平戸城跡(読み)ひらどじようあと

日本歴史地名大系 「平戸城跡」の解説

平戸城跡
ひらどじようあと

[現在地名]平戸市岩の上町

平戸瀬戸に臨む亀岡かめおか山に築かれた近世城の跡。同山にははじめ日之岳ひのたけ城が築かれていた。平戸城は平戸島の北にあるため玄武げんぶ城とも、玄武の徴が亀であることから亀岡城とも、また朝日岳あさひだけ城とも称された。三方を海に囲まれた海城ともいうべき平山城で、江戸時代は平戸藩の政庁として機能した。

〔戦国大名から近世大名へ〕

平戸松浦氏は平戸党の結束を利用しながらも族的結合を否定し、隆信(道可)の時代には北松浦きたまつら地方および壱岐国を領有する戦国大名であった。天正一五年(一五八七)豊臣秀吉の九州仕置に伴い、島津攻めに参陣したこともあって隆信の子鎮信(法印)は旧領知を安堵された。この間、鎮信は人質を差出し、南蛮笠・象牙・猩々皮胴張・孔雀などを秀吉に贈り、天正一四年八月にはその命を受けて領内湊町の唐人の鋳物師大工の古道を方広ほうこう(現京都市東山区)の大仏作事にあたらせるため上洛させている(同月一五日「羽柴秀吉朱印状」松浦家文書)。同年六月二八日の羽柴秀吉朱印状(同文書)では領知の宛行とともに「壱岐国其外所々」の検地の施行を命じており、朝鮮半島への出兵を意図する秀吉にとって松浦氏の所領の把握は重要であった。同一九年に鎮信は明国・高麗への動座に備えて壱岐に設ける座所の普請を有馬氏・大村氏・五島氏らと協力して行うことを命じられ、朝鮮出兵ではこの三氏や宗氏とともに小西行長が率いる一番隊に属して出陣、また兵糧の輸送などにも活躍した(同文書)。このとき三千人を編制しているが(天正記)、慶長二年(一五九七)の再征ではやはり行長の二番隊にあって三千人を編制した(二月二一日「豊臣秀吉朱印状」浅野家文書)。この慶長の役では秀吉は留守居の者の妻子を人質として大坂に差出し、出兵しない者には成敗を加えるよう命じているが、キリシタン禁制などと合せて前代からの一門諸氏や有力家臣の統制または排除を推進することになり、近世大名としての基盤を固めていった。

平戸藩主は鎮信(法印)を初代として一度の転封もなく、久信(泰岳)・隆信(宗陽)・鎮信(天祥)・棟(雄香)・篤信(松英)・有信(等覚)・誠信(安靖)・清(静山)・熙(観中)・曜(諦乗)・詮(心月)と一二代にわたった。外様大名で柳間詰。

〔日之岳城と平戸城〕

慶長四年(同八年とも)初代鎮信の時代に亀岡山に築城、日之岳城と称し、また城下の建設も進められた。亀岡古城図(元禄一六年写、松浦史料博物館蔵)によれば、北東部に本丸、その西手に二ノ郭、同じく南に三ノ郭があり、北部に外郭と記され、南西部に大手とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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