帯方郡(読み)たいほうぐん(英語表記)Dài fāng jùn
Taebang-gun

精選版 日本国語大辞典 「帯方郡」の意味・読み・例文・類語

たいほう‐ぐん タイハウ‥【帯方郡】

古代朝鮮半島の中部西岸に置かれた中国の郡名。後漢末に遼東太守公孫度楽浪郡を併有、その子公孫康が同郡の南部を分割して称したもの。三一三年、韓・濊(わい)族によって滅ぼされるまで約一一〇年間存続。倭との通交で名高い。

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デジタル大辞泉 「帯方郡」の意味・読み・例文・類語

たいほう‐ぐん〔タイハウ‐〕【帯方郡】

中国後漢末に遼東の太守、公孫康が朝鮮半島楽浪郡の南部に設置した郡。南接する韓・わい族に備えた。約110年続き、313年、韓・濊族に滅ぼされた。邪馬台国やまたいこくの女王卑弥呼ひみこの朝貢で知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「帯方郡」の意味・わかりやすい解説

帯方郡 (たいほうぐん)
Dài fāng jùn
Taebang-gun

朝鮮半島の西岸中央部(ほぼ現在の黄海道方面)に設立された中国の郡名。漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして,前108年その故地に楽浪郡(郡の中心は朝鮮県)をおいたが,後漢の末ころから遼東地方の太守として勢力の強かった豪族公孫度は,三国の魏(曹魏)の時代になると漢末中国政権の動乱に乗じて独立的存在となった。公孫度の死後,その子,公孫康はますます独立的傾向を強め,夫余や高句麗を威圧し,さらに南下して中国の前進基地ともいうべき楽浪郡を支配下においた。しかし楽浪郡の南部には韓・濊(わい)諸族の勢力が台頭しているので,これらを統制する必要から郡をほぼ二分し,屯有県以南を新しく帯方郡として南方諸族経略の根拠地とした。帯方郡はまた海を隔てた倭国に対する制圧の目的もあった。有名な3世紀前半ころの倭の女王卑弥呼の使者の魏への朝貢もこの帯方郡を経由するものであった。帯方郡は魏が238年,公孫氏を滅亡させるとともに楽浪・帯方2郡も同時に魏の支配下におかれたが,やがて西晋が魏に代わると西晋の支配におかれた。その前後から中国支配の衰退に乗じて逐次勢力を伸ばしていた高句麗は,313年,漢以来の中国支配の象徴ともいうべき楽浪郡を滅ぼして半島への南下を図ったが,ほぼ同じころ帯方郡も南部の韓・濊諸族によって併合され,やがて百済がこの地方におこり朝鮮の古代史は新しい様相を呈することになった。

 帯方郡は《晋書》の地理志に拠ると,帯方,列口,南新,長岑(ちようしん),提奚(ていけい),含資,海冥(かいめい)の7県を統轄したことになっているが,この7県が現在のどこに比定されるかについては帯方県以外はほとんど不明である。帯方県については,現在の黄海道鳳山郡沙里院面にある唐土城が旧帯方郡治址と推定され,そこからは多くの瓦,塼,泉(銭)などが発見されており,それらは旧楽浪郡時代の出土品と同種である。特筆すべきことは,その付近の墳墓群に,1912年〈帯方太守,張撫夷塼〉という銘のある塼室墓(せんしつぼ)が発見されたことで,その結果,在来不明であった帯方郡の位置を推定する重要な手がかりを得たことである。これらによって帯方郡の所在は,ほぼ現在の大同江以南,載寧江両岸にわたる地域であったと推定されている。

 なお,ここで注意しておきたいのは,最近の朝鮮の学界,とくに朝鮮民主主義人民共和国では上述のような楽浪・帯方2郡についての日本における定説に対しまったく異なる見解を示していることである。すなわち,その所在地も在来の定説である半島北西部の,ほぼ現在の平壌付近説を排して,さらに北方の遼河付近に比定し,また郡の性格も中国政権の出先機関といったものではなく,在地の朝鮮人によって構成されていたとするもので,現状ではこの学説は文献考証の上からは疑問であるが,今後の問題として一考に値する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「帯方郡」の意味・わかりやすい解説

帯方郡
たいほうぐん

古代朝鮮に置かれた中国の郡。後漢(ごかん)末の内乱を契機に楽浪(らくろう)郡は急激に衰え、3世紀初頭、遼東(りょうとう)の公孫(こうそん)氏政権はついに楽浪郡を支配し、屯有県以南を分ち郡を設置した。これが帯方郡であり、その目的は、南に隣接する韓族、濊(わい)族への対処であったと考えられる。楽浪郡とともにその後、魏(ぎ)、晋(しん)に引き継がれたが、313年に楽浪郡は高句麗(こうくり)に滅ぼされ、ついで帯方郡も韓族、濊族によって滅ぼされた。郡治の位置や境域は明確でなく、現在の黄海道から京畿(けいき)道の北部地方がその境域と推定される。また黄海道鳳山(ほうざん)郡文井面(ぶんせいめん)石城里からは「帯方太守張撫夷(ちょうぶい)」の銘をもつ塼(せん)(焼成れんが)が出土しており、ここを郡治址(し)とみなす説もある。漢代には楽浪郡に朝貢していた韓、濊、倭(わ)の諸種族は、帯方郡設置後はここに朝貢した。239年、倭の女王卑弥呼(ひみこ)の入貢に対し、魏は帯方太守に付して金印を与えたことは有名である。楽浪郡とともに東アジア諸国に果たした役割は大きい。

[李 成 市]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「帯方郡」の解説

帯方郡
たいほうぐん

後漢末の3世紀初頭に,遼東大守として自立した公孫(こうそん)氏が,朝鮮半島の楽浪郡を支配し,その屯有県以南をわけて設置した郡。郡域は現在の黄海道から京畿道北部で,郡治は黄海道鳳山郡沙里院駅の東南の俗称唐土(とうど)城とされる。近くの古墳から「帯方大守張撫夷」銘の塼(せん)が出土。ソウル付近に比定する説もある。楽浪郡と一体となって周辺諸民族を支配し,魏の時代には邪馬台(やまたい)国の女王卑弥呼(ひみこ)も朝貢した。313年に楽浪郡が高句麗に滅ぼされると,つづいて韓・濊(わい)族によって滅ぼされた。

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百科事典マイペディア 「帯方郡」の意味・わかりやすい解説

帯方郡【たいほうぐん】

古代朝鮮の西海岸中央部に置かれた中国の植民地。現在のソウル付近が中心。3世紀初め,遼東の公孫康が楽浪郡(らくろうぐん)の南部をさいて新設し,隣接する韓・【わい】族に備えた。238年魏の領有に帰し晋(西晋)が継承。4世紀初め韓・【わい】族の支配下に入り,やがて百済(くだら)がこの地におこる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「帯方郡」の解説

帯方郡(たいほうぐん)

朝鮮半島西海岸中央部(黄海道中心)にあった中国の郡。3世紀初め,楽浪郡を支配した遼東の公孫康(こうそんこう)が,郡の南部を割いて新設。南接の韓族,濊(わい)族を統御する役割を果たし,の通交もあった。郡の主権は西晋が継承し,313年韓,濊族に滅ぼされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「帯方郡」の解説

帯方郡
たいほうぐん

3世紀初め朝鮮にあった,中国が直接統治した郡
後漢から独立した公孫 (こうそん) 氏が,楽浪郡の南半をさいて設置。現在のソウル付近が中心。後漢が滅亡し,238年魏王朝の支配下に入ると,翌年邪馬台国 (やまたいこく) 女王卑弥呼 (ひみこ) が使を送り,通交を求め,以後魏との通交の中継地となった。4世紀初め中国勢力が衰退し,百済 (くだら) 領となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「帯方郡」の解説

帯方郡
たいほうぐん

3世紀に,朝鮮西海岸中央部に置かれた中国の郡
3世紀初め,遼東地方に独立勢力を有していた公孫氏が楽浪郡を手中に収め,その南半をさいて置いた郡で,韓・濊 (わい) 両族の統御および倭 (わ) や三韓などの朝貢事務はここで扱われた。中心は現在のソウル付近。のち中国の勢力の後退で4世紀初めに滅び,新興の百済 (ひやくさい) 領となった。

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