岩倉村(読み)いわくらむら

日本歴史地名大系 「岩倉村」の解説

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]岩倉市ひがし町・東新ひがししん町・大市場だいいちば町・ほん町・中本なかほん町・下本しもほん町・中野なかの町・鈴井すずい町・いずみ町・宮前みやまえ町・西市さいち町・さかえ町・新柳しんやなぎ町・中央ちゆうおう町・あさひ町・昭和しようわ

北は石仏いしぼとけ神野かみの八劔やつるぎ村に、東は小木こき(矢戸川・巾下川)を隔てて春日井郡小木村(現小牧市)に、南は曾野その村・岩倉羽根いわくらはね村・大地だいち村に、西は町屋まちや村・塩尻しおじり(現一宮市)北島きたじま村に接する。天保村絵図によれば村域内を南北におさな(五条川)が流れ、その西にほぼ平行して犬山いぬやま街道が通る。明応七年(一四九八)六月二日の紀銘のある方便法身画像(川井町光禅寺蔵)の裏書に「尾州丹羽郡岩倉村 井上庄中野六郎丸 光禅寺」とあるのが初見。

成瀬隼人正の采地村。高三千四六四石余、田は一一七町七反三畝余、畑は一三六町八畝余。その他、隼人正采地の新田高九八石余、田は八町四反七畝余、畑は二町一畝余。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]鳥取市岩倉・立川町たちかわちよう七丁目・卯垣ぼうがき四丁目

卯垣村の南東に位置し、村名は磐座、もしくは国府北西の境界地に置かれた古代の兵庫にちなむという(因幡志)。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)には北部の「奥ノ郡家谷」にいくつかの溜池が描かれている。拝領高は四一九石余、本免は五ツ七分。藪役銀一匁七分・宇倍野山役米三斗余を課されており(藩史)、秋田氏・清水氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦八年(一七五八)の水帳(田中家文書)によれば高四五八石余で、名請人数は四四。名請人の持高の構成は八〇石未満―六〇石以上二、四〇石未満―三〇石以上二(うち入作一)、三〇石未満―二〇石以上四(うち入作一)、一六石未満―一二石以上三(うち入作一)、一二石未満―八石以上三、八石未満―四石以上五(うち入作一)、四石未満―一石以上一七(うち入作七)、一石未満八(うち入作一)。「因幡志」では家数三六。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]脇町岩倉・脇町 小星こぼし西田上にしたねえなど

脇町の西、東流する吉野川の左岸(北岸)に位置し、北は岩倉山、西は郡里こおざと(現美馬町)、吉野川対岸南方は小島おしま(現穴吹町)など。古くは岩倉山も含めて岩倉と称したと思われ、岩倉は岩蔵とも書いた。地内の東部、脇町との境に近い西田上には中世の岩倉城跡がある。また文化四年(一八〇七)の東岩倉村検地名寄帳(出原家文書)が残るように、近世には村内を東西に分け、東岩倉村と西岩倉村の二村として扱う場合もあったようである。建武元年(一三三四)四月一一日の旦那売券(熊野那智大社文書)によると、円珠房全秀は重代相伝の私領である「阿波国いわくら」の先達式部律師および同舎弟・門弟引の旦那を「ひこ五郎殿」に現銭二貫五〇〇文で永代売渡している。一四世紀には岩倉に紀伊熊野修験の先達の活動拠点があったことがうかがえるが、地内にあった白水しらみず(愛行院、現廃寺)は中世阿波国における修験僧(念行者)の有力拠点の一であった。なお慶長四年(一五九九)の廊之坊諸国旦那帳(同文書)にも阿波国として「岩蔵式部公引」がみえる。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]左京区岩倉〈上蔵あぐら町・下在地しもざいじ町・忠在地ちゆうざいじ町・中在地なかざいじ町・西河原にしがわら町・村松むらまつ町〉

岩倉盆地の中央西側に位置し、北は長谷ながたに、東はなか花園はなぞの高野たかの、南は松ヶ崎まつがさき、西は幡枝はたえだの各村に接する。天保郷帳には「北岩倉村」と記す。

岩倉の名称は、古代の磐座信仰によるものといわれ、その形跡はいまも山住やまずみ神社(旧岩座大明神)に伝えられるが、伝承によれば、平安京が造営された際、京の四方の山上に一切経を納め、東西南北の名を冠する四つの岩蔵が設けられたが、この地もその一つといわれ、岩蔵・石倉・石座などと書かれる。

古くより天台宗実相院じつそういん門跡領に属し、室町時代には北岩蔵(倉)郷などともよばれた。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]鳥羽市岩倉町・若杉わかすぎ

鳥羽湾に流入する加茂かも川の中流にあり、北に船津ふなつ村、南に松尾まつお村がある。縄文時代の中尾なかお遺跡、弥生時代の城山しろやま遺跡、および熊倉くまくら古墳がある。字城山に田城たしろ城跡がある。標高約三〇メートルの独立丘陵上にあり、「鳥羽誌」に「始め九鬼山城守泰隆、天文年中此地に城を築き、子宮内大輔定隆、孫宮内少輔浄隆之に居る」とある。泰隆はこの城を本拠に伊勢国司北畠氏に属し、功によって二見七郷と加茂五郷を与えられた。

岩倉村
いわぐらむら

[現在地名]木沢村岩倉

川成かわなり村の西、坂州木頭さかしゆうきとう川最上流山間に位置する。北は麻植おえ木屋平こやだいら(現木屋平村)、南は海部かいふすけ村・折宇おりう(現木頭村)、西は同郡北川きたがわ(現同上)、北西はつるぎ山を境に美馬みま祖谷いや山と接する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「岩くら村」とある。正保国絵図には「長安之内岩倉村」とみえる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では長安ながやす(現上那賀町)の枝村として村名が記される。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]豊田市岩倉町

ともえ川の西岸にあり、対岸の九牛平くぎゆうだいらとは港橋で結ばれている。足助あすけ街道と、巡見使道筋の一部である岩倉道が通る。巴川には平古ひらこ渡場があって、水陸ともに交通の要衝である。

先土器時代のよしいりB遺跡と縄文時代の吉ヶ入A遺跡があり、一本松いつぽんまつ第一・第二号墳がある。字城の浦しろのうらには岩倉城跡があり、今は山林で削平地・削崖が残る。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]飯豊町岩倉

川内戸かわないど村の南西、しら川上流域に位置し、南は高造路たかぞうろ村。同川左岸には御蔵おくら山とよばれる特異な岩山がそそり立つ。伊達氏天文の乱のさなかの天文一四年(一五四五)六月小国おぐに(現小国町)城主「上郡山常陸景軽」は心変りして「下長井」と約し、「岩蔵」に打入ったが、晴宗方の中津川助兵衛がこれを防いでいる(伊達正統世次考)。近世初期の邑鑑では川内戸村・高造路村とともに高付され、高五三九石余、免一ツ七分、家数二九(うち役家三・肝煎二)、人数一一一。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]日原町相撲すもうはら

小倉谷こぐらだに村の北西に位置し、津和野奥筋往還須川すがわ村から当村を通り、相撲ヶ原村へ至る。慶長七年(一六〇二)の検地高三二石余、相撲ヶ原村の枝村であった(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高五六石余、田八町余・畑二町九反余(「検地帳」同書)。明治四年(一八七一)の総高六一石余・反別一二町九反余、家数一一(本百姓)・人数六九、牛六、大元おおもと社、鉄砲九、紙漉舟一一(万手鑑)。天保七年(一八三六)当村と相撲ヶ原村では紙漉山を藩に願出て、赤石あかいし山の半分を引渡され、そこへ楮を植付けて年々両村より一〇人の人夫をもって焼切を行うことが取決められた(「紙漉山受書」日原町史)

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]嬉野町岩倉

中村なかむら川の支流岩倉川の右岸沿いの山間に位置する。岩倉川を下向すれば矢下やおろし村に至り、また遡上すれば一志郡与原よはら(現松阪市)を経て、飯高いいたか伊勢寺いせでら(同前)に至る。小字に勝利垣内しようりがいと刑部ぎようぶ垣内・垣内があり、中世における開発がうかがわれる。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に伊福田いぶた(現松阪市)とともに岩倉とみえ、石高一六一・七四石とある。江戸時代は飯福田いぶた村のうちとして津藩領に属する。元禄一三年(一七〇〇)の調べでは高六六・八三石(伊勢国郡村荘録)。寛延(一七四八―五一)頃には家数二五、人数一二五、馬一で、神祠に八王子、寺院に「法寺」がみえる(宗国史)

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]秦荘町岩倉

松尾寺まつおじ村の西に位置し、北東は斧磨よきとぎ村。岩倉川が北西流する。中世は安孫子あびこ庄の一部として推移したとみられる。天正一九年(一五九一)五月の愛知郡蔵入目録(芦浦観音寺文書)に「あひこの郷」の小物成として、「いわくら山」の山手米高四斗がみえる。これは安孫子庄の入会山にかかる年貢と推定される。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳では高四〇八石余とある。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]近江八幡市馬淵町まぶちちよう

馬淵村の東にある。岩倉山(瓶割山の一峰)の西麓にあたり、南は倉橋部くらはしべ村、北は千僧供せんぞく村・長光寺ちようこうじ村。千僧供村六枚ろくまい橋で中山道から分岐して蒲生野がもうのに通じる道(通称鮎河道)が通る。文禄三年(一五九四)二月二日の惣掟(岩倉共有文書)は寄合不参加者には米三升の科料を課すこと、在所の不利になるような事柄を暴露したり、惣の置目を破った者は惣から除外し、在所の代表として罪人に代って解死人となった者は一代に限り万雑公事を惣で肩代りすることなどを定めている。慶長五年(一六〇〇)旗本坂井領となり、同領で幕末に至る。寛永石高帳では高二九六石余。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]井原市岩倉町

西方にしがた村の西にある。「小田物語」によれば、慶長七年(一六〇二)より糟谷内膳(父子二代)領とみえる。内膳は武則とも称し、しずたけ七本槍の一人。いわゆる大坂侍で、小田おだ郡内に三千石を有したが、大坂冬の陣で所領は没収された。寛永備中国絵図では松山藩領で高三〇八石。正保郷帳では幕府領で枝村に大木おおき村が載る。天明備中騒動では、当村からも参加者がおり、過料を申渡された者もいた(「百姓強訴一件」鹿児島大学蔵)。文政一一年(一八二八)の桑・楮・藪・林・草山年貢は銀一一匁九分、弘化二年(一八四五)の年貢負担率は一〇石以上は四軒で二七・三パーセント、五―九・九石は六軒で四二・六パーセント、一―四・九石は二一軒で二四・七パーセント、一石以下は三九軒で五・四パーセント(井原市史)

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]中井町岩倉

岩倉川が村央から南隣松本まつもと村界を流れ、東はさかい村、西と南は松本村、北は境村・境別所さかいべつしよ村と接する。永禄一〇年(一五六七)一〇月一二日の小田原本光ほんこう寺宛北条氏康朱印状写(県史三)に「毎年定施餓鬼銭并御霊供米銭書下」として

<資料は省略されています>

とあり、天正元年(一五七三)一二月一八日の北条氏規朱印状写(同書)では「本光寺殿御霊供銭并施餓鬼銭五貫文」について「至于来年者、於中村下岩倉、如兼約可有御所務候」と記され、再び同寺の会式料に当村が充てられている。

近世は初め小田原藩領、宝永五年(一七〇八)以後幕府直轄領。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]三田市藍本あいもと

藍本庄あいほんじよう村の東に位置し、北部はやけ山、南部は茗荷谷みようがたに山・遠城寺えんじようじ山・黒谷くろたに山など標高四〇〇メートル級の山々が続き、中央を東流する武庫むこ川両岸に段丘が開ける。慶長国絵図に岩倉村とみえ、高一四八石余。正保郷帳では高二二二石余。明治七年(一八七四)まがり村など四ヵ村と合併し藍本村となる。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]男鹿市脇本富永わきもととみなが 岩倉

男鹿半島の南頸部、寒風かんぷう山の南山麓の丘陵先端にあり、東は大倉おおくら村、南は田谷沢たやざわ村と境する。寒風山の南登山口に位置し、南山麓一帯が村域である。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「岩倉村 宮沢村」として二八三石九斗五升二合とあり、文禄三年(一五九四)の小鹿嶋之内知行方帳(秋田藩家蔵文書)には岩倉村九七石六斗九升とある。一六世紀中頃の羽黒山衆徒との合戦中、男鹿の大将涌本五郎親季の戦いぶりをみて「同男鹿の住人岩倉右近、此の由見て、大将討すなと百余人、小船に打乗り、押出る」(奥羽永慶軍記)とある岩倉右近は岩倉村の住人であろうか。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]倉吉市岩倉

大宮おおみや村の南、広瀬ひろせ川支流岩倉川の中流域に位置する。岩蔵とも記した。集落の南東方には小鴨氏累代の居城であった岩倉城跡がある。永禄一三年(一五七〇)のものと推定される三月三日付の毛利元春書状(閥閲録)に「岩倉」とみえる。なお岩倉城下には町場が形成されていたといわれ、天正一〇年(一五八二)の同城落城後、城下住人は倉吉・米子などへ移っていったと伝える。藩政期の拝領高は二七〇石余、本免は四ツ九分。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高三〇〇石余、竈数二八、村内に荒神を祀る。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]加茂町岩倉

東は東谷ひがしだに村、南は猪尾いのお村・大崎おおさき村・延野のぶの村・大竹おおたけ村。猪尾川が村の南部を流れる。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高二八七石余、寛文四年(一六六四)の本田高二七九石余・新田高九斗余。「雲陽大数録」では高二五〇石。寛政一二年(一八〇〇)の人数三二九(「大原郡宗門改」加茂町誌)。当村には草山が多く、猪尾村・大崎村は当村の山で牛馬の餌・肥の草を刈っていた。享保五年(一七二〇)三村で協定したが、しだいに争いが生じ喧嘩口論が発生した。

岩倉村
いわくらむら

[現在地名]織田町岩倉

織田盆地の北東部山麓にあり、北は篠川ささがわ村、南は桜谷さくらだに村、西は細野ほその村。「足羽社記略」は村名について「伊部いへ 按、今云、細野巌倉村是也乎、延喜式云、伊部磐座いへいはくらの神社」と記すが確かではない。応仁―天文年間(一四六七―一五五五)と推定される越前国織田庄指出水帳(山岸家文書)に「同名之内拾二分一 岩蔵正一衛門分御散田」とみえる。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録には「磊村」高二九四・六二石と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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