崔庸健(読み)さいようけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「崔庸健」の意味・わかりやすい解説

崔庸健
さいようけん / チェヨンゴン
(1900―1976)

北朝鮮政治家平安北道(へいあんほくどう/ピョンアンプクド)泰川郡生まれ。五山中学中退後、中国に赴き、1925年中国雲南軍官学校卒業、黄埔(こうほ)軍官学校教官となる。1926年から中国東北に入り、抗日武装闘争を指導、東北抗日連軍の最高指導部の一員として活躍。石泉と号す。

 1945年の解放後、北朝鮮民主党の委員長となり、1948年には朝鮮人民軍司令官となるなど、北朝鮮の政・軍最高指導者として活躍。1957年最高人民会議常任委員長に就任し、法的国家元首となる。その後、1972年の社会主義憲法制定により、金日成(きんにっせい/キムイルソン)が法的元首としての国家主席に就任したため副主席となったが、1976年9月死去。この死は、彼が金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)後継者化の障害となったための人為的なものともいわれている。

玉城 素]

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改訂新版 世界大百科事典 「崔庸健」の意味・わかりやすい解説

崔庸健 (さいようけん)
Ch`oe Yong-gǒn
生没年:1900-76

朝鮮民主主義人民共和国軍人,政治家。平安北道泰川郡出身。中国の雲南軍官学校を卒業後,北伐戦,広東コミューンに参加した。1930年代には中国東北部の饒河県地方を中心に金日成部隊と連携しつつ独自の武装闘争を展開。解放後北朝鮮に帰り,48年2月朝鮮人民軍初代総司令。53年には元帥に次ぐ次帥の称号を受け,58年以後一貫して党内序列第2位。72年以後国家副主席でもあったが,76年9月病没した。
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百科事典マイペディア 「崔庸健」の意味・わかりやすい解説

崔庸健【さいようけん】

朝鮮民主主義人民共和国の政治家。平安北道生れ。1923年中国に亡命。雲南軍官学校卒業後,黄埔(こうほ)軍官学校教官となる。1926年中国共産党に入党。1930年代には抗日武装闘争を組織,主として北満で金日成部隊と連携して活動。朝鮮解放後平壌に戻り,1946年国内派の民族主義者【そう】晩植の逮捕後に北朝鮮民主党委員長,北朝鮮民主主義民族統一戦線議長,1948年朝鮮人民軍総司令。人民共和国設立後民族保衛相。のち副首相,朝鮮労働党副委員長,最高人民会議常任委員長等の要職についた。

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