島津荘(読み)しまづのしょう

百科事典マイペディア 「島津荘」の意味・わかりやすい解説

島津荘【しまづのしょう】

日向国大隅国薩摩国にまたがる荘園近衛家領。1026年大宰大監(だざいだいげん)平季基が日向島津(現都城市)一帯荒野を開発して関白藤原頼通寄進したのに始まる。鎌倉初期までには大隅国・薩摩国まで拡大し,三国の総田数の5割以上にのぼる田数約8000町歩の大荘園に発展。荘内の田地は不輸不入の一円荘と半不輸の寄郡(よりごおり)からなり,1197年の一円荘3400余町,寄郡4800余町。荘域の拡大にともない,島津荘日向方・同大隅方・同薩摩方の呼称が生まれた。領家は鎌倉前期に近衛家の家司(けいし)藤原邦綱の娘成子から奈良興福寺一乗院へ移った。1185年下司職(げししき)に任じられた島津忠久は,翌年惣地頭職に補任された。しかし1203年に比企氏の乱に縁座して薩摩方地頭職のみが安堵され,日向方・大隅方の地頭職は北条一族が掌握。この外来勢力の登場は相次ぐ相論と武力衝突を惹起し,本家領家の荘務権は戦乱の中で衰退していった。
→関連項目伊作荘入来院甑島列島島津氏種子島

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「島津荘」の意味・わかりやすい解説

島津荘 (しまづのしょう)

南九州日向・大隅・薩摩3国にまたがる摂関家近衛家を本所とする広域荘園。1026年(万寿3)大宰大監平季基が日向国島津(現,宮崎県都城市内)を中心とする付近一帯の荒野を開発して宇治関白藤原頼通に寄進したのに始まる。その後関白忠実らの荘園拡充策と郡司等地方豪族の土地支配の欲求とが相まって平安末期から鎌倉初期にかけて約8000町歩の大荘園に発展した。島津荘は忠実からその女高陽院(かやいん)泰子へ,泰子から忠通の子基実へ伝領,基実の死後妻盛子(平清盛女)が管領,のち基実の子基通が相伝した。領家は家司藤原邦綱の女三位大夫成子。源平交替に際し一時本家近衛家の領有が危ぶまれたが白河法皇の庇護により変わらず,その後領家は興福寺一乗院主の手に移った。1197年(建久8)の《図田帳》によれば日向国では一円荘2020町,寄郡1817町,大隅国では一円荘750町,寄郡715町余,薩摩国では一円荘635町,寄郡2299町余となっており,3国の全田数の約5分の2が島津荘であった。一円荘とは不輸不入の完全荘園で,寄郡とは半不輸で荘園領主国司に両属する形の雑役免荘の一種で一円荘に至る過渡的形態といえよう。現地の支配機構としては荘政所があり,別当職には伴氏や藤原氏・平氏等在地の豪族が任命されていた。荘園が日向から大隅・薩摩に拡大するのに伴い,それぞれ島津荘日向方・大隅方・薩摩方と呼ばれるようになった。島津忠久は1185年(文治1)領家および源頼朝から下司ついで地頭職に補任された。1203年(建仁3)忠久は比企氏の乱の縁座で三国守護職とともに惣地頭職も失ったが,まもなく薩摩国の守護・惣地頭職は回復している。しかし大隅方・日向方の惣地頭職は替わって北条氏が掌握した。外来の惣地頭と古来の郡司・弁済使等在地荘官の間では得分権や現地支配権をめぐる抗争がつづき,鎌倉期には相論の,南北朝期には武力衝突の原因となった。薩摩方伊作荘の領家・地頭間の下地中分もその動きの中で把握すべきであろう。室町・戦国期になると本家・領家職の実態はほとんど失われたが,その後も島津氏・近衛家間の親近関係が維持されたのには島津荘の歴史によるところがあろう。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津荘」の意味・わかりやすい解説

島津荘
しまづのしょう

日向(ひゅうが)国諸県(もろかた)郡島津院(宮崎県都城(みやこのじょう)市郡元(こおりもと)付近)に発し、日向南部、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の南九州3国に広がった巨大荘園。本所は摂関家(近衛(このえ)家)。11世紀初頭、大宰府大監(だざいふだいげん)平季基(すえもと)が伴(とも)氏ら在庁官人層と結託し関白藤原頼通(よりみち)に寄進したことに始まる。一円荘のほか、在地勢力による公領の寄進によって成立した半不輸の寄郡(よせごおり)とからなり、鎌倉期には8000町歩に及んだ。領家は、藤原忠通(ただみち)の家司(けいし)藤原邦綱(くにつな)から、邦綱の女(むすめ)成子、興福寺(こうふくじ)の院家の一乗院実信(いちじょういんじっしん)に伝えられ一乗院領となった。地頭は鎌倉初頭、惟宗忠久(これむねただひさ)が荘目代(しょうもくだい)・荘留守(しょうるす)と惣地頭(そうじとう)という公武両所職を兼帯し、荘園支配を確立しつつ幕府の南九州支配の要(かなめ)となった。荘内の没官領には、千葉常胤(ちばつねたね)や鮫島(さめじま)宗家など東国御家人(ごけにん)も入部し、惣地頭(東国御家人)と旧来の下司(げし)・弁済使(べんざいし)ら小地頭(在地領主)との対立も深まった。1203年(建仁3)比企(ひき)の乱で島津氏が失脚し、島津荘薩摩方を除く日向方・大隅方地頭職は守護職とともに北条氏に属した。南北朝期には、荘園支配も預所(あずかりどころ)から給主による年貢請負体制となり、在地領主にまったく依存する不安定なものとなり、1350年代には消滅した。なお、外国船の着岸地として、大宰府から独立して貿易も行われ、近衛家の重要な財源ともなっていた。

[井原今朝男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津荘」の解説

島津荘
しまづのしょう

日向・大隅・薩摩3国にまたがる摂関家領大荘園。荘域は宮崎県中・南部から鹿児島県の大半にあたる。「建久図田帳」によると,3国で一円領は3405町,半不輸領の寄郡(よせごおり)は4831町,あわせて8000町余という国内最大の荘園。半不輸で在国領主と国司に両属する寄郡の占める割合が高いのが特徴。1026年(万寿3)大宰大監平季基が,日向国南部の荒野を開発して関白藤原頼通に寄進したのが起源という。12世紀前期以降,飛躍的に拡大した。鎌倉前期以後,本家摂関家(近衛家),領家興福寺一乗院の体制が成立。1186年(文治2)には,島津氏初代といわれる惟宗(これむね)(島津)忠久が地頭職に任じられた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の島津荘の言及

【伊作荘】より

…薩摩国伊作郡(現,鹿児島県日置郡)にあった荘園で,薩摩・大隅・日向3国にまたがる島津荘の一部をなす。元来この土地は平姓伊作氏が領有していたが,平安時代末期に摂関家荘園島津荘に収納物の一部を納める寄郡(よせごおり)とされ,ついで1187年(文治3)本領主平重澄は下司職を持ったまま島津荘の一円不輸の荘園として寄進しなおし,さらに承久の乱の前後には本家近衛家から領家職が興福寺一乗院に寄進されたので,伊作荘は本領主・領家・本家によって重層的に領有される典型的な寄進型荘園となった。…

【入来院】より

…院の一般的なあり方からみて,平安時代に薩摩郡の辺境の開発が行われたさい,その拠点となった院倉の名が,所領の発展に伴い所領名に転化したものと考えられる。入来院は平安末期には摂関家の荘園島津荘の寄郡(よせごおり)となって,収納物の一部が荘園領主摂関家に納められることになったが,1197年(建久8)の薩摩国大田文によれば,その面積は全体で92町2反,そのうち寄郡となった面積は75町であった。同院の開発は鎌倉時代前半いちじるしく進み,1250年(建長2)の検注帳によれば193町8反が把握され,その内部には楠本,ひさくくち,倉野,中村,城籠(じようこもり),塔原(とうのはら),副田,清色(きよしき),市比野(いちびの)などの小村が含まれていたことが知られる。…

【大隅国】より

…国府は桑原郡(現,国分市府中)にあり,現在もその近隣には守公神社,国分寺跡,隼人塚,台明寺跡,一宮(正八幡宮,鹿児島神宮),二宮(蛭子神社),式内社の韓国宇頭峯神社,大穴持神社など関係遺跡が多い。
【中世】
 11世紀はじめ日向で開創された摂関家領島津荘は12世紀鳥羽院政期に入って急速に発展をとげ,大隅においても郡司などはその支配地をあげて寄進し,1197年(建久8)の《大隅国図田帳》によれば,国内全田数3017町余のうち1465町余を占めるに至った。同様に石清水八幡宮を本家とする正八幡宮領も1296町余を占めるに至った。…

【薩摩国】より

… 古代末期には郡郷の制も乱れ,郡より院郷が分出して,1197年(建久8)の〈薩摩国図田帳〉によれば和泉郡,山門院,莫禰(あくね)院,高城郡,東郷別府,祁答(けどう)院,入来院,甑島,薩摩郡,宮里郷,牛屎院,市来院,日置北郷,日置南郷,満家院,伊集院,伊作郡,阿多郡,加世田別府,河辺郡,知覧院,頴娃郷,揖宿郡,給黎院,谷山郡,鹿児島郡等の郡院郷が並立するに至った。また1026年(万寿3)ごろ日向国諸県郡島津駅付近を中心に大宰大監平季基により開発され,摂関家藤原頼通に寄進されて成立した島津荘は,郡司ら在地豪族の領主権拡大の要望と,藤原忠実ら摂関家の荘園拡大策と相まって12世紀以降薩隅日3ヵ国に急速に広がり,薩摩国では〈建久図田帳〉によれば国内全田数4010町余のうち,2934町余が島津荘となった。このうち和泉郡,日置北郷,伊作郡等635町は一円荘となり,他の2299町余は半輸の寄郡(よせごおり)であった。…

【日置荘】より

…薩摩国薩摩郡日置郷(現,鹿児島県日置郡)を母体とする荘園。平安時代末期,同郷は南北2郷に分かれ,うち北郷内70町と南郷内36町は荘国両属の寄郡(よせごおり)として摂関家領島津荘に加えられたが,1187年(文治3)本領主の系譜をひき下司職をもつ平重澄はこれを島津荘の一円領として寄進しなおしたので,こののちはしばしば島津荘内日置荘(日置北庄,日置南庄)とも呼ばれるようになった。また残る日置郷内のうち北郷内30町は同じく平安時代末までに宇佐弥勒寺領荘園として立券され,これも同じく日置荘と呼ばれ,日置を名字とする大江姓の本領主が下司として存続した。…

【弁済使】より

…公物を費やすといえども寺家のため益なし〉とあり,弁済使と雑掌が同義的に用いられている。またとくに注目すべき弁済使の例として摂関家領島津荘の場合がある。島津荘の弁済使は半不輸の寄郡のみに見られる。…

【寄郡】より

…中世,薩摩,大隅,日向にまたがって存在した島津荘にみられる所領単位。一般に〈よせごおり〉とよまれることが多いが,一個の所領に属しながら他領にも身分的に属して所役をつとめる者を寄人(よりうど)というから,公領(郡)でありながら荘園にも寄属しているとの意で寄郡(よりごおり)と呼ばれたと考えられる。…

※「島津荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android