岡本文弥(読み)オカモトブンヤ

デジタル大辞泉 「岡本文弥」の意味・読み・例文・類語

おかもと‐ぶんや〔をかもと‐〕【岡本文弥】

[1633~1694]江戸前期の古浄瑠璃太夫大坂の人。大坂道頓堀の伊藤出羽掾座で活躍文弥泣き節といわれる文弥節始祖。→文弥節

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百科事典マイペディア 「岡本文弥」の意味・わかりやすい解説

岡本文弥【おかもとぶんや】

古浄瑠璃(こじょうるり)の文弥節の演奏家(太夫)。初世〔1633-1694〕は大坂道頓堀(どうとんぼり)の伊藤出羽掾(でわのじょう)座で語り出し,人気を集めた。文弥節の始祖とされる。4世〔1895−1996〕は東京都出身。本名井上猛一。早稲田大学中退。母の3世岡本宮染(みやそめ)に師事する。1923年に岡本派を再興し,岡本派4世家元として岡本文弥と改名古典の他に《太陽のない街》《西部戦線異状なし》などの自作新内節を上演し,〈邦楽界の異端児〉といわれた。1956年度の芸術選奨受賞。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡本文弥」の意味・わかりやすい解説

岡本文弥
おかもとぶんや

生没年不詳。延宝(えんぽう)~元禄(げんろく)(1673~1704)ごろの浄瑠璃太夫(じょうるりたゆう)。1679年(延宝7)刊の『難波雀(なにわすずめ)』の書中には、大坂の伊藤出羽掾座(でわのじょうざ)で活躍し、文弥節がもてはやされ一時は大いに流行したありさまが書かれている。『名人忌辰録(めいじんきしんろく)』に元禄7年(1694)没したと記されているが、芸歴とともに明らかでない。伊藤出羽掾を初世とする説がある。文弥節は元禄後期には義太夫(ぎだゆう)節に押されて衰絶し、いまでは義太夫、一中豊後(いっちゅうぶんご)系浄瑠璃などに、「文弥」という曲節を残すのみとなっている。曲風は哀婉(あいえん)な軟派風とみえて、泣き節とも称せられた。なお、新内節(しんないぶし)の4世家元岡本文弥(1895―1996)は、文弥節とは関係がない。また現在、佐渡の郷土芸能に文弥節の名が残っている。

[林喜代弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「岡本文弥」の意味・わかりやすい解説

岡本文弥 (おかもとぶんや)

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世界大百科事典(旧版)内の岡本文弥の言及

【浄瑠璃】より

… 大坂では京,江戸に比して寛永ころは低調であったが,1648年(慶安1)に伊藤出羽掾は二郎兵衛ほかとともに《親鸞記》を上演して本願寺より禁止されている(《粟津家文書》)から,このときすでに出羽掾を受領しており(《町人受領記》は1658年),操り座をもっていた。この座で活躍した太夫に大坂二郎兵衛,岡本文弥(文弥節)がある。文弥の語り物に《四十八願記》《善光寺》などがあり,泣き節と呼ばれた。…

【文弥節】より

…浄瑠璃の曲節および流派名。初世岡本文弥(1633‐94)が語り出した古浄瑠璃の曲節で,延宝~元禄期(1673‐1704)に京坂で流行した。初世岡本文弥は大坂道頓堀の伊藤出羽掾座で語り出して人気を集め,2世(生没年不詳)がそのあとを受け継いだらしいが,盛期は長くなかった。…

※「岡本文弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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