平民社(読み)へいみんしゃ

精選版 日本国語大辞典 「平民社」の意味・読み・例文・類語

へいみん‐しゃ【平民社】

明治末の社会主義結社。明治三六年(一九〇三)、反戦論立場から万朝報を退社した堺利彦幸徳秋水が結成、週刊、のち日刊の「平民新聞」を発行した。同三八年に弾圧され解散。同四〇年再興されたが三か月で解散。

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デジタル大辞泉 「平民社」の意味・読み・例文・類語

へいみん‐しゃ【平民社】

明治末期の社会主義結社。明治36年(1903)日露戦争開戦反対を唱えて「万朝報よろずちょうほう」を退社した幸徳秋水堺利彦さかいとしひこらが結成。「平民新聞」を発行。官憲の弾圧で同38年に解散。同40年、再興したが3か月で解散。

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改訂新版 世界大百科事典 「平民社」の意味・わかりやすい解説

平民社 (へいみんしゃ)

日露戦争開始の危機にあたり,非戦論を核心として結成された社会主義結社。日清戦争後,日本の朝鮮進出と軍事力の強化の中で日露関係は切迫し,対露同志会や七博士の対露強硬意見書(七博士建白事件)が口火となり各新聞論調も挙国一致・主戦に傾いていった。1903年10月堺利彦と幸徳秋水は〈退社の辞〉を掲げて《万朝報》と決別し,約1ヵ月後《平民新聞》(週刊)を発行した。創刊号で〈平民主義,社会主義,平和主義理想郷に到達せしむるの一機関〉と宣言し,世論に向かって日露非戦の活動を開始した。その発行所となり同志のたまり場となったのが平民社である。小島竜太郎,加藤時次郎らの援助を得て東京有楽町に2階家を借り,石川三四郎,西川光二郎らも加わって編集等の仕事を進めた。11月15日に出た創刊号は増刷分を含めて8000部も売れる盛況で,以降平均4000前後の読者を有した。平民社の非戦論は〈真理・正義・人類博愛〉のため〈飽くまで戦争を非認す〉(第10号)と述べるにとどまり,戦争廃止の手段は不明瞭であった。この弱点は幸徳の執筆で有名な〈与露国社会党書〉(第18号)の〈断じて闘ふべきの理有るなし〉という非戦論にも表れている。また〈嗚呼(ああ)増税〉(第20号)で堺が筆禍事件を起こし,創刊1周年に《共産党宣言》の訳出で発禁処分を受け,幸徳,堺,西川らが起訴された。

 そのほか〈平民文庫〉を次々に発行し社会主義の啓蒙を行った。幸徳編《社会主義入門》,山口孤剣《社会主義と婦人》をはじめ,木下尚江《火の柱》といった小説も含んでいた。それらを小田頼造と山口が,のちに荒畑寒村らも試みた赤い箱車による伝道行商などで地方にも宣伝販売した。社会主義協会と相前後して講演会をたびたび開催し,地方遊説,婦人講演会といった企画も進めた。森近運平岡山いろは俱楽部,横浜平民社をはじめ全国各地に地方平民結社もでき,平民社は初期社会主義の中心勢力として社会主義を宣伝する貴重な役割を果たした。上記以外の活動家・執筆陣には安部磯雄片山潜らほとんどの社会主義者を網羅していた。これは平民社内にキリスト教社会主義や改良主義,社会民主主義,無政府主義的傾向など諸潮流を内包していたことを意味し,日露戦争の終結,相次ぐ発禁処分と裁判,関係者の入獄,財政難に直面するとその思想的対立が露呈し,主柱であった《平民新聞》は1905年1月廃刊のやむなきにいたった。直後に加藤の《直言》を継承して活動を続けたが,日比谷焼打事件後の戒厳令下,無期限発禁処分をうけ内部対立もあってついに平民社は解散した。幸徳は筆禍事件で5ヵ月間入獄したのち,一時渡米していたが06年6月に帰国,堺らとともに平民社を再建した。《平民新聞》(日刊)を発刊し一時日本社会党(1906年2月結成)の機関紙ともなったが,弾圧を受けて4月に解散した。後日,荒畑が《平民社時代》(1973)の中で述べているように,平民社は社会主義の〈思想的原始時代〉のものであったが,〈初めて書斎の研究から街頭の政治運動に進出〉させたその意義はまことに大きなものであった。
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百科事典マイペディア 「平民社」の意味・わかりやすい解説

平民社【へいみんしゃ】

明治末の社会主義者の結社。非戦論から開戦論に転換した《万朝報》を退社した幸徳秋水堺利彦は1903年《平民新聞》(週刊)を創刊し,日露非戦を主張,その発行所として東京有楽町に設立され,同志の拠点となった。石川三四郎西川光二郎らも参加し読者も得たが,《共産党宣言》訳出により創刊1周年で発禁処分をうけ,幸徳,堺,西川が起訴された。その後もしばしば弾圧をうけ,財政難のうえに思想的対立も顕在化し,1905年1月《平民新聞》廃刊,後継の《直言》も日比谷焼打事件後の戒厳令下,無期限発禁となり,1905年10月解散。11月安部磯雄,石川らの《新紀元》派と西川らの《》派に分かれた。翌年,一時渡米していた幸徳が帰国し,その首唱で両派が合体,平民社を再興。1907年には日刊《平民新聞》を発行したが,弾圧をうけ同年解散した。
→関連項目大杉栄管野スガ火の柱山口孤剣

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平民社」の意味・わかりやすい解説

平民社
へいみんしゃ

明治時代の社会主義結社。日露戦争開戦に反対し萬朝報(よろずちょうほう)社を退社した堺利彦(さかいとしひこ)、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が、非戦の主張を貫くため1903年(明治36)10月27日に設立。東京有楽町の社屋には多くの社会主義者が出入りし、11月15日には週刊『平民新聞』を発刊。同紙は05年1月29日に廃刊を余儀なくされたものの、加藤時次郎の主宰する直行(ちょっこう)団の機関紙『直言(ちょくげん)』を譲り受け、平和主義と社会主義とを主張し続けた。また同社は社会主義協会と提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、木下尚江(なおえ)『火の柱』など15冊の平民文庫も送り出した。しかし、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため05年10月9日解散した。

 こののち社会主義陣営はキリスト教社会主義者による『新紀元』派と、唯物論的社会主義者による『光』派に分かれたが、1907年1月15日に両派の石川三四郎、西川光二郎(みつじろう)、幸徳秋水、堺利彦、竹内兼七(かねしち)が提携しふたたび平民社がおこされ、日刊『平民新聞』が発刊された。しかし社内で議会政策派と直接行動派の分裂がみられたうえ、政府の弾圧はいっそう厳しくなり、07年4月14日に廃刊、平民社も解散した。通算2年余、再興後はわずか3か月の活動であったが、社会主義の統一的な実践団体として、日本の社会主義史上に大きな足跡を残している。

[成田龍一]

『荒畑寒村著『平民社時代』(1973・中央公論社)』『太田雅夫編『明治社会主義資料叢書2 平民社日記 予は如何にして社会主義者となりし乎』(1972・新泉社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平民社」の意味・わかりやすい解説

平民社
へいみんしゃ

週刊『平民新聞』発行のため幸徳秋水と堺利彦が 1903年 10月 27日に設立した結社。安部磯雄,片山潜らの支持を得,社会主義,反戦運動の拠点となったが,日露戦争中政府権力の弾圧を受け,05年1月 29日第 64号をもって『平民新聞』は廃刊した。後継紙として『直言』がすぐに出されたが,これも日比谷焼打ち事件を扱った9月 10日付第 32号が発禁になったのち,唯物論派とキリスト教派の内部紛争が起り,05年 10月9日平民社は解散した。 06年日本社会党結成を機に,同年末両派は合流して平民社を再興。 07年1月 15日から4月 14日まで『平民新聞』を発行した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平民社」の解説

平民社
へいみんしゃ

明治後期の初期社会主義の結社。日露戦争を前に対露強硬の世論が高まるなか,「万朝報(よろずちょうほう)」を退社した幸徳秋水・堺利彦は,非戦論を掲げて1903年(明治36)11月に週刊「平民新聞」を創刊。発行所が平民社で,平民文庫の出版や講演会・地方遊説など社会主義の啓蒙も行った。日露戦争後の弾圧などで,「平民新聞」の後継紙「直言」の廃刊後05年10月に解散。日本社会党結成後の07年1月再興されたが,同年4月に解散。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平民社」の解説

平民社
へいみんしゃ

明治後期の社会主義の結社
日露戦争直前の1903年,非戦論を唱えて,幸徳秋水・堺利彦らが結成。平民主義・社会主義・平和主義を掲げ,機関紙『平民新聞』発行のほか社会主義関係図書の出版,演説会などを行い,社会主義活動の中心となったが,政府の弾圧により'05年解散。'07年再興したが,同年解散。

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世界大百科事典(旧版)内の平民社の言及

【火鞭】より

…幸徳秋水,堺利彦らの平民社を中心として生まれた社会主義的青年文学研究会,火鞭会の機関誌。1905年(明治38)9月~06年5月まで9号発行され,《ヒラメキ》に合併。…

【普選運動】より

…02年から03年にかけての日露戦争直前の時期が同盟会の最盛期で,東京とその周辺に限定されてはいたが,活発な演説活動を行った。日露戦争により運動は沈滞したが,平民社による請願運動は継続した。戦後社会主義者と急進主義者との連帯行動が復活したが,07年から09年にかけて,無政府主義の進出による社会主義陣営の分裂により運動は沈滞した。…

【平民新聞】より

…いまだ無定型の状態にあった初期社会主義運動は,この新聞の媒介する交流関係によって運動面でも思想面でも自己形成していった。原則としてタブロイド判8ページ建ての紙面では,社会主義・平和主義論文,外国の運動紹介,国内の集会・演説会などの報告,全国各地の読者からの投書などによって中央の平民社と全国に散在する同志の間あるいは地方同志相互の間に交流をつくりだそうとしている。平均の発行部数は3000~4000部程度であった。…

※「平民社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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