常磐炭田(読み)じょうばんたんでん

精選版 日本国語大辞典 「常磐炭田」の意味・読み・例文・類語

じょうばん‐たんでん ジャウバン‥【常磐炭田】

福島県南東部から茨城県北部にひろがる炭田。江戸末期に炭層が発見され、明治初期から本格的に採炭。石狩炭田筑豊炭田に次ぐ日本第三の炭田だったが、昭和五一年(一九七六)すべて閉山。

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デジタル大辞泉 「常磐炭田」の意味・読み・例文・類語

じょうばん‐たんでん〔ジヤウバン‐〕【常磐炭田】

福島・茨城両県にまたがる炭田。中心はいわき市。かつては筑豊石狩に次ぐ大炭田。昭和51年(1976)に閉山。

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日本歴史地名大系 「常磐炭田」の解説

常磐炭田
じようばんたんでん

阿武隈高地東縁、福島県と茨城県にまたがり、南北九五キロ・東西五―二五キロの地域にわたる。北部は硫黄分の多い有煙炭、南部は硫黄分の少ないいわゆる茨城無煙炭を産出し、いずれも低カロリーのため一般燃料炭に用いられた。茨城県側の炭田を茨城炭田あるいは常磐南部炭田とよぶ。北部の当地方では、安政二年(一八五五)大森おおもり村の片寄平蔵白水しらみず村の弥勒沢みろくざわで石炭の露頭を発見した。以来小規模な採掘が続けられていたが、明治一〇年(一八七七)西南戦争時に京浜地帯の石炭不足により常磐炭があらためて注目された。同一七年浅野総一郎らが磐城炭礦社を設立し、同二六年磐城炭礦株式会社となる。

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改訂新版 世界大百科事典 「常磐炭田」の意味・わかりやすい解説

常磐炭田 (じょうばんたんでん)

阿武隈山地の東縁,福島県と茨城県にまたがり,南北95km,東西5~25kmの地域を占める炭田。全体として東に傾き,古第三紀白水層群の基底部に2~4炭層,炭厚1~3mで賦存している。炭質は非粘結性の亜歴青炭を主とし褐炭と歴青炭も一部みられる。炭田ガス,坑内温泉の湧出などの地質的特性がある。埋蔵量は約2億tであり,かつては工業地帯に近い炭田として栄えた。
執筆者: 常磐炭田の北部は硫黄分の多い有煙炭を,南部は硫黄分の少ないいわゆる茨城無煙炭を産出し,いずれも低カロリーのため一般燃料炭に用いられた。常磐炭の採掘が始まったのは,南部では1851年(嘉永4)神永喜八が,北部では55年(安政2)片寄平蔵がそれぞれ最初であった。以後小規模な採掘が続けられたが,常磐炭があらためて注目されたのは西南戦争時の京浜地方の石炭不足のためであった。浅野総一郎らが1883年磐城炭礦社を設立し,やがて近代的炭鉱業が成立した。97年に常磐線が開通し,京浜地方への石炭の鉄道輸送が可能になり,常磐地方の炭鉱業は急速に発展した。生産高は96年には8万tであったが,1906年には100万tを突破した。鉱夫管理には飯場制度が導入され,また零細鉱には通勤鉱夫が多かった。第1次大戦期には黄金時代を迎え,18年には380万tを生産したが,20年代の不況期には炭鉱業の再編が進行した。入山採炭は大倉組に譲渡され,大日本炭礦は三井鉱山に経営を委託した。長壁式採炭法が普及し,採炭機械化も進行し,主要炭鉱では飯場制度が解体された。戦時期には増産に努め,43年戦前期最高の382万tを生産し,44年には磐城と入山が合併常磐炭礦が設立された。第2次大戦後,経済再建の重点産業のひとつに位置づけられ,年間400万t前後の生産を維持し,51-52年ころからカッペ採炭法も普及し,57年には史上最高の430万tを生産した。58年ころから閉山が相次いだが,主要炭鉱の合理化努力によって70年まで350万t以上の生産を維持した。しかし71年には常磐炭礦磐城鉱が閉山し,生産も178万tに急減し,76年西部鉱が閉山し,常磐炭礦は石炭採掘から撤退し,常磐炭田の生命は終わった。80年代にわずかの生産をしていた露天掘炭鉱も閉山した。閉山後は,炭鉱の坑内湯の利用を目的に常磐ハワイアンセンター(現,スパリゾートハワイアンズ)が設立された。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常磐炭田」の意味・わかりやすい解説

常磐炭田
じょうばんたんでん

福島県南東部から茨城県北東部にかけて分布した石炭埋蔵地域。南北95キロメートル、東西5~25キロメートル、面積780平方キロメートル、西高東低の傾斜で海底にも広がる。炭質は非粘結性の瀝青炭(れきせいたん)、褐炭で、平均5300カロリーの低品位で原料用炭には向かず一般燃料用炭であった。

 1855年(安政2)、片寄平蔵(かたよせへいぞう)が現在のいわき市内郷(うちごう)白水(しらみず)の弥勒沢(みろくさわ)で炭層を発見して本格的稼行が始まり、小名浜(おなはま)、中之作(なかのさく)などの海港から帆船で江戸、横浜方面へ出荷した。1877年(明治10)の西南戦争による九州炭の輸送困難を機に注目されるようになり、1883年浅野系資本による磐城炭礦社(いわきたんこうしゃ)の設立、1890年川崎系(のち大倉系)の入山採炭株式会社(いりやまさいたんかぶしきがいしゃ)の設立で本格的な資本制採炭が始まった。斜坑の採用、蒸気機関の採用、小名浜への軽便鉄道の敷設など生産、搬出の基盤整備が進められた。1897年の常磐線の開通は本州における常磐炭田の地位を確立させた。

 1944年(昭和19)戦時措置により磐城炭礦と入山採炭が合併して常磐炭礦株式会社となり、戦中戦後のエネルギー供給に貢献、地域の社会、経済に影響を与えたが、1971~1976年のエネルギー革命の波は多くの坑口を閉ざした。現在採掘は行われていない。炭田の中心地いわき市常磐湯本(かつての磐城礦業所)にいわき市石炭・化石館がある。

[原田 榮]


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百科事典マイペディア 「常磐炭田」の意味・わかりやすい解説

常磐炭田【じょうばんたんでん】

福島県と茨城県にまたがる炭田。阿武隈(あぶくま)高地東麓から海岸まで南北約95km,東西5〜25km,炭層は太平洋の海底に及ぶ。茨城県側の炭田を,茨城炭田あるいは常磐南部炭田とよぶ。石炭の発見,利用は江戸時代にさかのぼるが,商品としての採掘は幕末からで,近代的採掘は明治中期以後。炭質は発熱量が小さく低品位で,炭鉱は中小規模のものが多く,京浜地区に近いので利用されてきた。1976年すべて閉山,現在は露天掘でわずかに出炭があるのみである。閉山後は常磐湯本温泉(株)が設立され,1日約760tの湯をくみ上げ,大型リゾート施設や温泉旅館その他に給湯している。→石炭産業
→関連項目いわき[市]小名浜高萩[市]福島[県]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常磐炭田」の意味・わかりやすい解説

常磐炭田
じょうばんたんでん

福島,茨城両県にまたがる炭田。阿武隈山地東部にあり,旧称の常陸と磐城の両国に広がるのでこの名称がある。南北 80km,東西は陸域で5~25kmで,炭層は太平洋の海底にまで及ぶ。推定埋蔵量 11億t。産出される石炭は水分が多く,発熱量は低い。安政2 (1855) 年片寄平蔵が白水の弥勒沢で露頭を発見し,採炭したのが始りといわれる。 1881年開設した小野田炭坑が近代的採炭方法に切替え,本格的に採掘されるようになった。 97年国鉄常磐線が平まで延びて京浜地方への送炭に利用され,急速に発展。明治末頃磐城,入山,内郷は常磐炭田の三大炭鉱であった。出炭の最盛期は 1952年頃。以後,石炭産業の斜陽化に伴い,閉山が続いた。 77年初めには大手の常磐炭鉱が姿を消し,低品位炭を使用した常磐共同火力発電所も重油に切替えられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「常磐炭田」の解説

常磐炭田
じょうばんたんでん

福島県と茨城県にまたがる炭田。主として福島側は亜瀝青炭,茨城側は半無煙炭を産出。常磐炭は炭質でやや劣るが,首都圏に近く,工業用・家庭用炭として広く利用された。1851年(嘉永4)にはじめて採掘。本格的な開発は83年(明治16)磐城炭鉱創立に始まり,97年の常磐線開通によって発展。有力企業は常磐炭鉱(磐城炭鉱・入山採炭の合併),古河好間(よしま),大日本炭鉱など。1977年(昭52)5月常磐炭鉱西部炭鉱が閉山し終掘。

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