川口(読み)カワグチ

デジタル大辞泉 「川口」の意味・読み・例文・類語

かわ‐ぐち〔かは‐〕【川口/河口】

川の水が海や湖に流れ込む所。川じり。かこう。
[類語]上流川上中流下流川下河口

かわぐち【川口】[地名]

埼玉県南東部の市。江戸時代から鋳物いもの工業で栄えたが、近年は機械・重化学工業が中心。平成23年(2011)10月鳩ヶ谷市を編入。人口57.9万(2011)。

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改訂新版 世界大百科事典 「川口」の意味・わかりやすい解説

川口[市] (かわぐち)

埼玉県南東部の市。2011年10月旧川口市が鳩ヶ谷(はとがや)市を編入して成立した。

川口市の旧鳩ヶ谷市域を除いた旧市。1933年川口町が横曾根,青木,南平柳の3村を合体して市制。人口50万0598(2010)。荒川をはさんで東京都に接する。荒川北岸の沖積低地と大宮台地南東部の安行(あんぎよう)台地にまたがる。江戸時代は日光御成道宿場町で,荒川の砂と粘土,消費地江戸への舟運に恵まれて鋳物業が発達した。明治維新後,永瀬庄吉ら先覚者の技術改良や日清・日露戦争から第1次・第2次大戦による好況に支えられて県下最大の工業都市に発展し,全国有数の鋳物の街となった。鋳物業者の大半が従業員30人未満の中小企業で,京浜工業地帯の大企業の下請生産(主製品は多様な機械部品)が多く,不況の影響を受けやすい。1960年ころから地盤沈下や騒音などの公害がひどくなったため,65年以後,市街地からの工場の計画的移転が実施された。人口は70年,県内で最初に30万人,85年には40万人の大台に乗り,県第2の都市として発展している。JR東北本線,武蔵野線,埼玉高速鉄道線が通じ,都心から20km圏にあるので,都内への通勤者は県内への通勤者の2.5倍に達し,産業都市川口は近郊の住宅都市としての顔をもつようになった。1970年代以降,駅周辺の市街地の再開発が進み,鋳物工場跡にはマンションが出現,90年には駅西口の旧工業技術院公害研究所の跡地に総合文化センター(リリア)がオープンするなど,〈キューポラの街〉川口の景観は一変した。92年には東京外環自動車道和光~三郷間が開通,川口ジャンクションも開設されたので,関越・東北・常磐自動車道との連絡が便利になり,一般道の交通渋滞も大いに緩和された。ほかに伝統産業としては安行地区の植木が有名。
執筆者:

日光御成道の宿場。江戸から3里余。武州足立郡平柳領に属し,古くから入間川(後の荒川)をひかえた鎌倉街道の要地であった。初出は《義経記》で,小川口の名がみえる。伝馬の継立ては荒川の対岸岩淵宿と合宿で半月あての交代勤めであり,将軍日光社参時は川幅60間の荒川に舟橋が架せられたが,出水のときは600間の川幅になったという。江戸時代を通じて幕府領,1843年(天保14)調べの《宿村大概帳》では戸数295戸,人口1406人,旅籠屋は本陣を含め12軒を数えた。定まった日の市立てはなかったが,古くから鋳物の産地として交易が盛んであった。川口鋳物の創業は建久年間(1190-99),暦応年間(1338-42)などの諸説があるが確かなことは不明。記録に残る最古の作品は江戸赤坂日吉山王宮の1586年(天正14)の鰐口,その他元和・寛永(1615-44)銘の梵鐘が各地に残されている。鋳物の業者数は文政年間(1818-30)には14軒,なべ,かま,ふろがま,鉄瓶,灯籠などが生産された。さらに1858年(安政5)には21軒,61年(文久1)には23軒と増え,幕末には大砲や弾丸も鋳造された。明治以降宿場の機能は失われたが,鋳物産業の興隆で繁昌していった。75年の町勢は559戸,2505人。
執筆者:

川口市のほぼ中央部に位置する旧市。南東部を除いて旧川口市に接する。1967年市制。人口6万0908(2010)。埼玉丘陵の最南端に位置する。北部一帯は鳩ヶ谷台地と称されるローム台地で,南部は荒川低地に連なる沖積低地である。中心市街地は江戸時代には日光御成道の宿駅であったが,江戸に近かったため旅宿は少なかった。しかし,市場町として栄え,3・8の日の六斎市には穀物,織物,農具,苗木などのほか,江戸から古着商,古物商が加わり,鳩ヶ谷のぼろ市として知られた。ほてい竹を使った伝統的な釣竿づくりは,ガラス製加工に移っている。明治以降,鉄道幹線からはずれたため発展は遅れたが,1958年に公団住宅が建設されて以来,住宅都市として急速に発展した。現在は埼玉高速鉄道線も通じ,市域の大部分が市街地化して,全国有数の人口稠密都市になっている。富士講中興の祖といわれる小谷三志の出生地で,旧宅が残る。
執筆者:

川口(新潟) (かわぐち)

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日本歴史地名大系 「川口」の解説

川口
かわぐち

[現在地名]秋田市旭南きよくなん一丁目・同三丁目・川元小川かわもとおがわ町の各一部

川口には幾つかの町が含まれる。現旭南一丁目に川口上裏かわぐちかみうら町、現旭南三丁目に上川口・中川口・川口上裏町・川口下裏町・川口新町があり、現川元小川町には川口下裏町・川口新町・本渡もとわたり町がある。川口諸町は馬口労町ばくろうまち橋際からあさひ川沿いに、雄物川との合流点に至る川岸に町割された。「梅津政景日記」寛永六年(一六二九)一〇月一六日条に「川口舟場へ罷出、御足軽三十人分、信太内蔵助、十六人分久賀谷五郎兵衛指南ニ渡申候、足軽屋敷極ル」とあるのが初見。楢山ならやま保戸野ほどのとともに、軍団整備のための足軽屋敷町割の一つである。

川口
かわぐち

堂島どうじま川と土佐堀とさぼり川が合流し、再び安治あじ川と木津きづ川に分流する三角地帯の通称で、大坂の経済的・政治的機能の根幹である港湾の喉元の位置にあった。しじみ川・江戸堀えどぼり川の合流点でもあり、そのほか西船場にしせんばの諸堀川に航行する船のほとんどはここを通過した。貞享元年(一六八四)の安治川開削以前は中津川河口近くの伝法口でんぽうぐち(現此花区)と、木津川河口を両川口と称し、安治川開削以降は当所と木津川口を両川口と称した。

川口
かわぐち

[現在地名]桑名市川口町

三之丸さんのまると堀を隔てた西にあり、東海道筋の南北に広がる長さ九七間の町屋敷地。北は揖斐いび川に面して東海道の渡船場となっている。「桑名志」に「東海道宮駅佐屋駅ヘノ渡口舟場ナレハカク名付シナルヘシ」とあり、伊勢国の北の玄関口、桑名宿の中心地でもある。元禄家帳(「桑名市史」所収)では家数三一。明治維新後は郵便会所・渡船会社ができたが、のちに廃された。また桑名遊郭の一部が昭和三三年(一九五八)まであった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川口」の意味・わかりやすい解説

川口
かわぐち

新潟県南部、北魚沼郡(きたうおぬまぐん)にあった旧町名(川口町(まち))。現在は長岡(ながおか)市の南東方に位置し、小千谷(おぢや)市をはさんだ飛び地となっている。信濃(しなの)川と魚野川の合流点にあたる交通の要所。1957年(昭和32)町制施行。2010年(平成22)長岡市に編入。延喜(えんぎ)式内社の河合神社があり、近世は三国(みくに)街道の宿場町として栄えた。JR上越線と飯山線(いいやません)の分岐点で、国道17号、関越自動車道(かんえつじどうしゃどう)(越後(えちご)川口インターチェンジがある)が走る。魚野川の男山簗場(やなば)、えちご川口温泉などの観光開発に力を注いでいる。

[山崎久雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川口」の意味・わかりやすい解説

川口
かわぐち

新潟県中部,長岡市南部で飛び地をなす旧町域。魚野川が本流の信濃川に注ぐ合流点に位置する。1957年町制。2010年長岡市に編入。中心集落は近世には三国街道の宿場町として発展した。南部の田麦山油田は 1970年操業停止。魚野川べりにはアユ,コイ,ハヤなどを対象とした伝統の簗場,男山の漁場があることで有名。中部の荒屋遺跡は国の史跡に指定されている。

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普及版 字通 「川口」の読み・字形・画数・意味

【川口】せんこう

河口。

字通「川」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の川口の言及

【金山[町]】より

…冬季の積雪が多く,特別豪雪地帯に指定されており,高齢化率は東北一,人口減少率も県下で最大である。中心集落の川口は只見川と野尻川の合流点に位置し,沼田街道(国道252号線)と昭和村への道路の分岐点にあたる。稲作のほか,畜産,コンニャクイモ栽培などが行われ,会津桐の産地でもある。…

※「川口」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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