川上哲治(読み)カワカミテツハル

デジタル大辞泉 「川上哲治」の意味・読み・例文・類語

かわかみ‐てつはる〔かはかみ‐〕【川上哲治】

[1920~2013]プロ野球選手・監督熊本の生まれ。昭和13年(1938)巨人入団翌年には首位打者となる。昭和31年(1956)には2000本安打選手の第1号となった。赤いバットを使用したことから「赤バット」と呼ばれて活躍。「ボールが止まって見える」の名言を残し、「打撃神様」と称された。引退後、巨人の監督に就任し、チームを9年連続の日本一に導いた。

かわかみ‐てつじ〔かはかみテツヂ〕【川上哲治】

かわかみてつはる(川上哲治)

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川上哲治」の意味・わかりやすい解説

川上哲治
かわかみてつはる

[生]1920.3.23. 熊本
[没]2013.10.28. 東京,稲城
プロ野球選手,監督。熊本県立工業学校在学中に全国中等学校優勝野球大会(→全国高等学校野球選手権大会)に春夏 3回出場し,1934,1937年に準優勝を果たした。1938年東京巨人軍(のちの東京読売巨人軍〈読売ジャイアンツ〉)に投手として入団したが,一塁手に転向した。太平洋戦争を挟んで戦前戦後のプロ野球界で活躍し,1956年に日本球界初の 2000本安打を達成した。1958年に現役を引退するまで最高殊勲選手 3回,首位打者 5回,打点王 3回,本塁打王 2回。通算 18年で 1979試合に出場,2351安打,181本塁打,1319打点,打率 3割1分3厘。「打撃の神様」と称された。1961年巨人軍監督に就任,1974年に退任した。その間,セントラルリーグのリーグ優勝 11回,日本一 11回。1965年以降日本シリーズ 9連覇の実績を上げた。引退後,解説者となるとともに,少年野球の指導にも携わった。1965年野球殿堂入り。1992年文化功労者に選ばれ,勲四等旭日小綬章を授与された。(→プロ野球

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川上哲治」の解説

川上哲治 かわかみ-てつはる

1920-2013 昭和時代のプロ野球選手,監督。
大正9年3月23日生まれ。熊本工業時代は投手として3度甲子園に出場。昭和13年巨人に入団。一塁手に転じ,14年首位打者。戦後,赤バットを使用し,青バットの大下弘とならび称された。実働18年,3割13回,首位打者5回,本塁打王2回,打点王3回,通算2351安打,3割1分3厘,181本塁打。36-49年巨人監督をつとめ,40年からの9連覇をふくめ,11回日本一。40年野球殿堂入り。平成4年文化功労者。平成25年10月28日死去。93歳。熊本県出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「川上哲治」の意味・わかりやすい解説

川上哲治【かわかみてつはる】

プロ野球選手。熊本県生れ。熊本工卒業後,1938年―1958年読売ジャイアンツで活躍。首位打者5回,本塁打王2回,最高殊勲選手3回。通算打率3割1分3厘,2351安打。弾丸ライナーと赤バットで知られ,背番号16は同球団の永久欠番。戦中戦後を通じて日本プロ野球界のスター選手であり,〈打撃の神様〉と呼ばれた。さらに監督としても1961年―1974年読売ジャイアンツを率い,11回の日本シリーズ優勝を達成した名監督である。1992年野球人として初の文化功労者。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の川上哲治の言及

【野球】より

…45年1月1日から5日間,計8500人の観衆を集めて甲子園球場で行われた在阪4球団の試合を最後にプロ野球は中止となったが,敗戦直後の45年11月23日には神宮球場で東西対抗が行われ,再建の第一歩を印した。この試合でデビューした青バットの大下弘は,赤バットの川上哲治とならんでホームランのヒーローとなった。戦時中の日本野球報国会が日本野球連盟として再発足し,翌46年にはペナントレースが復活した。…

※「川上哲治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android