平田東助(読み)ひらたとうすけ

精選版 日本国語大辞典 「平田東助」の意味・読み・例文・類語

ひらた‐とうすけ【平田東助】

明治・大正時代政治家伯爵米沢藩出身。ドイツ留学法制局長官枢密顧問官をへて、第一次桂太郎内閣の農商務大臣、第二次桂内閣の内務大臣を歴任。地方自治体の改善、産業組合創設などに尽力した。嘉永二~大正一四年(一八四九‐一九二五

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デジタル大辞泉 「平田東助」の意味・読み・例文・類語

ひらた‐とうすけ【平田東助】

[1849~1925]政治家。山形の生まれ。山県有朋系の有力官僚として、貴族院議員・法制局長官・枢密顧問官・農商務相・内相などを歴任。特に産業組合法の制定、同組合の育成に尽力。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平田東助」の意味・わかりやすい解説

平田東助
ひらたとうすけ
(1849―1925)

明治・大正期の官僚政治家。米沢(よねざわ)藩士伊東昇迪の子に生まれ、のち平田家を嗣(つ)ぐ。1869年(明治2)藩命により大学南校に学び、1871年岩倉使節団に随行してドイツに留学。1876年帰国し、内務省に入り、大蔵省、法制局と転じ、1898年法制局長官および枢密顧問官。1901年(明治34)第一次桂太郎(かつらたろう)内閣の農商務大臣、1908年第二次桂内閣の内務大臣を歴任。この間1890年には貴族院議員勅選され、以降、茶話会(さわかい)、幸倶楽部(さいわいくらぶ)に属して、清浦奎吾(きようらけいご)らとともに山県有朋(やまがたありとも)系官僚として活躍。とくに産業組合法の制定、同組合の育成に尽力した。1913年(大正2)桂太郎が政党組織に踏み切ってからは、貴族院をリードして政党に対抗、1917年には臨時外交調査会委員、臨時教育会議総裁となる。1922年内大臣、同年伯爵に陞爵(しょうしゃく)。しばしば首相候補に擬せられたが組閣することなく終わった。

[由井正臣]

『加藤房蔵編『伯爵平田東助伝』(1927・平田伯伝記編纂事務所)』『佐賀郁朗著『君臣平田東助論――産業組合を統帥した超然主義官僚政治家』(1987・日本経済評論社)』


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朝日日本歴史人物事典 「平田東助」の解説

平田東助

没年:大正14.4.14(1925)
生年:嘉永2.3.3(1849.3.26)
明治大正期の官僚政治家。羽前(山形県)米沢信夫町に,米沢藩医師伊東昇迪,かるの子として生まれる。のち,藩医平田亮伯の養子となる。藩校興譲館に学ぶ。優秀ではあったが幼時より病弱で,このことは成人したのちの彼の人生にも影響を与えた。戊辰戦争(1868~69)で米沢藩は「賊軍」の会津藩と行動を共にし,平田も医者として出征した。維新後,洋学によって藩の産業を興すべく,上京し大学南校に入学,ほどなく小倉処平と共に大阪開成所勤務を命じられる。明治4(1871)年岩倉遣外使節団と共に出発し留学,プロイセンの大学で政治学,法学を学び博士号を取得して帰国,直ちに官吏となり,特に木戸孝允,品川弥二郎らに引き立てられ,山県有朋の知遇を得た。品川の養女と結婚,品川らと独逸協会を設立する。官吏としては主に法制局で活動,憲法制定その他多くの法律の制定にも関与する。その後,臨時内閣書記官長,枢密院書記官長を歴任,同時に23年には貴族院議員にも就任した。 貴族院では茶話会を指導し,研究会とも結んで同院を山県有朋閥勢力の牙城となす。34年桂太郎内閣で農商務大臣となり,特に現在の農業協同組合の前身である産業組合の発展に尽くす。小農,小商工業者が多い日本では,「衆人共同」させ殖産興業を行わせなければならないとの信念から,指導した。さらに,41年第2次桂内閣の内務大臣に就任,ここでも同様の観点から戊申詔書の発布(1908)に尽力し地方改良運動を展開した。大正政変(1912)に際しては,彼自身も首相候補に挙げられたが辞退している。また桂太郎の新党組織に対しては貴族院山県閥の新党参加を取りやめさせる方向で活動し,こののちは寺内正毅を擁立し,寺内内閣成立後は外交調査会委員,臨時教育会議総裁に就任した。山県死後の大正11(1922)年に内大臣に就任し西園寺公望元老を補佐した。法制官僚として,また中産階層以下の生活,職業を指導する内務官僚として,近代日本の建設に力を尽した。<参考文献>加藤房蔵『伯爵平田東助伝』

(季武嘉也)

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改訂新版 世界大百科事典 「平田東助」の意味・わかりやすい解説

平田東助 (ひらたとうすけ)
生没年:1849-1925(嘉永2-大正14)

明治・大正期の官僚政治家。米沢藩士伊東昇迪の次男。のち藩医平田亮伯の養子となる。幼名栄二,西涯と号する。藩校興譲館に学び,のち江戸に遊学して古賀謹堂に学ぶ。1869年(明治2)大学南校に入り,大舎長まで進む。71年岩倉使節団に随行,ドイツに留学。76年帰国し,内務省に出仕,まもなく大蔵省に移る。内閣制度創設にともない法制局に転じ,90年貴族院議員に勅選。98年には法制局長官,同年枢密顧問官となる。1901年第1次桂太郎内閣の農商務大臣となり,産業組合法制定に尽力し,04年には産業組合中央会を設立し会頭となる。08年第2次桂内閣の内相となり,地方改良運動を推進。この間,貴族院では茶話会のち幸俱楽部に属し,清浦奎吾らと山県有朋系官僚として活躍。17年臨時外交調査委員会委員,臨時教育会議総裁となり,第1次世界大戦後の国民教化の路線を敷くことに尽力。22年内大臣就任,伯爵に昇る。しばしば首相候補に擬せられたが実現しなかった。性謹厳で,絵画詩文をよくした。
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百科事典マイペディア 「平田東助」の意味・わかりやすい解説

平田東助【ひらたとうすけ】

官僚政治家。米沢藩士の出。藩校興譲館に学び,大学南校に進む。1871年岩倉使節団に随行し訪欧,1898年法制局長官,1901年農商務相,1908年内相等を歴任。品川弥二郎と信用組合の設立に尽力,1904年大日本産業組合中央会を組織,産業組合の父といわれた。地方改良運動推進,済生会創設にも貢献したが,一方で社会運動を弾圧,内相時代の大逆事件を機にいわゆる〈冬の時代〉へ追いこんだ。
→関連項目戊申詔書

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平田東助」の意味・わかりやすい解説

平田東助
ひらたとうすけ

[生]嘉永2(1849).3.2. 山形
[没]1925.4.14. 神奈川
官僚,政治家。興譲館,大学南校などに学び,官界に入った。明治4 (1871) 年岩倉具視の欧米使節に加わり,ドイツに遊学。帰国後,太政官大書記官,法制局参事官,同部長,枢密院書記官長,法制局長官などを歴任,山県有朋系の官僚として活躍した。この間,貴族院議員,枢密顧問官となり,1901年には第1次桂内閣の農商務相に就任,08年第2次桂内閣では内務相となった。のち臨時外交調査会委員,内大臣。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平田東助」の解説

平田東助 ひらた-とうすけ

1849-1925 明治-大正時代の官僚,政治家。
嘉永(かえい)2年3月3日生まれ。出羽(でわ)米沢藩(山形県)藩士の子。内務省,大蔵省をへて法制局にはいり,明治23年貴族院議員。産業組合法の制定,同組合の普及・発展につくす。第1次桂内閣の農商務相,第2次桂内閣の内相などをつとめた。大正14年4月14日死去。77歳。大学南校(現東大)卒。本姓は伊東。

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世界大百科事典(旧版)内の平田東助の言及

【産業組合】より

…産業部門の成長が本格化しつつあった明治中期において,経済政策上の大きな課題は,食糧自給の確保や輸出伸張による外貨の獲得であり,また,家族自営業や小資本経営の維持・向上をとおして地方行政の安定を図ることであった。1891年ドイツの都市型信用組合を範として,品川弥二郎,平田東助の案出した,信用組合法案が内務省から提出されたが審議未了に終わった。その後,ドイツの農村型各種事業兼営協同組合を範として農商務省から提出され,成立したのが産業組合法である。…

【地方改良運動】より

…日露戦争後,多大の戦費による財政破綻の立直しと,社会矛盾の激化,講和への不満などで動揺した民心を,国家主義で統合することを目ざして内務省主導で進められた官製運動。桂太郎内閣の内務大臣平田東助,内務次官一木喜徳郎らにより推進され,1909年以降全国の町村吏員を集めて各地で開催された地方改良事業講習会にちなんで,地方改良運動と呼ばれた。 平田ら国家官僚は,日露戦争勝利後の日本は欧米列強に伍して経済戦を戦わねばならず,したがってそれに耐えうる国内体制の整備・強化を早急に実現することが戦後の課題であると規定した。…

【農本主義】より

…以下に近代の農本主義を段階的に追ってみる。(1)前田正名,品川弥二郎,平田東助,谷干城ら明治期官僚の主張する天皇制国家の社会的基盤維持論としての官僚的農本主義である。〈夫れ全国人口中最も多数を占める中産以下人民の生計此の如く困迫せり。…

【戊申詔書】より

…渙発の年が戊申(つちのえさる)に当たっていたのでこの名がある。第2次桂太郎内閣の内務大臣平田東助の要請によるものといわれ,教育勅語とともに明治期渙発された国民教化の二大詔勅である。そこでは,戦勝の余栄にひたり華美に流れる風潮が戒められ,国家の政策に従い国民が共同一致,勤倹力行して国富の増強に邁進(まいしん)すべきことが強調された。…

※「平田東助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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