常磐津文字太夫(読み)ときわずもじたゆう

精選版 日本国語大辞典 「常磐津文字太夫」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐もじたゆう【常磐津文字太夫】

初世。常磐津節太夫常磐津節の始祖。本名駿河屋文右衛門。京都の人。宮古路国太夫半中(豊後掾)の門弟。師とともに、江戸に下り、豊後節禁止後、常磐津と改め流派を統率した。宝永六~天明元年(一七〇九‐八一

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デジタル大辞泉 「常磐津文字太夫」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐もじたゆう〔ときはづモジタイフ〕【常磐津文字太夫】

[1709~1781]初世。常磐津節創始者。京都の人。俗称、駿河屋文右衛門。初世宮古路豊後掾みやこじぶんごのじょう師事宮古路文字太夫と名のって江戸で豊後節の再興に努めたが、延享4年(1747)常磐津と改姓して一流を興した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常磐津文字太夫」の意味・わかりやすい解説

常磐津文字太夫
ときわずもじたゆう

常磐津節の家元名。

[林喜代弘・守谷幸則]

初世

(1709?―81)常磐津節の創始者。京都・寺町町人の出で、俗称駿河屋(するがや)文右衛門。宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が国太夫半中(くにたゆうはんちゅう)時代の門人で、初名は右膳(うぜん)。1734年(享保19)師と江戸に下り、文字太夫と改名してワキを勤め、36年(元文1)に立語りとなる。39年の豊後節の禁止後も江戸に在住し、47年(延享4)一流を樹立した。75年(安永4)一世一代の出語りを最後に隠棲(いんせい)。俳名文中。常磐津が独立した年の翌年、1748年(寛延1)に小文字太夫が脱退富本節を創始するといった事件があり、69年(明和6)から82年(天明2)には志妻(しづま)太夫が豊名賀(とよなか)派を、造酒(みき)太夫が富士岡派を樹立している。

[林喜代弘・守谷幸則]

2世

(1756―99)通称藤兵衛。初世の門弟。初名兼(かね)太夫。初世兼太夫から1787年(天明7)2世を継ぐ。99年(寛政11)6月に引退。引退の年に2世兼太夫が家元相続の争いから常磐津を脱退、吾妻国(あづまくに)太夫と改名、独立した。また、さかのぼっては91年に初世鳥羽屋里長(とばやりちょう)が富本節へ転じている。

[林喜代弘・守谷幸則]

3世

(1792―1819)2世の子。通称林之助(りんのすけ)。1819年(文政2)3世を襲名したが、その年の暮れに28歳で死去

[林喜代弘・守谷幸則]

4世

(1804―62)幼名男熊(おぐま)。初世の孫の初世市川男女蔵(おめぞう)の次男。1837年(天保8)4世を襲名。50年(嘉永3)豊後大掾(ぶんごだいじょう)を受領(ずりょう)。4世岸沢古式部との間に不和が生じ、岸沢派は分離独立した。この分離独立は明治に7世小文字太夫(後の初世常磐津林中(りんちゅう))によって和解が成立するまで続く。さらに1906年(明治39)林中が死去するとふたたび対立、岸沢は新派と称して分裂したが、27年(昭和2)常磐津協会の設立により解消した。

[林喜代弘・守谷幸則]

5世

(1822―69)4世の養子林之助。清元で琴太夫と名のっていたが望まれて養子に入り、若太夫から1837年(天保8)小文字太夫となり、62年(文久2)に5世を襲名したが、ゆえあって離縁。別家して6世兼太夫となる。

[林喜代弘・守谷幸則]

6世

(1851―1930)本名常岡丑五郎(うしごろう)。初名は浪花(なにわ)太夫。1888年(明治21)6世小文字太夫(佐六文中)の未亡人の養子となり、小文字太夫を襲名。1902年(明治35)6世を継承。26年隠居して2世豊後大掾と改名した。東京音楽学校(現東京芸術大学)の嘱託となり常磐津節の五線譜化に努めた。

[林喜代弘・守谷幸則]

7世

(1897―1951)本名常岡鉱之助。6世の養子となり、小文字太夫を継ぐ。6世の隠居とともに7世を襲名。

[林喜代弘・守谷幸則]

8世

(1918―91)本名常岡晃(あきら)。7世の実子。1951年(昭和26)8世を継ぐ。

[林喜代弘・守谷幸則]

9世

(1947― )本名常岡薫(かおる)。8世の実子。1976年(昭和51)8世小文字太夫を継承、91年(平成3)父の死去に伴い家元となる。94年9世襲名。なお、小文字太夫の名跡は現家元家では離縁されたものを含まないため代数の計算があわない場合がある。

[林喜代弘・守谷幸則]

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改訂新版 世界大百科事典 「常磐津文字太夫」の意味・わかりやすい解説

常磐津文字太夫 (ときわづもじたゆう)

常磐津節の家元。(1)初世(1709-81・宝永6-天明1) 京都寺町の生れ。俗称駿河屋文右衛門。位牌商であったが,1716-26年(享保1-11)ごろ宮古路国太夫(のちの宮古路豊後掾)の門弟(のちに養子)となり,宮古路文字太夫(一説に前名を右膳とする)と名のる。豊後掾は32年から34年正月ごろまで名古屋滞在ののち江戸に下る。文字太夫は京から江戸へ直行し,34年9月葺屋町河岸播磨芝居,翌35年7月中村座の《睦月連理𢢫(むつまじきれんりのたまつばき)》で師の脇を勤める。いずれも大入りで大当り。以後豊後節は江戸で大流行したが,36年(元文1)3月市村座の文字太夫の《小夜中山浅間嶽》に上演中止の沙汰が出され,39年には豊後節は一切禁止となった。文字太夫は師を助けて豊後節の隆盛に努めたが,逆に文字太夫の人気が豊後節の弾圧を呼んだともいえよう。文字太夫の髪形に似せた文金島田が当時流行の風俗となったが,この髪形も含めて,対丈(ついたけ)の長羽織・長紐といった奇抜な格好が風俗の乱れの一つとして取締りの対象となったことや,市村座の文字太夫浄瑠璃に停止の沙汰が出されたことなどがその証左として挙げられる。豊後節禁止後も文字太夫は江戸に留まり再起の機会を狙っていたが,豊後節復活運動が功を奏して43年(寛保3)秋中村座に脇志妻太夫,三味線佐々木幸八で出演した。同門の綱太夫,加賀太夫,数馬太夫らもそれぞれ独立したが,文字太夫は自身の門弟のみで46年(延享3)9月豊後掾の七回忌に追善の石碑を浅草に建て,豊後掾の正統な後継者であることを内外に示した。翌47年豊後節にみずからの工夫を加え一流を創始し関東姓を名のったが,幕府から差し止められ改めて常磐津と名のった。江戸三座を中心に活躍し,65年(明和2)中村座の《蜘蛛の糸》はその代表曲である。75年(安永4)11月森田座での《樹花恋浮船(きごとのはなこいのうきふね)(茶筅売)》を最後に隠居し松寿斎文中と名のった。(2)2世(1731-99・享保16-寛政11) 初世門弟。初名鐘太夫,のち兼太夫(初世常磐津兼太夫)を経て1787年(天明7)2月初世の七回忌を機に文字太夫を襲名。初世里長の富本移籍,2世兼太夫の破門などの紛争もあったが,《関の扉》《古山姥》《戻駕》のほか《小松曳》《葛の葉》《古お半》などの名作を語り,常磐津を隆盛に導いた。99年6月病床で常磐津太夫文中と改名,実子林之助に2世常磐津小文字太夫を名のらせた。(3)3世(1792-1819・寛政4-文政2) 2世小文字太夫を経て1819年7月文字太夫を襲名。これ以後小文字太夫は文字太夫の控え名(前名)となる。富本との勢力争いに鎬(しのぎ)を削り,28歳の若さで死没。(4)4世(1804-62・文化1-文久2) 3世の養子。初世の女婿2世市川門之助の長男初世男女蔵の次男男熊(おくま)。1820年(文政3)冬3世小文字太夫をついだのち,37年(天保8)正月文字太夫を襲名,50年(嘉永3)12月嵯峨御所より受領して豊後大掾藤原昶光と名のる。《角兵衛》《釣狐》《夕涼み三人生酔》《お三輪》《靱猿》《粟餅》《新山姥》など,現存の常磐津曲の多くはこの時代に作られた。60年(万延1)立三味線4世古式部と対立,袂を分かつ。この後の三味線方松寿斎文中は一説に豊後掾自身であるといわれる。(5)5世(1822-69・文政5-明治2) 4世の養子。初め清元を学び琴太夫と称したが,1836年(天保7)養子となり,2世林之助と改名,翌37年4世小文字太夫を相続。豊後大掾没後に文字太夫を襲名。のち故あって離縁となり,独立して6世兼太夫を名のる。(6)6世(1851-1930・嘉永4-昭和5) 桐生の大工職人の子。幼名真田丑五郎。3世岸沢三蔵に師事,小金,三吉,文蔵,式松と改名,のち語りに転向,小花(尾花)太夫,浪花太夫を経て,1888年7世小文字太夫離縁後,家元(豊後大掾庶子佐六文中の未亡人)の養子となり,8世小文字太夫を相続,本姓を常岡と改める。1902年4月文字太夫を襲名。26年5月2世豊後大掾を名のる。小音であるが技巧に優れていた。東京音楽学校邦楽調査掛の嘱託として五線譜化に協力した。(7)7世(1897-1951・明治30-昭和26) 本名常岡鉱之助。6世の妻の甥小政太夫の次男。6世の養子となり,初名小文太夫,1925年9世小文字太夫をつぎ,翌26年9月文字太夫を襲名。(8)8世(1918-91・大正7-平成3)7世の長男。本名常岡晃。1948年10世小文字太夫をつぎ,51年文字太夫を襲名。

 なお,常磐津家元系図は,伊藤出羽掾を初世とするので,これを加えると系図上は現在16世となる。
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百科事典マイペディア 「常磐津文字太夫」の意味・わかりやすい解説

常磐津文字太夫【ときわづもじだゆう】

常磐津節演奏家の芸名。9世まである。初世〔1709-1781〕は常磐津節の始祖。京都の仏具商人の息子。俗称駿河屋文右衛門。宮古路豊後掾(ぶんごのじょう)の高弟。豊後節禁止によって豊後掾が京都へ帰った後も江戸にとどまり,豊後節再興に力を尽くした。
→関連項目常磐津節

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世界大百科事典(旧版)内の常磐津文字太夫の言及

【常磐津節】より

…流祖宮古路豊後掾は帰京してしまうが,江戸にとどまった有力な門弟のうち,豊後掾の養子となった宮古路文字太夫は43年(寛保3)から再び劇場に出演し,豊後節にくふうを加えて一流を創始した。47年(延享4)姓を関東としたが幕府より差し止められ,再度改めて常磐津文字太夫を名のり,志妻,小文字両太夫,三味線初世佐々木市蔵を連れて中村座に出演,ここに常磐津節が成立した。
[展開]
 常磐津節成立の翌年,常磐津小文字太夫は独立して富本節を創始,以後両者はつねに勢力を競うことになる。…

※「常磐津文字太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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