岡崎藩(読み)おかざきはん

改訂新版 世界大百科事典 「岡崎藩」の意味・わかりやすい解説

岡崎藩 (おかざきはん)

三河国(愛知県)岡崎に藩庁を置いた譜代中藩。徳川家康はこの地を本拠に独立し,のち天下統一に乗り出した。1590年(天正18)家康の関東移封後,豊臣秀吉によって田中吉政が岡崎に封ぜられたが,1601年(慶長6)関ヶ原の戦の功によって筑後久留米に移され,かわって家康の腹心の一人本多康重が5万石で入封した。康重は領内検地を実施,天守閣を築き,城下町の整備につとめるなど藩政の成立に努力した。康重のあと康紀,忠利とつづき,45年(正保2)利長のとき遠江国横須賀に移され,水野忠善が三河国吉田から5万石で入封した。忠善は性剛毅,武勇好み,新しく家臣を召し抱えて軍備の強化をはかり,新田を開発するなど藩政の確立につとめた。忠善のあと忠春,忠盈(ただみつ),忠之,忠輝,忠辰(ただとき)とつづくが,忠之は老中として享保改革の実施に参画し,1万石を加増された。忠辰の時代になると藩財政の危機が深刻化し,そのため忠辰は重臣らを退けてみずから藩政の改革をはかった。しかし,家中の反対が強く,改革は失敗し,忠辰は重臣らによって幽閉されている。1762年(宝暦12)忠任のとき肥前唐津に移され,松平康福が下総古河から入封した。康福はわずか8年余の在城で石見浜田へ移され,この地の本多忠粛(ただとし)が入封し,忠典(ただつね),忠顕,忠考(ただなか),忠民(ただもと),忠直とつづいて明治維新をむかえた。この本多氏の治政を藩政成立期の本多氏と区別して後本多の時代というが,入封当初から財政困窮に苦しみ,所替を幕府に願ったが許されず,寛政期には借財が30万両をこえた。そこで家老中根隼人らが中心になって江戸商人三谷に協力を求め,財政の改革を試みた。天保期の凶作では物価が騰貴し,隣の加茂郡では大規模な百姓一揆加茂一揆)がおこり,藩は鎮圧のため出兵している。安政期には藩主忠民が再び財政の改革に取り組み,また,老中として安藤信正を助けて公武合体運動に参加した。廃藩置県によって岡崎県となり,ついで額田(ぬかた)県に属し,1872年愛知県に統合された。
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百科事典マイペディア 「岡崎藩」の意味・わかりやすい解説

岡崎藩【おかざきはん】

三河国額田(ぬかた)郡岡崎(現愛知県岡崎市)に政庁(岡崎城)を置いた譜代中藩。1590年の徳川家康関東入国後,田中吉政が10万石で入封し,岡崎城の拡張・整備を行った。関ヶ原の戦後の1601年に田中氏は筑後久留米に転封となり,代わって本多康重が5万石で入封。1634年には5千石を加増され,1645年利長の時に庶兄と弟に計6560石を分知した。同年利長は遠江横須賀に転封となり,水野忠善が5万石で入封。忠善の時代には1649年の総検地実施,新田の開発,軍制の強化などが推進された。1664年には弟忠久に新田分5千石を分与。同年の藩領は碧海(へきかい)郡51ヵ村・額田郡72ヵ村・加茂郡38ヵ村・幡豆(はず)郡4ヵ村であった。1725年忠之の時1万石を加増された。1762年水野忠任は肥前唐津に転封となり,松平康福が5万400石で入封,1769年には石見浜田へ移された。代わって本多忠粛が5万石で入封,以後同氏を藩主として1871年の廃藩置県に至った。忠粛入封当初から藩財政は窮乏し,家中からの借知を行うほか幕府へ財政援助や所替を願い出た。寛政期(1789年−1801年)には家老中根隼人らにより,江戸商人の協力を得て財政改革が行われ,いったんは危機を回避した。だが天保期(1830年−1844年)には再び窮乏し,安政期(1854年−1860年)からは藩主忠民のもとで有力農民層の援助を得て財政立直しが試みられている。
→関連項目本多氏

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡崎藩」の意味・わかりやすい解説

岡崎藩
おかざきはん

三河国額田(ぬかた)郡岡崎(愛知県岡崎市)に置かれた譜代(ふだい)藩。豊臣(とよとみ)系大名の田中吉政(よしまさ)ののち、1601年(慶長6)本多康重(やすしげ)が5万石で入封。以後、岡崎は徳川家康ゆかりの地として、また東海道の宿場として譜代中の名門が藩主となる。歴代藩主は本多康重以降、康紀(やすのり)・忠利(ただとし)・利長(としなが)、水野忠善(ただよし)(1645年入封。5万石)・忠春(ただはる)・忠盈(ただみつ)・忠之(ただゆき)(1万石加増)・忠輝(ただてる)・忠辰(ただとき)・忠任(ただとう)、松平(松井)康福(やすよし)(1762年入封。5万8000石)、本多忠粛(ただとし)(1769年入封、5万石)・忠典(ただつね)・忠顕(ただあき)・忠孝(ただたか)・忠民(ただもと)・忠直(ただなお)と続き、幕末に至る。岡崎藩は藩主が幕府の要職につき、日光社参などの臨時課役を勤めることも多く、矢作(やはぎ)川沿いの肥沃(ひよく)な地をもつわりに藩財政が悪かった。藩政は、藩主の江戸在勤が長かったため、老臣により運営されることが多く、藩政改革に失敗した水野忠辰のように幽閉された藩主もいた。1836年(天保7)の加茂一揆(いっき)で藩は鎮圧のため出兵したが、収奪が厳しく民心が動揺したといわれる。71年(明治4)廃藩、岡崎県、額田県を経て翌年愛知県に編入された。

[渡辺和敏]

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藩名・旧国名がわかる事典 「岡崎藩」の解説

おかざきはん【岡崎藩】

江戸時代三河(みかわ)国額田(ぬかた)郡岡崎(現、愛知県岡崎市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は允文館(いんぶんかん)、允武館。徳川家康(とくがわいえやす)生誕の地で、家康は当地を本拠に独立し、天下統一に乗り出した。関ヶ原の戦いのあと、1601年(慶長(けいちょう)6)に徳川氏譜代の重臣本多康重(やすしげ)が5万石で立藩、以後当藩は譜代中の名門が交代で藩主を務めた。本多氏4代のあと、水野忠善(ただよし)が45年(正保(しょうほう)2)に入封(にゅうほう)。その4代の忠之(ただゆき)は老中として享保(きょうほう)の改革に参画し1万石加増、6万石となった。水野氏7代のあと、短期間の松平(松井)康福(やすとみ)を経て、1769年(明和(めいわ)6)に本多忠粛(ただとし)が5万石で入り、以後明治維新まで本多氏6代が続いた。当藩は藩主代々が幕府の要職につき、また臨時課役も多っかたので、常に藩財政に苦しんだ。1871年(明治4)の廃藩置県で岡崎県となり、その後、額田県を経て翌年愛知県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡崎藩」の意味・わかりやすい解説

岡崎藩
おかざきはん

江戸時代,三河国 (愛知県) 額田郡岡崎地方を領有した藩。徳川氏ゆかりの地であるが,慶長5 (1600) 年田中吉政が筑後 (福岡県) 久留米へ転封以後,譜代大名本多氏5万石,水野氏5万~6万石,松平 (松井) 氏5万 8000石を経て,明和6 (1769) 年石見 (島根県) 浜田より本多忠粛 (ただとし) が5万石で入封。以来6代続いて廃藩置県にいたる。本多氏は譜代,江戸城溜間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「岡崎藩」の解説

岡崎藩

三河国、岡崎(現:愛知県岡崎市)を本拠地とした譜代藩。岡崎城は徳川家康の生誕地。関ヶ原の戦いの後、徳川家重臣の本多康重が5万石で入封して立藩。代々の藩主は幕府要職に就き、将軍の日光参拝警護などの臨時の役も多かったため藩の財政は苦しかった。藩主水野忠辰(ただとき)が藩政改革を試みるも重臣たちの抵抗にあい失敗、座敷牢に幽閉されたまま没した件などが知られる。

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