島田事件(読み)しまだじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島田事件」の意味・わかりやすい解説

島田事件
しまだじけん

1954年(昭和29)3月10日、静岡県島田市内の幼稚園から女児(6歳)が行方不明となり、3日後、大井川対岸の山林内で遺体が発見された事件。強姦(ごうかん)致傷、殺人罪に問われた赤堀政夫が死刑判決を受け、確定したが、その後再審が行われて無罪となった。免田、財田川、松山の各事件に続く、四つ目の死刑再審無罪事件。

[江川紹子 2017年3月21日]

事件発生~死刑確定

島田市警察署に国家地方警察(国警)静岡県本部と島田市警および周辺6署の自治体警察による合同捜査本部が設置され、前科を有する者、「変質者」「浮浪者」などが次々に取調べを受けた。

 当時25歳の赤堀も、容疑をかけられた一人であった。幼いころにかかった脳膜炎後遺症で軽い知的障害があり、定職につかず放浪生活をしていたため、全国に手配された。1954年5月24日、岐阜県美濃太田(みのおおた)から犬山(いぬやま)方面に向かっているところを警察官に職務質問された。氏名や本籍地を答えたため島田署に連絡され、同署が迎えの捜査員を派遣した。赤堀は、神社の賽銭(さいせん)を盗んだことを自白し、5月25日、窃盗容疑で逮捕された。いったん釈放されたが、同月28日、ふたたび賽銭泥棒の容疑で逮捕された。本件について厳しい追及を受け、同月30日に犯行を認めた。

 赤堀は、裁判では起訴事実を否認。静岡地裁は、いったん結審した後、職権で審理を再開し、当時法医学の最高権威とみなされていた東京大学名誉教授、古畑種基(ふるはたたねもと)に再鑑定を委嘱した。それは、赤堀の捜査段階の自白が、被害者の遺体の解剖を行った国警所属の医師鈴木完夫の鑑定書と整合しないためであった。

 自白では、女児に対する最初の危害は強姦で、その際に女児は泣き叫びながら暴れた。近くにあった石を拾って女児の左胸に力いっぱい打ちつけたところ、泣き声がやみ、目を閉じたので、「いっそ殺してしまえ」と思い、首を絞めた、とある。

 一方、鈴木鑑定によれば、被害女児の左胸部の傷は生活反応がなく死後のもので、赤堀自白と矛盾する。また同鑑定は、外陰部の傷についても、周囲に生活反応がほとんどなく、付近に外傷が認められず、この傷が生じた時に女児の抵抗はほとんどなかったとしていた。

 古畑鑑定は、胸部の傷は生前のものであるとし、被害者は「まず押し倒されて姦淫(かんいん)され、胸部を鈍体をもって殴打され、次に頸部(けいぶ)を手をもって扼殺(やくさつ)されて死亡するに至った」と犯行の順序を説明した。これによって、自白は科学的な裏づけを得たことになった。

 静岡地裁は1958年5月23日、赤堀のアリバイ主張を退けるとともに、自白の信用性を認めて、死刑の有罪判決を言い渡した。この判決は、1960年2月17日の東京高裁による控訴棄却、同年12月15日の最高裁による上告棄却の判決を経て、同月26日に確定した。

[江川紹子 2017年3月21日]

再審請求

赤堀は、1961年8月17日に第一次再審請求を行い、以後1964年6月6日に第二次、1966年4月14日に第三次請求を行ったが、いずれも棄却された。

 1969年5月9日になされた第四次請求も、静岡地裁は1977年3月11日に棄却した。しかし、東京高裁は1983年5月23日、この決定を取り消し、事件を地裁に差し戻した。

 最大の争点となったのは、確定審の事実認定を支えた古畑鑑定の評価だった。弁護側は、同鑑定を弾劾する複数の新たな鑑定を新証拠として提出した。それらの鑑定によれば、強姦や胸部殴打より首絞めが先で、赤堀の捜査段階の自白とは矛盾する。

 静岡地裁は、この新証拠によって、犯行順序に関する自白に「客観的事実と合致しないのではないかという合理的疑いのあることが明らかになった」としながらも、再審開始を退けた。赤堀が「大罪を犯してしまいました」と述べたという留置場の警察官の証言など、有罪方向の旧証拠を並べて、自白を「全(まった)く信憑(しんぴょう)力がないものとして全面的に排斥するのは相当でない」という判断であった。

 これに対し東京高裁は、「犯行順序の変更は、枝葉末節の問題ではなく、犯罪の実行行為の中枢に関する事柄であるだけに、自白調書の真実性に多大な疑問をなげかける」と指摘。さらに、胸部殴打に使われたとする石に血液などの体液が付着しているかどうかなどを調べ、審理を尽くす必要性を判示した。

 差戻し審となった静岡地裁には、検察側が古畑鑑定を支持する新鑑定を提出。同地裁は1986年5月30日、双方の鑑定を吟味したうえで、再審開始と死刑の執行停止を決定した。

 同決定は、被害女児の胸部の傷の状況から、証拠となった石で力いっぱい殴りつけたとする自白も、「信用性、真実性に疑念が抱かれる」とし、石に体液が付着しているかどうかなどの鑑定を行わず「客観的証拠による裏づけを欠いている」と、捜査の問題点も指摘した。自白には捜査官の知り得なかったことを供述する「秘密の暴露」もなく、犯行後の足どりについて明らかに客観的事実に反する供述が含まれており、「自白の内容に重大な疑点が生じた」と判示した。

 検察側が即時抗告したが、東京高裁は1987年3月25日、これを棄却。検察側は特別抗告せず、再審開始が確定した。

 静岡地裁で行われた再審も、法医学論争となった。検察・弁護側双方の法医学者が証言に立ち、12回の公判が開かれた末に、1989年(平成1)1月31日、無罪判決が言い渡された。

 判決は、胸部の傷は石で殴られたものとみるには疑問があり、自白はいくつかの客観的事実に反していて、信用性は低いと認定。自白調書以外には、被告人と犯行を結びつける証拠はないと判示した。

 ただ判決は、再審開始決定とは異なり、胸部の傷は生前にできたと認定した。多数の鑑定が出され、裁判体によってその評価が異なったために、事実認定についての判断も分かれた。法医学鑑定の評価と、それに基づく事実認定の難しさを示す事例となった。

 また本判決は、自白の信用性は否定したが、その任意性は認めた。

 事件発生当時、国警静岡県本部の「強力犯」捜査のチームは、拷問を含め、被疑者に自白を強要する強引な捜査を行うことで知られていた。彼らが捜査を担当した二俣(ふたまた)事件、幸浦(さちうら)事件、小島(おじま)事件とよばれる強盗殺人事件は、いずれも1、2審が有罪(二俣・幸浦は死刑、小島は無期懲役)であったが、上告審で下級審に差し戻され、すべて無罪となった。赤堀も、「両手で首を絞めつけたり、両腕をつかんで逆にねじったり」などの拷問を受けたと述べている。

 しかし再審判決は、警察官の証言などを根拠に、こうした赤堀の主張は「信用のおけるものとは言い難い」と退けた。そして、赤堀には知的障害など「資質面に問題があった」ために、「ことの重大性をよく理解しないまま、安易に警察官に迎合して自白するに至った」との「想像」を展開し、無理な取調べより、「被告人の資質面に由来する事情」だとした。

 この裁判所の判断について、本件を長く取材した作家の伊佐千尋(いさちひろ)(1929―2018)は、著書『島田事件』のなかで「遺憾の極み」と批判している。

 検察側は控訴せず、無罪判決は確定。赤堀には、約1億2000万円の刑事補償が支払われた。また、死刑囚として長期間拘置されていたため、年金受給資格がなかったが、2013年(平成25)に死刑再審無罪者に年金を支給する法律ができて、年金を受給できるようになった。

[江川紹子 2017年3月21日]

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