川東村(読み)かわひがしむら

日本歴史地名大系 「川東村」の解説

川東村
かわひがしむら

[現在地名]香川町川東上かわひがしかみ川東下かわひがししも

川内原かわないはら村の北西、北流する香東こうとう川東岸に位置し、同川上流側の川東上、下流側の川東下に分れていた。寛永国絵図に河東とみえ、井原いのはら郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳でも河東村として高一千一四八石余、同一九年の小物成は綿四三匁五分(高松領小物成帳)。貞享高辻帳以降川東村と記されるので、生駒氏時代には河東村であったのが、高松藩領となってから川東村と表記したと考えられる。時期は不明だが現実には上下の二村に分れて支配されるようになり、両村にそれぞれ庄屋が置かれた。元文五年(一七四〇)の人数は上村が七〇一人、下村が七〇三人(「郡別村々人数留」金倉寺文書)

嘉永二年(一八四九)の土免御定内免別帳(別所文書)によると、川東上村は田六二町五反余・六七九石余、畑七町九反余・五〇石余。免別では漆原うるしはら免が一七町五反余・一九七石余、免は五ツ五歩、上村免が二九町七反余・三四〇石余、六ツ一歩、川上免が二町四反余・三〇石余、六ツ、悪所免が一二町七反余・一一〇石余、三ツ八歩、畑方免が七町九反余・五〇石余、三ツ六歩。新開として一二町七反余・九七石余、うち芦脇あしわき免が四町六反余・五三石余。川東下村は田五二町四反余・五九〇石余、畑一一町九反余・七八石余。りゆう(竜)まん免が二二町二反余・二二八石余、六ツ一歩、中村免が二三町三反余・二八一石余、五ツ八歩、悪所免は六町五反余・五七石余、三ツ八歩、柳原免は二町三反余・二二石余、二ツ八歩、畑方免一一町九反余・七八石余、三ツ六歩。

川東村
かわひがしむら

[現在地名]大内町川東

与田よだ川東側の平地部と、秋葉あきば(九七・一メートル)などの丘陵地帯よりなる。東部にふる川が流れる。大日山だいにちやま古墳・原間わらま一号墳などの古墳があり、白鳥しろとり廃寺跡・高松たかまつ寺跡(現白鳥町)も近い。北は三本松さんぼんまつ村。慶長一四年(一六〇九)川東二八一石余が水口隼人に預け置かれている(「生駒一正預ケ状」生駒家宝簡集)。寛永国絵図には河東とあり、与田郷に含まれている。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳には「河原東村」とあり、高五二三石余。文化元年(一八〇四)の順道帳(誉水村史)によると高七一四石余で、畝数六〇町三反余のうち田方五〇町八反余・畑方九町四反余。年貢は三本松御蔵に納めた。小物成は寛永一九年の高松領小物成帳によれば綿六〇匁・茶代銀一分二厘。百姓持林は寛文二年(一六六二)の検地で一二町四反余あり、文化三年頃には入会野山一一町余(運上銀一一匁余)であった(誉水村史)。溜地は北池・原間上池・国久池など一五で、白鳥しろとり(現白鳥町)などへも分水していた(池泉合符録)

川東村
かわひがしむら

[現在地名]都城市上川東かみかわひがし一―四丁目・下川東しもかわひがし一―四丁目・吉尾町よしおちよう都北町とほくちよう神之山町じんのやまちよう栄町さかえまち祝吉町いわよしちよう千町せんちよう年見町としみちよう

宮丸みやまる村の北にあり、北流する大淀川に東から流れてきた沖水おきみず川が合流する地域を中心にその東方を占める。中央を高城たかじよう(現高城町)を経て高岡たかおか(現高岡町)方面に通じる薩摩街道が南北に通る。当地にあった彦山ひこさん権現の永禄一一年(一五六八)九月一五日の棟札(庄内地理志)によれば、当時の地頭は和田越中であった。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳に「河東」一八町がみえる。

江戸時代は五口六外城のうち鷹尾たかお口に属した。慶長一七年(一六一二)知行目録(都城島津家文書)に河東とみえ、高一千一二四石余、同二〇年の知行目録(同文書)では川東村とあり高二千一六三石余、元和六年(一六二〇)の知行目録(同文書)では高二千二七九石余、明暦元年(一六五五)の知行目録(同文書)では高二千二八石余、うち三〇石余は承応三年(一六五四)竿入新仕明并畠田ニ成増高籠分。

川東村
かわひがしむら

[現在地名]東城町川東

東城町の東に位置し、東は備中国哲多てつた(現岡山県阿哲郡)と接する。西端の川西かわにし村境を南流する東城川には、太山寺たいさんじ谷から流れる太山寺川が中島尻なかしまじりで、福代ふくしろ岩瀬戸いわせどから村内に入った福代川がきめんどうで合流する。集落は東城川と福代川とが一時平行して流れる東城盆地周辺に比較的密集するほか、野組のぐみ谷・比那井ひない谷など東城川や福代川の支流の谷沿いに開けた平地に散在する。村内には弥生時代後期の土器片が散乱出土する久松ひさまつ遺跡や、千手寺谷せんじゆじだに古墳をはじめとする三〇基の古墳、土師器片・須恵器片が散乱出土する大迫山おおさこやま遺跡など七ヵ所の古墳時代の遺跡が確認されている。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では一千四一石余。天保郷帳では一千五三石余。

川東村
かわひがしむら

[現在地名]東串良町川東

串良郷新川西しんかわにし村の東、東流して海(志布志湾)に注ぐ肝属川の河口左側にある。東は海に面し、南の肝属川対岸は高山こうやま波見はん(現高山町)、北は日向国諸県もろかた大崎おおさき永吉ながよし(現大崎町)。ほぼ中央を汐入しおいり川が南流して肝属川河口に合流する。中世は柏原かしわばる別符のうちで、近世初期には柏原村と称された。慶長四年(一五九九)三月五日の島津忠恒宛行状(旧記雑録)に「川東柏原村」とみえ、高一千七九石余、ほかに浦役八石などが島津忠長に宛行われている。同年一二月二〇日には柏原村内四石余などが安楽大炊助に加増された(「加増目録」同書)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳にも柏原村とあり、高一千七九石余。

川東村
かわひがしむら

[現在地名]琴南町川東

土器どき川と支流明神みようじん川の東に位置し、村名はその位置による。阿野あや郡に属した。土器川の本流沿いの川東本村と渕野ふちのは、右岸の低い台地上にあって水田が多く、明神集落から南の明神川右岸の集落は狭い谷地であって水田が少ない。慶長一四年(一六〇九)一一月の生駒一正預ケ状(生駒家宝簡集)で、尾池玄蕃の代官所に預けられた地に「南条郡 川東舞野川」一一三石余があり、寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では山田川東とあり高一五六石余。同一九年の高松領小物成帳には河東村と記され、枌二〇二荷・綿九三四匁とある。文政元年(一八一八)の高三八五石余、家数二八九・人数一千一〇一、貢納は四口米一五四石余(銀納)、夏成は銀納で一千七〇二匁、浮役は林運上銀二六匁四分、興炭銀五二二匁五分、薪銀三二匁、真綿銀二九七匁九分(「庄屋日帳」稲毛文書)

川東村
かわひがしむら

[現在地名]由利町東鮎川ひがしあゆかわ平石ひらいし

子吉こよし川とあゆ川とに挟まれた地域にあり、由利原ゆりはらの西から北にかけての山麓に平石・蒲田かまた立井地たていち沢口さわぐち山崎やまざき寺田てらたなどの集落が並ぶ。

天保郷帳の川東村の項に「古者 立井地村 福島村 沢口村 蒲田村 山崎村 平石村 六ケ村」とある。六ヵ村を併せ川東村が成立した時期はつまびらかでないが、明和元年(一七六四)には立井地村・山崎村・平石村などが独立して年貢を納めており(「申新田御年貢取帳」正木家文書)、それ以降のことと考えられる。

川東村
かわひがしむら

[現在地名]伊賀町川東

山畑やばた村の西北に位置する。村の西端をたき川が北西に流れ、北端を西流する柘植つげ川に村の北西端で合流する。東隣の愛田えた村に源を発する宮川は村の中央を西流し滝川に合流する。集落は滝川右岸の河岸段丘上に連なる。万治二年(一六五九)に居検地を改めている。本高七八六・五六石、平高一〇七三・四七石。これに先立って正保四年(一六四七)藩は新田開発を川東・川西・山畑三ヵ村に命じ(宗国史)、山畑村に隣接する当村内亀井かめい一之堀山いちのほりやま・二之堀山・三之堀山を開かせ、また亀井池も構築した。

川東村
かわひがしむら

[現在地名]千代田町川東

南の総森そうもり村本郷と北にある同村飛郷とに挟まれるようにして本郷が位置し、さらに総森村本郷の南と同飛郷の北に当村の飛郷がある。集落は村内の西を南流する可愛えの川の東岸段丘上に展開する。

慶長六年(一六〇一)の検地帳に「北方村川東」とみえ、高四〇九・八六一石(国郡志下調書出帳)。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳は「川東村」と記す。

川東村
かわひがしむら

[現在地名]東粟倉村川東

吉田よしだ村の南に位置。因幡往来古町ふるまち宿(現大原町)の東にある尾崎おさき(現同上)から分村したという(東作誌)。村の西を後山うしろやま川が流れるが、対岸は同じく尾崎村分郷の川西かわにし(現大原町)正保郷帳では川西村とともに尾崎村の内。享保一七年(一七三二)の名寄帳(東粟倉村史)では庄屋名が記されることから、これ以前の分村とみられる。津山藩森氏断絶後は幕府領、延享二年(一七四五)因幡鳥取藩預、同四年常陸土浦藩領、寛政二年(一七九〇)幕府領、天保一三年(一八四二)播磨明石藩領(美作国郷村支配記)

川東村
かわひがしむら

[現在地名]祖父江町馬飼まかい

下祖父江しもそぶえ村の南、佐屋さや川が木曾川から分流する辺り。地名は木曾川の東ということであろう。江戸期は美濃中島郡に属していた。「濃州徇行記」によると慶長一九年(一六一四)の給人付のとき毛利掃部の知行三千石の内になったが、正保二年(一六四五)概高制のとき替地となり蔵入地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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