川越(読み)カワゴエ

デジタル大辞泉 「川越」の意味・読み・例文・類語

かわごえ〔かはごえ〕【川越】

埼玉県中南部の市。もと酒井氏らの城下町で、松平信綱のときに整備されて発達。土蔵造りの町並みが残り、史跡や文化財が多い。さつまいもなど野菜栽培が盛ん。住宅地。古代は河肥、中世は河越とも書き、近世から川越となった。人口34.3万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「川越」の意味・読み・例文・類語

かわ‐ごし かは‥【川越】

〘名〙
① 川を隔てていること。また、その所。対岸。
貫之集(945頃)一「人の、木の下にやすみて、かはごしにさくらを見たる所」
② 徒歩で川を渡り越すこと。かちわたり。
雑兵物語(1683頃)上「今日は川越が有べいに、胴乱を首に付べい」
③ 大きい川で、人を肩または輦台(れんだい)、馬などに乗せて渡すこと。また、それを業としている者。川越し人足。
仮名草子東海道名所記(1659‐61頃)三「ぬれねづみの如くになりて、やうやうむかひの岸にあがるもあり。嶋田の者は、川ごしに出る」

かわごえ かはごえ【川越】

(古代は「河肥」、鎌倉末期から「河越」、近世に至って「川越」と書かれるようになった) 埼玉県中南部の地名。中世末から近世にかけて酒井、堀田、松平氏などの城下町として発展。大正一一年(一九二二)市制。

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改訂新版 世界大百科事典 「川越」の意味・わかりやすい解説

川越[市] (かわごえ)

埼玉県南部の市。1922年川越町が仙波村と合体して県下で初めて市制。人口34万2670(2010)。武蔵野台地北端から入間川,荒川の沖積低地にまたがる。鎌倉時代に河越重頼の館が入間川西岸低地の上戸に築かれ,15世紀中ごろには台地北端に河越城が築城されて,城下町川越の歴史が始まった。江戸時代には江戸北方の要の城として重視され,城主に松平信綱や柳沢吉保など譜代の重臣が配置されたこともあって,川越街道や新河岸川によって江戸との交通も盛んになり,〈小江戸〉といわれるほどに栄えた。明治維新後,入間県庁が置かれたこともあったが,城下町としての伝統を引き継いで商業の中心地となり,1878年には第八十五国立銀行が開設され,穀物や蚕糸,狭山茶や川越いもの取引も多く,県下最大の都市として発展した。95年に川越鉄道(現,西武新宿線),1906年には川越電気鉄道(現,JR川越線),14年には東武東上線が通じたことによって,舟運から鉄道の時代へ入ったが,本川越,川越,川越市の3駅統合問題は現在も川越市民の悩みの一つである。都心から40km圏に位置し,新宿や池袋まで鉄道で直結し,国道254号線と16号線が交わっているため,60年代から住宅や工場が増え,64年には霞ヶ関地区の角栄住宅団地と県下最大の川越狭山工業団地の分譲も始まった。1971年には関越自動車道(練馬~川越間)が開通し,工業団地への交通が至便になった。1961年に東洋大工学部が進出したのを皮切りに,東邦音楽大学,国際商科大学も進出,80-90年にかけて,川越駅と本川越駅前には,東武ストアマインや西武本川越ペペ・プリンスホテルなどの近代ビルが出現,明るい近代的な街並み景観に一変した。川越は行政,商業,工業,住宅,文教などの複合都市として発展している。蔵造や時の鐘,郭町や大手町という地名などに城下町の面影が残り,文化財も豊富で,喜多院客殿,東照宮本殿,大沢家住宅(蔵造),養寿院銅鐘(河越氏ゆかりの鐘)などの国指定重要文化財や三芳野神社社殿,川越城本丸御殿,江戸情緒豊かな川越祭りばやしなどの県指定文化財がある。
執筆者:

中世には河越,河肥とも記す。入間川両岸の沖積低地の自然堤防上に,平安末期に新日吉社領河越荘が成立した。地名は川を越えた一つの地域が成立しているということであろうか。荘域は1559年(永禄2)成立の《小田原衆所領役帳》にある河越三十三郷,すなわち西岸では上戸,鯨井,東岸では北から福田,寺山,宿粒,東明寺,小久保(小窪),小ヶ谷(小萱),小室,豊田,池辺,大袋などの範囲と考えられる。上戸には河越氏の方約2町規模の館跡(その一部に時宗常楽寺)や日吉山王社があり,宿料郷(宿粒)や小萱寺などが15世紀初頭の史料で河越荘内として確認できる。やがて,1457年(長禄1)扇谷上杉持朝が,河越荘東辺の三芳野郷に河越城を築城すると,河越領は33郷に,河越とか河越筋と所領役帳に記された郷を加えて拡大された(ほぼ現在の川越市域)。
河越城の戦
執筆者: 近世中期までは譜代藩,後期は親藩の城下町として発展した。前期には河越の字を用いることが多い。武蔵国入間郡に属し,江戸に近いことから政治的に重視された。上杉・後北条氏以来の城の南西の台地に城下町が発達,商業・交通の要地でもあった。1590年(天正18)の後北条氏攻伐で豊臣秀吉麾下(きか)の前田利家らの軍に降伏,戦火をみずに徳川家康の領地となり,酒井重忠が入部した。楽市政策などにより商人,職人が来住し,酒井忠利・忠勝の寺社復興,家臣団の城下集住によって城下町の基本が作られたが,1638年(寛永15)の大火により城および城下町や仙波喜多院,東照宮も全焼した。川越城と城下町の再建は松平信綱によってなされた。川越城は本丸,二の丸,三の丸,蓮池口,清水口という構成に,新曲輪,南大手,中曲輪,西大手の各口が加えられて拡張された。西大手を正門として道路を整備,地割・町割を行って十ヵ町四門前の制度が作られた。すなわち市街中心部の本町,喜多町,高沢町,南町,江戸町を上五ヵ町,多賀町,鍛冶町,鴫町,志多町,上松江町を下五ヵ町,合わせて十ヵ町と称した。上五ヵ町は商人,下五ヵ町は職人が多く住んだ。四門前は養寿院,行伝寺,妙養寺,蓮馨寺の門前町であり,十ヵ町に西南に並んでいる。この十ヵ町四門前が行政上の〈町分〉であり,城下町の繁栄につれて入り組んだ村地に町場化が進み,〈郷分〉として区別された。陸上では川越街道,水上では新河岸舟運によって江戸と密接に結び,生糸,木綿織物,桐たんす,菓子,鋳物などの手工業品,米,繭,茶,カンショ,アイなどの農産品の集散地として問屋・小売業の発達をみ,蔵造の商家が軒を連ねた。商業では十組問屋が力をもち,城下の問屋商人を業種ごとに1~10番の組に組織し,各組1名ずつの十組大行事が全体を統轄した。なお市は近世初めは六斎市であったが,やがて2・6・9日の九斎市に発展した。
執筆者:

川越 (かわごし)

江戸時代,要衝の地にある大河に架橋や渡船の設備をせず,人足を配置しその人足によって徒渉させ,あるいは馬で渡河させる制度。川越人足をさすこともある。旅行者は自分かってに河川を渡ることを禁じられ,道中奉行所により定められた越立場から一定の賃銭を支払って渡らなければならなかった。ただし公用旅行者で将軍の朱印状,老中の証文などを持参する者は無賃で,一般旅行者は水の深浅によって御定賃銭(公定賃銭)を払い渡河した。河川は降雨によりしばしば増水し,そのつど川留(かわどめ)になった。川留になると旅行者は渡河することを禁じられ,周辺の宿に逗留せざるをえなかった。川明けになるまでには3日から5日もかかり,ときには1ヵ月にも及ぶことがあった。そのため旅行者は路銀をつかいきり難儀をすることも多かった。このような川越制度は関所設置と同様,幕府の一貫した交通政策の一つであり,極度に旅行者の交通を阻む要因ともなった。明治維新の後,新政府の発足とともに廃止された。
執筆者:

川越[町] (かわごえ)

三重県北東部,三重郡の町。人口1万4003(2010)。町の大部分は朝明・町屋両川の沖積低地にあり,北東は町屋川を隔てて桑名市,西は四日市市に隣接し,東は伊勢湾に面する。古くは農漁業が中心であったが,近年工場誘致に成功し,北勢工業地域の一部として変貌を遂げている。食料品,機械工業が主で,地元資本の中小工場が多い。1959年の伊勢湾台風で大被害を受けた後,海面埋立工事で約170万m2の工業用地が造成された。89年埋立地に火力発電所が立地した。近鉄名古屋線が通じ,伊勢湾岸自動車道のインターチェンジがある。東部沿岸ではノリ,ウナギの養殖が行われている。隣接工業都市への通勤者も多い。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川越」の意味・わかりやすい解説

川越
かわごし

江戸時代、交通の要衝にある大河川に架橋、渡船の設備をせず、徒越(かちごし)(歩渡(かちわたり))、輦台(れんだい)(蓮台)、馬越(うまごし)などで渡河させた制度、またその業務に従事する人足。この川越は、江戸幕府が一朝事あるときに対する高度の政治的配慮による制度といわれ、東海道では酒匂(さかわ)、興津(おきつ)、安倍(あべ)、大井の4川、中山道(なかせんどう)では千曲(ちくま)、碓氷(うすい)の2川で行われたが、とくに大井川が典型的で、「関所川」ともよばれた。大井川の場合、その越立(こしたて)場所は東海道島田(しまだ)、金谷(かなや)両宿の間に位置し、川越事務を取り扱う川会所が設けられて、川庄屋(しょうや)を筆頭に年行事(としぎょうじ)、小頭(こがしら)、それに川越仲間の口取、待川越などがいた。越立は明け六ツ(午前6時ごろ)から暮れ六ツ(午後6時ごろ)までを原則とするが、急用の旅行者でとくに宿駅の問屋場か川会所の許可を得た者に限り、夜間通行ができた。越立には、川越人足による輦台、肩車、馬越があり、旅行者の自力による渡河(自分越)は認められないが、相撲取(すもうとり)、巡礼、非人などは例外とされた。大名は、宿駅の本陣に専用の輦台を備えていて、越立のときは乗り物(貴人用の駕籠(かご))のまま輦台に乗り、人足20~30人で担ぎ、水切川越を先行させて渡河した。一般の旅行者は、まず川会所で川札(油札、台札からなる)を買って渡るが、油札は川越人足1人の賃銭で、台札はその2倍の額、輦台の使用料にあたる。大井川では、水深4尺5寸(約1.4メートル)まで旅行者の越立を行い、これ以上を川留(かわどめ)として禁じたが、幕府の御状箱に限り水深5尺(約1.52メートル)までとした。川明(かわあけ)のときは御状箱を優先し、ついで大名、一般旅行者の越立を行った。これが廃止されたのは明治維新後のことである。

[丸山雍成]

『浅井治平著『大井川とその周辺』(1967・いずみ出版)』

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百科事典マイペディア 「川越」の意味・わかりやすい解説

川越【かわごし】

江戸時代の交通制度。軍事的要地の河川には橋や渡船を設けず人足の肩車,馬,輦台(れんだい)で渡らせた。東海道大井川の川越(島田〜金谷間)は有名。→川止関所

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川越」の意味・わかりやすい解説

川越
かわごえ

江戸時代,治安上の目的で架橋,渡船を禁じた大井川その他の大川で,勝手に渡ることを禁じ,徒 (かち) 渡り,または馬越しだけを認めた制度。またその川越し人足のこと。越立 (こしたて) は川会所の管理するところで,徒渡りには輦台 (れんだい) ,肩車 (手引) があった。一定水位を常水といい,これを一定限度越えると川留 (かわどめ) ,または川支 (かわづかえ) といって越立を禁じ,その解除を留明け,または川明けといった。賃銭を川越し銭といった。明治以降は廃止。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「川越」の解説

かわごえ【川越】

宮崎の芋焼酎。有機栽培の原料芋は、朝掘ったものをその日のうちに処理。釈迦ヶ岳の伏流水と白麹を用いて甕で仕込む。蒸留法は常圧蒸留。米焼酎をブレンドして酒質を調える。原料はコガネセンガン、米麹。アルコール度数25%。蔵元の「川越酒造場」は江戸期創業。所在地は東諸県郡国富町大字本庄。

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デジタル大辞泉プラス 「川越」の解説

川越

宮崎県、株式会社川越酒造場が製造する芋焼酎。

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世界大百科事典(旧版)内の川越の言及

【市】より

…近世後期にも店賃の徴収は行われ,寛政(1789‐1801)の例では中山道深谷宿が7月,12月の2回,市日2日ずつ,市用に出るもの1人につき〈津料〉6文を徴収していた。幕末の例であるが武蔵国川越城下町では問屋場の久右衛門が問屋給分のほかに,毎年7月と12月の市日に,川越の市へ集まって店を出すものから〈つり銭〉と称する店賃を取り立てて問屋給分に加えていた。市を立てる町や村に対し,夫役や年貢が課されていた。…

【土蔵造】より

…江戸においては,初め町家の土蔵造や塗屋造を奢侈(しやし)として規制する方向にあったが,享保(1716‐36)以後は防火のために強制的に普及させた。土蔵造の町並みとしては埼玉県川越市のものがよく知られている。【浜島 正士】。…

※「川越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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