崇禅寺(読み)そうぜんじ

精選版 日本国語大辞典 「崇禅寺」の意味・読み・例文・類語

そうぜん‐じ【崇禅寺】

大阪市東淀川区東中島にある曹洞宗の寺。山号は凌雲山。天平年間(七二九‐七四九)行基が創建。嘉吉二年(一四四二細川持賢(もちかた)が再興。境内に足利義教細川ガラシャ夫人の墓がある。

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デジタル大辞泉 「崇禅寺」の意味・読み・例文・類語

そうぜん‐じ【崇禅寺】

大阪市東淀川区にある曹洞宗の寺。山号は凌雲山。天平年間(729~749)行基の創建。嘉吉2年(1442)細川持資が将軍足利義教菩提ぼだいを弔うために伽藍がらんを建立。境内に細川ガラシャの墓がある。

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日本歴史地名大系 「崇禅寺」の解説

崇禅寺
そうぜんじ

[現在地名]東淀川区東中島五丁目

中島なかじま惣社の東にある。曹洞宗。凌雲山と号し、本尊は釈迦牟尼仏で伝教大師の作という。

〔草創〕

嘉吉元年(一四四一)六月二四日、京都の自邸で将軍足利義教を謀殺して、いわゆる嘉吉の乱を起こした播磨守護赤松満祐・教康父子は、義教の首級をもって一族とともに摂津国中島郡へおちのびた。中島郡はほぼ近世の西成にしなり郡にあたり、当時、満祐の支配するところであった。中島に着いた満祐は、翌二五日、使者を京都に送り「御首ハ摂津国中島ニ御座之由」と報告させたが、管領細川持之は使者を斬らしめた(「看聞御記」嘉吉元年六月二五日条)。この義教の首について、のちの書であるが、「赤松盛衰記」は「満祐父子は一族を引連れて都を落ちて摂州へ下り、宗禅寺といふ寺にて御所の御頭葬して、それより領国播州に下向し」と記しており、「応仁記」「南方紀伝」などにも同様の記事があって、宗禅寺(崇禅寺)の地に首級を埋葬したと伝えている。しかし、この時点ではまだ崇禅寺は建立されておらず、当地には古く聖徳太子あるいは行基の建立という観音堂があったとの所伝が存在するところから、首級を埋葬したのは崇禅寺ではなく、この観音堂か、それが発展した寺院であったと思われる。嘉吉の乱は、約二ヵ月半後、赤松満祐の敗北によって落着し、中島郡は没収されて恩賞として細川持賢(持之の弟)に与えられた(「斎藤基恒日記」嘉吉元年閏九月条)。持賢は翌嘉吉二年に普広院殿(足利義教)の菩提追善のため、首級の埋葬されたこの地に当寺を建立し、護国ごこく(現吹田市)の徳叟を招くとともに寺院の経済的基盤をととのえていった。

〔寺領〕

嘉吉二年四月二九日の民部丞景安敷地渡進状案(藻井家文書、以下同文書については個別文書名のみを記す)によれば、中島仏性ぶつしよう院の又三郎名と中島惣社の所領「松原内壱町四方」の地とを交換して当寺の敷地としているので、この時に崇禅寺の寺域が成立したと考えられる。また同日付で持賢は、中島乳牛ちちうし牧欠所分、福島ふくしま(現福島区)欠所分・同散在の田畑を、次いで六月一八日には仏性院の公文職給田と、中島内の茶年貢一二〇斤とを毎年寄進することにしている(同日付細川右馬助持賢寄進状案)

崇禅寺
そうぜんじ

[現在地名]土岐市妻木町

しろ山山麓、堀之内ほりのうちの北にある。光雲山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊は十一面観音。室町時代に妻木氏の祖土岐頼重の創建とされる。開山は虎渓こけい永保えいほう(現多治見市)開山元翁本元の弟子果山正位で当時は臨済宗京都南禅寺末。妻木氏歴代の菩提所として厚く信仰され、塔頭一一ヵ寺はいずれも代々の城主や内室のために造営されたという(土岐市史)。その後寺内の破損が進んだが、元和四年(一六一八)尾張国海禅かいぜん院四世清厳宗源により中興され、以後京都妙心寺末となった。

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