岩手(県)(読み)いわて

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩手(県)」の意味・わかりやすい解説

岩手(県)
いわて

東北地方の北東部に位置する県。南北195キロメートル、東西123キロメートルの南北に延びた紡錘形をなしている。太平洋に面し、海岸線の延長は669キロメートルに及ぶ。面積は1万5275.01平方キロメートルで全国都府県ではもっとも広く、ほぼ四国地方の8割に及び、北海道に次ぐが、人口密度は低く、北海道に次ぐ人口希薄県である。近年、県庁所在地の盛岡市近郊地域の人口増加が著しい。人口121万0534(2020)。

 8世紀ごろまで蝦夷(えぞ/えみし)の住む辺境の地とされ、その後もみちのく(陸奥)とよばれ、明治以降になってからも、中央から遠い地方に位置することが、岩手の後進性を条件づけてきた。かつては馬産と結び付く雑穀農業が中心で、米作基盤の弱さが冷害凶作の悲惨な生活史を生んできたが、近年では米作の強化と畜産を柱とした食糧供給基地を目ざして発展している。一方、岩手の風土は藤原三代の文化遺産を誇る平泉(ひらいずみ)を頂点に、各地に多種多様な民俗芸能などが受け継がれ、豊かな歴史と文化を包含している。とくに東北自動車道、八戸(はちのへ)自動車道、東北・秋田新幹線などの高速交通時代を迎えて、現在は「自然へのあこがれ」「ふるさとへの郷愁」にこたえることのできる国民的な憩いの地としての新しい地域づくりが課題となっている。

 2020年10月現在、14市10郡15町4村からなる。

[川本忠平・杉浦 直]

自然

地形

岩手の自然は、南北方向に走る北上(きたかみ)川縦谷(北上盆地)を中心に、それを挟む奥羽山脈北上高地の3条の巨大な地形によって特色づけられている。西部は第三紀層からなる奥羽脊梁(せきりょう)山脈が南北に走り、太平洋側と日本海側の分水界をなしている。気候的にも文化的にも東北地方を東西に二分する働きをしている。金属鉱床や多数の温泉群を有し、十和田八幡平(とわだはちまんたい)国立公園や栗駒(くりこま)国定公園、焼石(やけいし)連峰など火山も多い。東縁は断層崖(がい)で終わり、急斜面が北上盆地に向いている。東部は古生層を主体とした隆起準平原状の北上高地で南北250キロメートル、東西80キロメートルの紡錘状に横たわり、山頂部のなだらかな平坦(へいたん)面は昔から南部馬の放牧地として利用されてきた。その上に突出する早池峰山(はやちねさん)(1917メートル)は蛇紋岩から、五葉山(ごようさん)、姫神山(ひめかみさん)などは花崗(かこう)岩からなる侵食に耐え残った残丘である。なお、早池峰山一帯は早池峰国定公園に指定されている。その東縁は、本州最東端(東経142度4分21秒)の重茂(おもえ)半島のある三陸海岸で、特異なリアス海岸は豊かな漁場とともに地震津波の多発地帯でもある。また、豪壮で変化に富む三陸復興国立公園(旧、陸中海岸国立公園)の景勝地でもある。

 奥羽山脈、北上高地の接する奥中山(おくなかやま)峠(十三本木(じゅうさんぼんぎ)峠)を分水界として、馬淵川(まべちがわ)が北流、北上川が南流し太平洋に注ぐ。北上川は延長249キロメートル(岩手県分176キロメートル)で、北上川縦谷盆地(北上盆地)をつくり、県内の主要な平野部はこの河川沿いに集まっている。その西側は河岸段丘や扇状地が発達し、奥羽山脈の断層崖に続いている。胆沢(いさわ)扇状地、六原(ろくはら)扇状地があり、昔はこの扇状地や台地の末端に胆沢城や志波(しわ)城が築かれ、中央勢力(畿内政権)の東北進出・開発の拠点となった。また、江戸時代の北上川は船の交通路として利用され、さらに奥羽街道もこの北上盆地を南北に走り、いまの北上川筋の都市群は街道筋の宿場町や河港集落を母体として発達した。第二次世界大戦後、北上特定地域総合開発として、北上川に五つの多目的ダムが構築され、川と平野を中心とした開発によって、県の産業、経済、文化の大動脈となっている。県立自然公園は久慈平庭(くじひらにわ)など7公園。

[川本忠平・杉浦 直]

気候

中央日本の山岳地帯や北海道と類似する気候で、奥羽山脈とその山麓(さんろく)一帯は冬季の積雪が多い。とくに沢内(さわうち)盆地では積雪が数メートルに達し、年降水量は2000ミリメートルを超える。この自然条件を生かし、雫石(しずくいし)や安比(あっぴ)高原などいくつかの有力スキー場が開発されている。北上川の縦谷盆地は、夏は南東の風、冬は北西の風が卓越するが、いずれも乾燥した風で、年降水量は1200ミリメートル前後、冬の寒冷が厳しく盆地性気候である。しかし、太平洋岸は冬の季節風の影響が少なく、南東部ではツバキなどの暖地性の植物がみられる。北部では春から夏にかけて北東風が吹くことが多く、冷霧を伴う冷たい風(やませ)が内陸部にまで吹き込み、しばしば冷害の原因となってきた。

[川本忠平・杉浦 直]

歴史

先始・古代

遠野(とおの)市の金取遺跡(かねどりいせき)は、1980年代に本格的な発掘調査が始まり、2003年、2004年に第2次、第3次調査が行われ、中期旧石器時代の遺跡として注目された(第2次調査に伴い遺跡名の読み方を「かねとり」から「かねどり」とした)。また和賀(わが)郡西和賀(にしわが)町の大台野遺跡(おおだいのいせき)は後期旧石器時代から弥生(やよい)時代にかけての遺跡であり、縄文遺跡は県内各地に出土している。

 古代には、岩手県域は蝦夷(えみし)の地とよばれ塞外(さいがい)とされた。749年(天平勝宝1)、のちの遠田(とおだ)郡で砂金が採取され、陸奥国司によって中央に献納されている。これを契機に中央による奥州開発が始まったが、蝦夷の抵抗は大きかった。800年(延暦19)ごろ、征夷(せいい)大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は蝦夷地侵略のため北上川をさかのぼり、胆沢城、志波城の造営に成功した。

 平安時代中期の前九年の役は、1051~1062年(永承6~康平5)に奥六郡の司、俘囚(ふしゅう)長(現地出身の郡司)安倍頼時(あべのよりとき)・安倍貞任(あべのさだとう)らの抵抗を、陸奥守(むつのかみ)源頼義(よりよし)と出羽山北(でわせんぽく)の俘囚長清原武則(きよはらのたけのり)が制圧したものである。また後三年の役は1083~1087年(永保3~寛治1)に、前九年の役の戦功によって陸奥の大族となった清原氏の一族家衡(いえひら)、武衡(たけひら)らの内紛に、陸奥守源義家(よしいえ)が介入したものである。しかし朝廷は後三年の役を義家の私戦とみなし、彼を解任し、戦いの途中で義家にくみした家衡の異父兄で安倍氏の流れをくむ藤原清衡(きよひら)が奥羽の実権を握ることになった。

[川本忠平・杉浦 直]

中世

藤原氏は砂金、馬、漆などの豊かな経済力をバックに、いわゆる藤原三代、平泉文化をつくりあげた。初代清衡は中尊寺を、2代基衡(もとひら)は毛越寺(もうつうじ)を、3代秀衡(ひでひら)は無量光院を建立、仏教文化の移入に努めた。しかし1189年(文治5)4代泰衡(やすひら)のとき、鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)により滅ぼされ、藤原氏100年の歴史は終わった。

 1333年(元弘3・正慶2)建武(けんむ)新政の際、後醍醐(ごだいご)天皇は奥羽地方を親王任国にするため、北畠親房(きたばたけちかふさ)の子顕家(あきいえ)を陸奥守に任じ、義良(のりよし)親王とともに奥羽へ赴かせた。顕家は多賀(宮城県)に国府を置き、奥羽両国を平定した。1335年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱には、顕家は新田(にった)、楠木(くすのき)氏らと、尊氏を九州へ敗走させた。しかしその後勢いを盛り返した尊氏により、顕家は和泉(いずみ)(大阪府)で敗死した。

 このころ、県南部の胆沢、江刺(えさし)、磐井(いわい)、気仙(けせん)の4郡に葛西氏(かさいうじ)、中西部の和賀郡に和賀氏、稗貫(ひえぬき)郡に稗貫氏、岩手郡に工藤氏、中東部の閉伊(へい)郡に閉伊氏、北部の九戸(くのへ)郡に二階堂氏らが割拠していたが、顕家の死後は南朝、北朝に分かれて抗争が続いた。糠部(ぬかのぶ)(九戸周辺)から津軽(青森県)までを勢力圏としていた南部氏は、配下の大浦氏(のち津軽氏)に津軽を奪われたが、それでも秋田の安東氏、県南部の伊達(だて)氏と並ぶ勢力を有していた。のちに盛岡藩の礎(いしずえ)を築いた南部信直(のぶなお)のときには、糠部の一部、津軽の一部、鹿角(かづの)、岩手、志和郡を手にしていた。

[川本忠平・杉浦 直]

近世

1590年(天正18)豊臣秀吉(とよとみひでよし)は小田原の北条氏討伐への参加を奥羽の豪族に呼びかけた。南部、大浦、伊達氏は要請に応じたが、葛西氏、和賀氏らは参加せず、領主権を奪われた者も多かった。その後、南部氏は和賀、稗貫、閉伊郡を、伊達氏は江刺、気仙郡などを与えられ、岩手県はこの二者によって分けられ、50年に及ぶ藩境争論の末、全長120キロメートルにわたる藩境が確定し藩境塚がつくられた。この藩境塚の一部はいまに残っている。1598年(慶長3)前後に領土が南方へ拡大したため、南部氏は不来方(こずかた)(盛岡)に城を築き、南部氏盛岡藩10万石の本拠とした。

 近世初期には盛岡、仙台両藩とも領域に鉱山を有したため、財政は豊かであった。盛岡藩には閉伊郡の小友(おとも)金山、鹿角郡の白根金山、尾去沢(おさりざわ)銅山などがあり、また三陸沿岸の俵物(たわらもの/ひょうもつ)(海産物)は徳川幕府の長崎貿易の見返り品として重要であった。しかし、乱掘によって金、銅の産出は減少し、また、しばしば冷害凶作にみまわれ大飢饉(ききん)を生じた。凶作はおもなものでも、1695年(元禄8)、1755年(宝暦5)、1783年(天明3)、1833年(天保4)、1866年(慶応2)の5回あり、多くの飢餓者を出し、百姓一揆(いっき)を誘発した。盛岡藩は江戸末期には陸奥10郡、20万石を領した。明治維新では、盛岡、仙台両藩とも奥羽越列藩同盟の一員であったため、主流から外され、不利な状態で近代社会に出発した。

[川本忠平・杉浦 直]

近代

1868年(明治1)従来の陸奥国は、磐城(いわき)、岩代(いわしろ)、陸前(りくぜん)、陸中(りくちゅう)、陸奥(むつ)の5国に分割された。1870年盛岡藩が盛岡県になり、翌年には江刺県をあわせて、陸中国のうち岩手、紫波(しわ)、稗貫、和賀、閉伊、九戸の6郡を管轄した。1872年盛岡県は岩手県と改称した。1876年、陸中国の磐井(いわい)、胆沢、江刺3郡と陸前国気仙郡、陸奥国二戸郡を岩手県に編入して現在の岩手県域となった。

 明治以降、岩手の近代化の道は遠く、「後進県岩手」の名をぬぐい去ることができなかった。これはけっして人物を欠いていたためではない。原敬(はらたかし)、後藤新平、斎藤実(まこと)など政界人、金田一(きんだいち)京助、新渡戸稲造(にとべいなぞう)、石川啄木(たくぼく)、宮沢賢治などの学者、文人など幾多の人材を出している。それにもかかわらず産業の発展が遅れたのは、自然的災害が多く資本力も弱いことなど、近代化への基礎的条件を欠いていたことにあるといえる。しかしながら第二次世界大戦後、北上・北奥羽両特定地域の開発をはじめ、1970年代後半からの東北縦貫自動車道の整備、東北新幹線の開通(1982)によって、岩手県本来の力を発揮する歴史的課題としての基礎的条件の整備がようやく整ったといえる。

[川本忠平・杉浦 直]

産業

産業構造の特色は、第一次産業就業者が全体の約12%(全国平均は約4%)を占め、全国との対比において農業への傾斜が強い県である(2010)。これらの産業基盤から生み出される1人当り県民所得は223万4000円(2010)となり、全国平均の約82%にあたる。県では全国平均をいちおうの目標に産業基盤の整備を進めている。

[川本忠平・杉浦 直]

農林業

耕地面積は15万5700ヘクタール(2006)、そのうち62%が水田で占められ、生産米の多くは県外へ移出され、本県農業に占める比重は依然として大きい。一方、耕地面積の38%を占める畑作農業は従来、冷害に強いヒエを中心とした雑穀農業であったが、近年は葉タバコ、ホップ、高原野菜などの換金作物や畜産の導入によって、米作地帯との格差是正が図られている。とくに乳牛飼育は2003年(平成15)で5万8000頭、北海道、栃木に次いで全国第3位であるが、1990年に比べ1万3000頭減少している。肉牛は10万3600頭(2003)で、全国第5位、広い原野を生かした肉酪供給県としての地位を高めている。しかし、農家戸数は2000年に9万2000戸となり、10年前に比較して約1万6000戸、20年前に比較すると2万7000戸もの減少である。とくに専業農家と第1種兼業農家が減少した。さらに農業就業面では婦女子化、老齢化が進み、経営上の問題点は近年ますます深刻化している。林野面積は県総面積の76%にあたる115万7000ヘクタール(2000)で、1990年に比べて0.4%の減少である。森林蓄積量は1億9723万立方メートルで、国有林が26%、民有林が51%となっている。単位面積当りの蓄積量は国有林地に高く、民有林地に低いという特徴がみられる。素材の生産量では製材用(46.1%)、木材チップ用(46.8%)が大部分を占める。近年、国土保全、保健休養林など、森林に対する国民の多様な期待と関心が高まっている。県ではこれらとの調和をとりつつ、林業生産の増大を図る総合的施策を進めている。

[川本忠平・杉浦 直]

水産業

200海里経済水域の設定など沿岸国の規制強化によって、日本の漁業界は厳しい状況に直面し、沿岸漁業の見直し問題がおこっている。本県は669キロメートルに及ぶ三陸の海岸線を有し、その沖合いは黒潮(日本海流)と親潮(千島海流)のほかに対馬(つしま)海流の分岐流が交錯する広範囲の潮目をつくり、豊富な漁場を形成する。1980年には総漁獲量約24万トンで全国の約2.4%を占めたが、2005年には14万9000トンまで減少している。サバ、サンマ、イカ、サケ、タラなどが多く、宮古(みやこ)、釜石(かまいし)、大船渡(おおふなと)の3漁港で総水揚額の約7割を占めている。湾内ではワカメ、ノリ、カキ、コンブ、アワビ、ホタテなどの養殖漁業が発展、なかでもワカメの生産は、三陸ワカメとして全国一の生産地となっている。1976年から始まった国の沿岸漁場整備開発事業に伴い、県では魚礁設置、アワビ、ウニのえさ場造成、サケ・マス増殖整備などの計画を策定、同時に水産物産地流通加工センターなどの建設によって、全国的な水産物供給基地としての発展を目ざしている。2011年の東日本大震災で沿岸部は10~15メートルの津波に見舞われ、水産業は甚大な被害を受けた。2016年度には養殖生産量や産地魚市場の水揚量も震災前の半分を超え、本格的復興へ向けての一歩を踏み出した。

[川本忠平・杉浦 直]

鉱工業

鉱産資源に恵まれ、その種類も多く、埋蔵地域は県全体に及んでいる。鉱種別では1975年に、鉄鉱は全国生産量の75.8%で第1位、マンガン鉱は14.9%で第2位、銅鉱は10.8%で同じく第2位であった。また非金属鉱業として、石灰石は全国の5.2%、珪石(けいせき)は5.7%、耐火粘土は11.1%を占めた。これらの鉱産物の東北地方に占める割合は、石灰石が50%、珪石が99%、耐火粘土が91%である。しかし、稼働鉱山は最盛期には130を数えたが、全国的な鉱業界の不振から、松尾鉱山、田老(たろう)鉱山など相次いで閉山し、1981年には42に減少した。また、鉱業生産量も1990年以降は石灰石と珪石を除いて激減してしまった。

 製造工業の面では県内事業所数2723、従業者数9万6242人、年間出荷額2兆4130億円(2005。従業者4人以上の事務所)に上る。1980年代以前は出荷額の約15%を占めた鉄鋼業は激減し、かわって電機、食品などが多くなっている。しかし、1955年以降、誘致された企業数は426(1999現在)あり、これは県内の12%にすぎないが、その出荷額は約60%を占め、化学、精密機械、電気機器、紙・パルプ、金属の5業種が目だっている。その多くはJR東北本線、国道4号、東北自動車道沿いに分布し、太平洋セメント大船渡工場やかつての隆盛をきわめた新日鉄住金釜石製鉄所(現、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区)に代表される原料立地型に対し、労働力指向型の立地動向がみられる。高速交通時代に対応して、県外に流出する若年層の県内定着を図るためにも、さらなる中核工業団地の建設や公害防止施設の整備などが期待される。

[川本忠平・杉浦 直]

開発

1953年(昭和28)から始まった「北上特定地域開発」と1958年に着手された「北奥羽特定地域開発」により、河川などの災害の危険が除かれ、米の生産量は激増した。北上山系開発は、北上高地の諸資源を有効に利用するため、畜産と林業開発、観光と地下資源の開発、産業道路網の整備を基本として1967年に策定された。これにより北上高地内市町村の格差解消を目ざすのが大きな目的であった。1980年には1985年度を目標とする岩手県総合発展計画が策定された。高速大量交通時代への適切な対応、県土資源の活用、エネルギー問題への対応、高齢化社会への対応、格差是正の五つの課題があり、その解決を図るよう施策を展開するというものである。地域的な格差を是正し、県民ひとりひとりに結び付く施策が望まれている。

[川本忠平・杉浦 直]

交通

1982年(昭和57)、東北新幹線大宮―盛岡間が開通、県内には盛岡駅、北上駅、一ノ関駅が設置され、1985年3月の上野駅乗り入れと同時に水沢江刺、新花巻駅が開業した。1991年(平成3)東京駅乗り入れ、2002年(平成14)八戸(はちのへ)(青森県)まで延線、同時にいわて沼宮内(ぬまくない)、二戸(にのへ)駅が新設、2010年新青森駅まで延線された。また、1997年3月には秋田新幹線も開通した。1891年(明治24)青森まで開通した日本鉄道(現、JR)東北本線は県内を南北に縦貫していたが2002年東北新幹線の延線に伴い、盛岡―八戸間を第三セクターに移管した。東北本線と海岸部を結んでJR大船渡線、釜石線、山田線、八戸線が通じる。山田線茂市(もいち)駅では内陸部に向けて岩泉線が分岐した(2014年廃線)。秋田県へはJR北上線、田沢湖線、花輪線が連絡する。三陸沿岸の産業、観光開発に大きな役割をもつ鉄道は、旧国鉄の宮古線、盛(さかり)線、久慈(くじ)線が部分開業していたが、県は赤字ローカル線対策として第三セクター構想による三陸鉄道株式会社を発足させ、1984年4月、三陸鉄道の久慈―宮古間(北リアス線)、釜石―盛間(南リアス線)が開業した。2019年3月、東日本大震災(2011)後、長らく不通となっていたJR山田線の宮古―釜石間が三陸鉄道に移管され、南・北リアス線と統合し、三陸鉄道リアス線として運行を開始。盛―久慈間163キロメートルが結ばれた。また同じく不通となっていたJR大船渡線の盛―気仙沼(けせんぬま)(宮城県)間は、2013年3月にBRT(バス高速輸送システム)として復旧されたが、2020年(令和2)4月に鉄道事業は廃止された。

 花巻市には花巻空港があり、1983年からジェット機が就航している。道路実延長のうち市町村道が全体の約85%(2017)を占めるが、舗装率は55%弱(2005)にとどまっている。国道は内陸部を縦断する国道4号と、海岸部を走る国道45号を軸として、これを東西に結ぶ106号、107号、46号、北上高地を縦走する340号などがある。東北自動車道は川口ジャンクション―青森間が開通、八戸自動車道も安代(あしろ)ジャンクション―八戸北間が開通した。県中央部から秋田に抜ける秋田自動車道は、北上ジャンクション―二ツ井白神インターチェンジ(秋田県能代(のしろ)市)間が開通、県中央部から太平洋岸へ向かう道では釜石自動車道(花巻ジャンクション―釜石ジャンクション)が全線開通、三陸沿岸道路も2021年12月に全線開通している。県の産業の発達は、とりわけ陸上交通にかかっており、東北新幹線および東北縦貫自動車道の役割がとくに大きいといえる。

[川本忠平・杉浦 直]

社会・文化

教育文化

岩手県は教育、文化の面においても後進性のそしりを免れえなかったが、近時、高校進学率の急上昇など教育的民力も高まり、文化的諸活動にも大きな進展をみせている。高等教育機関も漸次充実し、国立の岩手大学(農・工・教育・人文社会学部)、宮古海上技術短期大学、県立の岩手県立大学、岩手県立大学宮古短期大学部、同大盛岡短期大学部、産業技術短期大学、農業大学などのほか、私立の岩手医科大学、富士大学、盛岡大学や、女子教育中心の盛岡大学短期大学部、修紅(しゅうこう)短期大学、岩手看護短期大学などの短期大学も整備された(2013)。社会施設では、1980年(昭和55)に県政百年記念事業として建設された県立博物館(盛岡市)、深沢紅子(こうこ)作品の野の花美術館、郷土先人をたたえる記念館として原敬、高野長英、斎藤実(まこと)、後藤新平、石川啄木(たくぼく)、宮沢賢治、三船久蔵(柔道)の各記念館のほか、第二次世界大戦中から戦後にかけて本県に寄留していた高村光太郎の記念館(花巻市)がある。

 新聞には、地方紙に1876年(明治9)発刊の『巖手(いわて)新聞誌』の後身『岩手日報』(発刊部数約23万部。2008年)のほか、『盛岡タイムス』、『岩手日日』(一関市)、『胆江(たんこう)日日』(奥州(おうしゅう)市)、『東海新報』(大船渡市)などもある。テレビ放送ではNHK盛岡支局のほか、岩手放送、テレビ岩手、岩手めんこいテレビ、岩手朝日テレビの民間放送があり、ラジオはNHKのほか、岩手放送や、エフエム岩手などが独自の放送活動を行っている(2013)。

[金野靜一]

生活文化

岩手県では広大で多岐にわたる風土を舞台に、古くからの金、鉄、馬、漆の生産、そして冷害に悩みながらの田畑の耕作、あるいはリアス海岸地帯での磯(いそ)漁業などを通して人々の生活が営まれ、そこから独自の生活文化が育ってきたといえる。長い間、蝦夷地とよばれてきたが、古代末期に生粋(きっすい)の奥州人藤原清衡(きよひら)らの手により金、馬、米、刀剣などの地元経済力を背景に、優れた平泉文化が花開くことになる。以後100年間は文字どおり「みちのくの世紀」というに足る時期であったのである。中世には砂金と軍馬のほか、漆の生産が盛んになり、さらには役畜農業経営が導入され、その振興が図られたのであった。

 近世、県北の盛岡藩(南部氏)、県南の仙台藩(伊達氏)両藩による岩手の支配は、その後300年の住民の生活形態に大きな違いを生んだ。今日でも岩手の風俗習慣や住民気質を論ずる場合、県北、県南の二つに大別せざるをえないが、このことはとりもなおさず、南部、伊達の幕藩体制の境界がそのまま生きていることにほかならない。たとえば、同じ岩手方言でも両者ではまったく異なるものがあり、民家の造りなども県北は曲屋(まがりや)が代表的だったのに対し、県南は直屋(すごや)で長屋門を構えた家が多かった。生活様式に種々の異なる要素がみられるが、これがもっとも顕著に現れるのは冠婚葬祭のそれである。

 ところで岩手は、県北、県南を問わず近代的生活様式の導入が遅れた地域であったが、それを示す例として、旧来の年中行事がかなり最近まで村々や家の慣行として行われていたことがあげられる。県北地方や北上山系盆地の町村では、昭和30年代の後半まで旧暦を軸とした生活が圧倒的に多かった。いまでも日常生活の節目となる行事などでは、これを使用している例がみられる。しかしそれだけに、暮らしの年輪ともいうべき民俗的事象が濃厚に残されていることになる。これらの民俗的事象の一つ一つに「みちのく」以来の風土性と生活のかかわりをみることができるが、生産と宗教的行事が結び付いて生まれた民俗芸能や、生活文化などについて次に触れてみたい。

 民俗芸能は、神仏に悪霊退散や身命息災を祈願し、五穀豊穣(ほうじょう)を願うとともに、これに感謝する具体的な表現でもあった。岩手の民俗芸能は、厳しい風土と生活のなかから生まれたもので、全県的な広がりをもち、約1000を超える芸能集団が分布している。そのなかには鎮魂を目的とする神楽(かぐら)、秋の実りの予祝である田植踊、祖霊供養のための鹿踊(ししおどり)、悪霊退散の念仏剣舞(けんばい)など、特色あるものが少なくない。

 平泉毛越寺(もうつうじ)の延年の舞(えんねんのまい)は、仏の供養と衆生(しゅじょう)の慰楽を兼ねた古舞踊で、国の重要無形民俗文化財である。神楽では早池峰山麓(はやちねさんろく)の岳(だけ)、大償(おおつぐない)地区に伝わる早池峰神楽(国の重要無形民俗文化財)が古式ゆかしい山伏(やまぶし)神楽として著名で、近辺の里(さと)神楽はみなこの影響を受けている。怨霊(おんりょう)思想に端を発し、これを供養、退散させることを表現した剣舞は、岩手の代表的な芸能で、念仏剣舞と称される。この踊りは強く大地を踏み、悪霊を鎮める反閇(へんばい)の呪法(じゅほう)と、念仏の法力を信ずる浄土信仰が結合したものといわれるが、踊り手が鬼様の仮面をつけるので、一般には鬼剣舞とよばれている。奥州(おうしゅう)市の川西念仏剣舞、朴ノ木沢(ほおのきざわ)念仏剣舞(いずれも「鬼剣舞」として国の重要無形民俗文化財に指定)は、それぞれ仮面をつけるが、これをつけない念仏剣舞も盛岡、岩手、紫波地方に伝えられ、盛岡市都南(となん)の永井の大念仏剣舞は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 鹿踊も岩手の代表的な芸能で、祖霊を供養し、悪霊を追い払うさまを舞踊化したものである。踊りの装束、態様から、おおむね県南型と県北型とに分けられる。県南では、踊り手が腹部に締太鼓(しめだいこ)をつけ、丈余のササラ竹を背負い、権現(ごんげん)型の獅子頭(ししがしら)をつけて踊る。県北型は、太鼓は身につけず、両手に幕を下げて踊り、別に囃子方(はやしかた)がつく。鶴羽衣(つるはぎ)鹿踊(奥州市)、春日(かすが)流落合(おちあい)鹿踊(花巻(はなまき)市)は太鼓系で、青笹(あおざさ)獅子踊(遠野市)は幕踊りの代表的なものである。田植踊は、1年間の田仕事のようすを表現した踊りで、気仙、東磐井、上閉伊、胆沢、和賀、稗貫、紫波の各郡に分布している。戸外で踊る「ニワ田植」と、座敷で踊る「ザシキ田植」があり、稗貫以北では前者が多く、県南は後者を主とする。山屋の田植踊(紫波(しわ)郡紫波町)は、古式ゆかしい早乙女(さおとめ)の笠(かさ)振りが特徴的で、国の重要無形民俗文化財となっている。

 盆踊りには、盛岡市とその周辺にさんさ踊があり、二戸、九戸地方には全国的にも古いといわれる南部盆踊り「ナニヤドヤラ」がある。近年まで一関地方に伝えられた奥浄瑠璃(じょうるり)とともに類例の少ない芸能として注目される。そのほか、稗貫、遠野、和賀の奴踊(やっこおどり)、沿岸地方のえびす舞、大黒舞、あるいは各地の農民歌舞伎(かぶき)、大名行列などがある。なお室根神社祭のマツリバ行事も国の重要無形民俗文化財に指定されている。

[金野靜一]

文化遺産

旧石器時代の遺跡は中期の遠野(とおの)市金取(かねどり)遺跡で、約8~9万年前の地層から石斧(せきふ)・円盤形石器・掻器(そうき)が出土。後期(約2万~1万年前)のそれは、奥州(おうしゅう)市の上萩森(かみはぎもり)遺跡、西和賀(にしわが)町の大台野(おおだいの)遺跡、盛岡(もりおか)市の小石川遺跡などがある。特筆すべきものに一関市花泉町の金森遺跡(かなもりいせき)があり、自然遺物やハナイズミモリウシ、キンリュウオオツノシカと命名された野牛・大角鹿の骨が出土した。それ以降の岩手の文化財はおおよそ次の五つに分けられる。その一は大船渡、陸前高田地方のもので、おもに縄文遺跡(大船渡市の下船渡貝塚、蛸ノ浦(たこのうら)貝塚、陸前高田市の中沢浜貝塚はいずれも国指定史跡)が中心である。その二は胆沢、江刺、和賀地域で、ここには弥生時代(やよいじだい)から古墳時代にかけての文化遺産がまとまっている。奥州市の常盤(ときわ)遺跡、角塚(つのづか)古墳(国指定史跡)、北上市の江釣子(えづりこ)古墳群(国指定史跡)などである。その三は、平安期のものとしての平泉文化で、なんといってもこれが岩手の文化遺産の中核である。中尊寺境内、毛越寺境内、無量光院跡はそれぞれ特別史跡、柳之御所・平泉遺跡群は史跡に指定されており、国宝の中尊寺金色堂をはじめ、3000有余の国宝、重要文化財をもっている。その四は盛岡市を中心としたもので、古い文化財もなくはないが、1597年(慶長2)南部信直(のぶなお)が盛岡城を築城して以降の近世の文化遺産が集中する。その五には、かつては一大文化地域を形成していたと考えられる二戸地方を中心としたものをあげたい。これは平泉文化より約100年以前のものと思われる二戸市浄法寺(じょうぼうじ)町の天台寺を中心とした文化である。岩手の文化の源流は、おおむね北上川をさかのぼって成立し発達したものと考えられるが、二戸地方のそれは能代川(のしろがわ)をさかのぼり、尾去沢から小豆沢(あずきさわ)(秋田県)周辺を通って入ってきたものと思われる。いわゆる西廻(にしまわり)航路による文化の終点地が二戸地方と考えられるが、その詳細な解明は今後の研究調査にまつところが多い。

[金野靜一]

物産

伝統的産業としては、南部鉄瓶と漆器の秀衡(ひでひら)塗が代表的なものであろう。南部鉄瓶は、県北地方沿岸部の砂鉄と北上高地で生産される良質の木炭(ミネバリ炭)を原料として鋳造されるのであるが、藩の積極的な奨励策もあって、地場産業として発達した。第二次世界大戦後は鉄瓶のみでなく、茶器、花器、鍋(なべ)類、置物などの鋳鉄工芸品も生産され、南部鉄器として国の伝統的工芸品に指定されている。漆器の生産も古い歴史を有するが、県南の秀衡塗、県北の浄法寺塗(じょうぼうじぬり)(いずれも国の伝統的工芸品に指定)が著名である。その起源は平泉の中尊寺と、二戸(にのへ)市浄法寺町の天台寺とされ、豊富な原木と漆を背景に発達したもので、それぞれの寺院で使用する什器(じゅうき)類が民間に伝えられ、これが基となって漆器産地として定着し、今日に至ったものである。

 そのほかの物産としては、岩谷堂箪笥(奥州(おうしゅう)市。国の伝統的工芸品に指定)、陶器の小久慈(こくじ)焼(久慈市)、鍛冶町(かじちょう)焼(鍛冶丁焼)・台焼(花巻市)、東山(とうざん)和紙(一関(いちのせき)市)、成島和紙(花巻市東和町)などがある。また染物には、盛岡藩の重要産物として手厚く保護育成された南部紫根染(しこんぞめ)、代々藩の御用染師であった小野家が、家伝の型紙による染めを再現した南部古代型染(かたぞめ)などもある。また、藩政時代から第二次世界大戦後までは盛んにつくられたものの、現在では岩泉町と一関市にわずかに技法が残っている南部紬(つむぎ)なども、名産の一つに数えられよう。

[金野靜一]

伝説

柳田国男(やなぎたくにお)の『遠野物語』が示すように、岩手は伝説や民話の宝庫である。

[金野靜一]

自然伝説

山は超自然的な神が存する所なので、信仰と結び付いている場合が多い。岩手、早地峰(はやちね)、姫神の南部三山に関するものが代表的で、それに北上高地の産金伝説が類型的に語られている。温泉や清水の湧泉(ゆうせん)の伝説も、巫女(いたこ)そのほかの呪術(じゅじゅつ)者に関連づけて語られているが、「弘法清水伝説」も県南から県北の九戸郡まで広く分布している。北上川の氾濫(はんらん)にかかる「白髯(はくぜん)洪水」は、修行中の山伏と山姥(やまうば)の葛藤(かっとう)を語る伝説で興味深く、磯姫の奏でる楽に魅了されて多くの漁師が死ぬという「竜神の神楽」の話(陸中海岸)は、「ローレライ」を思わせる伝説である。動物などに関するものではヘビがもっとも多く、ウマ、ウシ、クマ、サル、シカ、キツネ、タヌキ、ムジナ、ネズミ、ガマ、ウナギ、カニ、タニシ、タコ、ツル、スズメなどなど、人間生活にかかわりあるものすべてが登場してくる。ヘビは水神の使者、または水神そのものとみられ、農耕生活に欠くことのできない水の象徴であった。植物ではマツ、スギ、カツラ、ホオ、フジ、ブナ、タケなどが主で、神霊の宿る依代(よりしろ)として村境や山麓・野原などの祠(ほこら)に定着している。

[金野靜一]

歴史的伝説

岩手の歴史上の人物では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、安倍貞任(あべのさだとう)、源義家(みなもとのよしいえ)、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)、それに義経や弁慶らに関するものが多く、地名・祠・坂・川・湖沼・岩石などの由来譚と結び付いて語られている。なかでも貞任伝説と義経伝説が圧巻で、前者は源氏に敵対する悪の立場で語られる場合と、花巻市宮野目の兜(かぶと)大明神の由来のように、村人がこれを敬慕する、またはその負け戦(いくさ)を悼むという形のもので二分されていることが注目されよう。後者は、平泉以後の生存を語る「義経伝説」が、陸中海岸沿いに濃厚に分布している。南朝の長慶天皇のいわゆる「ながされ王」とそれにまつわる足利方や北畠顕家(きたばたけあきいえ)・顕信(あきのぶ)兄弟の事跡や挿話を語る伝説も少なくない。機織(はたおり)沼や白米城伝説、それに娘をいけにえにする人柱伝説も各地に分布しており、「長者譚」としては胆沢地方の掃部長者(かもんのちょうじゃ)、県南地方の小松長者、県北(八幡平(はちまんたい)市)のだんぶりの長者(トンボにより長者となり、やがて娘を都に奪われて孤独のうちに亡くなる)などの話があるが、いずれも長者衰亡、落魄(らくはく)を下地にしたものが多い。

[金野靜一]

宗教的伝説

早池峰山の主神のいわれを語る神遣(かみわか)れ伝説は稗貫(ひえぬき)・和賀・上閉伊地方に分布しており、馬の神である「蒼然さま(そうぜんさま)」の伝説は県央・県北に、農神にちなむものは県央・県南に濃厚である。山の神は、全県にくまなく分布しているが、遠野のそれは特徴的である。山の神は春に里に降りて、秋の実りのころまで田畑を守護するというのが一般的な信仰であるが、遠野では山の神と天狗(てんぐ)は一つのもののようであり、また山男と類似しているという説話も少なくない。

 『遠野物語』に出てくる家の神たるオコナイサマ・オシラサマ・ザシキワラシは、いずれも民話的な伝承として語られるが、それぞれ本県に濃厚、かつ顕著にみられる神々で、三者の性格には共通なものがあり、区別は容易ではない。いまではオシラサマが一般によく知られるようになったが、オコナイサマはオシラサマの別名だとしている所もある。かつて柳田国男も「オシラ神とオコナイ神は、深い関係にあると思うがあまり問題が幽玄で云々」と述べ、詳細は不明だとしている。ザシキワラシは、守護神残留のおもかげのうかがえる伝承が多く、本県ならではの感がする。

[金野靜一]

〔東日本大震災〕2011年の東日本大震災では死者5140人・行方不明1116人、住家全壊1万9508棟・半壊6571棟の被害を受け(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第157報)」平成30年3月7日)、産業被害額は農林業984億円、水産業、漁港5649億円、商工業1335億円、観光業(宿泊施設)326億円の計8294億円にのぼった。2016年度の実績では、主要観光地の入込客数は震災前の水準にほぼ復したものの、産地魚市場の水揚量、養殖生産量はようやく震災前の半分を超え、被災事業所の売り上げは震災前の約半分、農地の復旧面積は約4分の3にとどまっている(「いわて復興の歩み」2017年7月)。2018年2月13日現在の県内避難生活者数は8000人を超え、県外避難者数も1200人を超えている(復興庁)。

『『岩手県史』(1961~1965・岩手県)』『瀬川経郎著『新岩手風土記』(1971・熊谷印刷出版部)』『森嘉兵衛著『岩手県の歴史』(1972・山川出版社)』『岩手放送編『岩手百科事典』(1978)』『『岩手県の歴史と風土』(1980・創土社)』『金野静一・須知徳平著『岩手の伝説』(1980・角川書店)』『細井計他著『岩手県の歴史』(1999・山川出版社)』


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