岸沢式佐(読み)きしざわしきさ

精選版 日本国語大辞典 「岸沢式佐」の意味・読み・例文・類語

きしざわ‐しきさ【岸沢式佐】

邦楽家。常磐津節三味線方家元
[一] 初世。江戸中期、初世常磐津文字太夫相三味線として活躍。「葱売」「お俊伝兵衛」などを作曲。享保一五~天明三年(一七三〇‐八三
[二] 五世。文政八年(一八二五)五世を襲名幕末名人。「角兵衛」「将門」「靫猿」など現存曲の大半を作曲。文化三~慶応二年(一八〇六‐六六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岸沢式佐」の意味・わかりやすい解説

岸沢式佐
きしざわしきさ

常磐津節(ときわずぶし)の三味線方岸沢派の家元名。

[林喜代弘・守谷幸則]

初世

(1730―83)右和左古式部(うわさこしきぶ)の門弟。1768年(明和5)以後、初世常磐津文字太夫(もじたゆう)の相三味線となり、のち2世古式部と改名

[林喜代弘・守谷幸則]

2世

(1757―1823)初世の門弟で市治。師の没後ただちに襲名した。1795年(寛政7)3世古式部を襲名。右和佐を名のったこともある。

[林喜代弘・守谷幸則]

3世

(1774―1829)2世の門弟の2世九蔵が1800年(寛政12)に襲名したが、05年(文化2)に破門され富本節(とみもとぶし)数寄屋藤八(すきやとうはち)を名のっていたが、20年(文政3)に詫(わび)が入れられ、2世右和佐を継いだ。22年に4世、翌年2世が相次いで死去した後の家元相続争いで4世の実子仲助に紛争の結果敗れ、憤死したとも伝えられる。

[林喜代弘・守谷幸則]

4世

(1772―1822)2世の門弟文蔵が1807年(文化4)に継いだ。関西巡業中、名古屋で客死。

[林喜代弘・守谷幸則]

5世

(1806―66)4世の実子、仲助。1825年(文政8)襲名。53年(嘉永6)4世古式部となる。近世の名手とうたわれ、現存名曲の大半を作曲、『宗清(むねきよ)』『靭猿(うつぼざる)』『将門(まさかど)』『乗合船』『どんつく』などがある。後年4世常磐津文字太夫のち常磐津豊後大掾(ぶんごだいじょう)と不和になり、分離独立して「岸沢派」を創設した。

[林喜代弘・守谷幸則]

6世

(1833―98)5世の実子。1859年(安政6)襲名。92年(明治25)5世古式部となる。父に劣らぬ作曲の名手で、反目していた常磐津派と和解した。

[林喜代弘・守谷幸則]

7世・8世

(1859―1944)6世の養子。初名2世巳佐吉(みさきち)。1892年(明治25)襲名。一時式佐の名を戻し、改めて8世を名のる。1921年(大正10)6世古式部となる。常磐津林中(りんちゅう)没(1906)後、常磐津派と分離し、1927年(昭和2)ふたたび合同した。

[林喜代弘・守谷幸則]

9世

(1892―1979)7世の養子。1921年(大正10)襲名。養父に実子があり、27年(昭和2)式佐の名を返上して常磐津勘右衛門と改名し、常磐津正派家元となったために岸沢家では代数に数えないので、9世以降各代が2人存在する場合がある。

[林喜代弘・守谷幸則]

10世

(1909―62)8世の実子。1931年(昭和6)襲名。

[林喜代弘・守谷幸則]

11世

(1944― )10世の実子。1973年(昭和48)襲名。

[林喜代弘・守谷幸則]

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改訂新版 世界大百科事典 「岸沢式佐」の意味・わかりやすい解説

岸沢式佐 (きしざわしきさ)

常磐津節三味線方岸沢派家元。初世常磐津文字太夫の三味線方は初世佐々木市蔵であったが,1768年(明和5)市蔵没後後継者争いが起こり,佐々木派は文字太夫と決別,代わって初世岸沢式佐が文字太夫の三味線方となった。(1)初世(1730-83・享保15-天明3) 宮古路数馬太夫の三味線方右和佐古式部(うわさこしきぶ)の門弟で,初め佐々木古流・常磐津志妻太夫に従っていたが,のちに文字太夫の三味線方となり,69年に立三味線となって岸沢古式部と改名。作曲に《善知鳥(うとう)》《荵売(しのぶうり)》等がある。(2)2世(1757-1823・宝暦7-文政6) 初世門弟市治が1783年(天明3)式佐を襲名,95年(寛政7)3世古式部となる。のち一時岸沢右和佐を名のるが再度古式部となる。常磐津節発展に尽力し岸沢派の基礎を固めた。独自の作曲のほか鳥羽屋里長との共作に《関の扉》《戻駕(もどりかご)》等がある。(3)3世(1774-1829・安永3-文政12) 一説に1823年没。2世門弟九蔵が1800年襲名したが,05年(文化2)破門,20年許されて右和佐を名のった。(4)4世(1772-1822・安永1-文政5) 2世門弟文蔵が1807年襲名,3世破門後の穴を埋めたが名古屋で客死。(5)5世(1806-66・文化3-慶応2) 4世の実子初世仲助が3世式佐との家元相続争いに勝って1825年襲名。53年(嘉永6)4世古式部を相続。三弦の名手。常磐津節大成に尽力し,《乗合船》《三世相》等名曲の多くはこの人の作曲による。60年(万延1)初世常磐津豊後大掾と紛争を起こして独立,岸沢流を立てた。(6)6世(1833-98・天保4-明治31) 5世の子巳佐吉が1857年(安政4)襲名。86年常磐津派と和解。後5世古式部となる。(7)7・8世(1859-1944・安政6-昭和19) 6世の養子2世巳佐吉が1892年に7世式佐を襲名,いったん名を戻し,改めて8世式佐を名のる。21年6世古式部を相続。(8)9世(1892-1979・明治25-昭和54) 8世の養子3世巳佐吉が1921年襲名。26年常磐津勘右衛門となり常磐津正派を興す。(9)10世(1909-62・明治42-昭和37) 8世の実子4世巳佐吉が1931年襲名。(10)11世(1944(昭和19)- )10世の実子5世巳佐吉が1973年襲名。
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世界大百科事典(旧版)内の岸沢式佐の言及

【常磐津節】より


[展開]
 常磐津節成立の翌年,常磐津小文字太夫は独立して富本節を創始,以後両者はつねに勢力を競うことになる。文字太夫は順調に活躍を続けたが,1768年(明和5)に立三味線初世市蔵が死没,その後継者に初世岸沢式佐が選ばれたため,佐々木派と組んだ志妻,造酒(みき)両太夫が豊名賀と,若太夫が富士岡と改姓し一派を樹立した。ただし後者は1代で消滅,前者は3代限りで初世常磐津兼太夫のとき常磐津に再統一された。…

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