岩屋浦(読み)いわやうら

日本歴史地名大系 「岩屋浦」の解説

岩屋浦
いわやうら

[現在地名]淡路町岩屋

淡路島の北端を占め、北・東は海に面する。南は楠本くすもと(現東浦町)、西は江崎えざき(現北淡町)大谷おおたに川・長谷ながたに川・茶間ちやま川・鵜崎うざき川が北東流もしくは東流して海に入る。

〔古代〕

播磨明石、舞子まいこ(現神戸市垂水区)が指呼の間に望まれて、難波と西海を結ぶ航路の要衝の地である。「万葉集」巻三雑歌所収の柿本人麻呂の一首「天離る夷の長道ゆ恋来れば明石の門より大和島見ゆ」の歌にちなんで大和やまと島とよばれる小島や、島、松帆まつほの浦など歌枕となっている地が点在するなど、淡路島を代表する景勝の地とされる。「播磨国風土記」の讃容さよ中川なかつがわ里の条には、息長帯日売命(神功皇后)が韓国に行く途次、その船が「淡路の石屋」に宿ったことが記されている。「続日本後紀」の承和一二年(八四五)八月七日条に「淡路国石屋浜与播磨国明石浜、始置船并渡子、以備往還」とみえ、このとき官船による渡しが明石浜との間に開かれた。「日本書紀」によれば神功皇后摂政元年、坂王らが播磨にいたり、山陵を赤石(明石)に興し、船を編んで淡路島に渡して島の石を運んだとある。伝説ではあるが、この場合も明石と岩屋をつないだのであろう。都と淡路との公式の往還は、紀伊国賀陀かだ(賀太)(現和歌山市)由良ゆら(現洲本市)との間に開かれていたが、平安時代に入って、北路も重視されるようになったのであろう。

〔中世〕

貞応二年(一二二三)の淡路国大田文には「石屋保」としてみえ、田六丁七反一四〇歩(除田三丁九反、残田二丁八反一四〇歩)・畠五丁二一〇歩(除畠一丁一反半、残畠三丁九反三〇歩)、石屋宮、浦一所からなる。承久の乱以前の地頭は中務入道(淡路守護佐々木経高)、新地頭は当守護所(長沼宗政)で、歴代守護が管理する地であったと考えられる。仁治四年(一二四三)二月高野山正智院道範阿闍梨は四国に配流される時、同月三日摂津国筒井つつい(現神戸市中央区)から岩屋に渡り、同日夕方岩屋付近を巡回し、絵島の明神に詣で、その一帯の情景を「青巌之形、緑松之体、碧潭之色、晩嵐之声、其感興忘愁緒ヲ了」と記している(南海流浪記)。文安元―二年(一四四四―四五)の兵庫北関雑船納帳、同二年の兵庫北関入船納帳によれば、岩屋の船が米・大麦・木・大木を積んで多数兵庫北関に入港していたことが知られる。

天正(一五七三―九二)初年頃、織田信長と対立する摂津石山本願寺(大坂御坊)毛利氏が支援するようになると、交通の要所である岩屋は毛利軍の前線基地となった。

岩屋浦
いわやうら

[現在地名]若松区有毛

響灘に臨む浦。有毛ありげ村の北部にあり、響灘に向かっては北西方遠見とおみノ鼻(妙見崎)が突出している。有毛村の枝郷として扱われたが、一村として扱われることもあり、岩屋村(「続風土記附録」など)ともいった。遠見ノ鼻には遠見番所が置かれていた。慶長一三年(一六〇八)の岩屋村畠方帳によれば、畠方は反別三町二反余・分大豆二六石三斗で、畠方開があった(若松市史)。元和九年(一六二三)の黒田忠之浦并水夫等目録(松本家文書)では当浦の水夫三人・丸木船二艘。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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