、私財を投じて干拓し新田として開発した(文化八年「岡崎三蔵宛絵図為御用被為仰付諸品指出帳控」笹木野春日神社文書)。干拓事業はのちの当村にあたる萱野に会所を置き、三九〇町の広大な地域を三地区に分けて堤防で締切り干拓し、北から笹木野・加賀須野・平石の三村を設ける大規模なものであった(前掲指出帳控、「板野郡誌」)。しかし度重なる洪水のために事業は困難をきわめ、泉斎は事業の完成をみることなく明暦二年(一六五六)に没した(寛政一一年平石若宮神社宝篋印塔碑銘)。その後事業は泉斎手代の浅山瀬兵衛(朝山瀬平)・井上六郎右衛門の両人に引継がれ、寛文八年(一六六八)一一月に再開された(「寛文八年九月より方々より来御用状写」蜂須賀家文書)

平石村
ひらいしむら

[現在地名]南町平石

山城やましろ村の南東にあり、うめ川の支流平石川などの上流域丘陵地に位置する。北東端の平石峠、南東部の岩橋いわはし峠で大和に通ずる要衝の地。鎌倉時代の成立と考えられる「長谷寺霊験記」に「河内国平石」がみえる。建永二年(一二〇七)七月八日の僧深慶某寺領注進状(正木直彦氏所蔵文書)にも平石が載る(→東山庄。南北朝期には当地一帯も合戦場となった。融通念仏宗大念だいねん寺の「紫雲山歴代録」によると、同寺がだいつかに定着する以前の応永八年(一四〇一)から三八年間は、平石で念仏が修されていたという。

村域内に広大な山地を含み、河内・大和数十ヵ村の入会山地があることから山庄屋が置かれ、各村へ宛山をして請山銀を納めさせ山年貢として領主に納めた。

平石村
ひらいしむら

[現在地名]二本松市平石・平石高田ひらいしたかだ赤井沢あかいさわおき大町おおまち北トロミきたとろみ南トロミみなみとろみ小高内こだこううち田町たまち中町なかまち南町みなみまち江口えぐち

阿武隈川を挟んで南杉田みなみすぎた村の東に位置し、北は大平おおだいら村、南は西荒井にしあらい村および和田わだ(現白沢村)。阿武隈川河畔の低い丘陵性の山地で、小河川沿いの樹枝状に延びた低地に水田・集落が散在している。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に平石とみえ、高一千六九五石余。元和七年(一六二一)の白山田山界証書(松藩捜古)によると、和田村岩角いわづの集落と当村の藤治内とうじうち集落(現南町)の間で境界争論があり、白山田は平石村領であるが、和田村からの出作については刈敷等はこれを許すと裁許されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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