岐阜(県)(読み)ぎふ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岐阜(県)」の意味・わかりやすい解説

岐阜(県)
ぎふ

中部地方の西部にある県。海岸線をもたない内陸県の一つ。北部は富山県、東部は長野県、南部の大部分は愛知県、南西部は三重県、西部は滋賀・福井・石川の3県の合計7県に接している。このように隣接する諸県との関係は、交通その他のさまざまな障害を克服して、年とともに深まりを加えつつある。とくに南に接する愛知県の名古屋をはじめ尾張(おわり)方面とは、産業・経済などの点で密接不離の関係にある。

 本県の位置は、歴史的には西日本と東日本を結ぶ回廊にあたるとともに、東海方面と北陸方面を結ぶ通路にあたっている。このような関係で、壬申(じんしん)の乱(672)や関ヶ原の戦い(1600)など数々の歴史上の大事件が繰り広げられた所でもある。美濃(みの)・飛騨(ひだ)の2国から成り立っているが、近年の市町村変更で、長野・福井両県の一部と越境合併している部分もある。平成の大合併においても、2005年(平成17)中津川市に長野県山口村が越境合併している。県名は、織田信長が井ノ口を岐阜と改称した中心都市岐阜にちなんでつけられた。面積1万0621.29平方キロメートル。

 岐阜県の大部分は、山岳・高原・丘陵地などによって占められており、低地平野部は美濃の南西部に限られている。ここは、東海道・山陽新幹線、JR東海道線、名神高速道路などが走り交通の便がよく、人口や産業、経済、政治、文化などの諸機能が集中し、県都岐阜市をはじめ、大垣市、各務原(かかみがはら)市など県内の有力都市が分布して、岐阜県の中枢地域を形づくるとともに、名古屋大都市圏の一環ともなっている。また、濃尾(のうび)平野の輪中(わじゅう)地域は、薩摩(さつま)藩の手による宝暦(ほうれき)の治水工事(1754~1755)をはじめ、明治中期以来の河川改修工事や耕地整理、土地改良などにより、自然の脅威を背負いつつも、特色のある生産空間・生活空間として、大きな変容を遂げてきている。西濃の山間地域は、かつては県下有数の木炭生産地であったが、現在は過疎化現象が進んでいる。

 中濃では、長良川(ながらがわ)沿いに上流に向かう、東海北陸自動車道が2008年に全線開通、関(せき)市、美濃市をはじめ郡上(ぐじょう)市八幡(はちまん)町地区など、沿線地域の多様な発展が期待されている。木曽川(きそがわ)と支流飛騨川(ひだがわ)に沿う美濃加茂(みのかも)市と可児(かに)市および加茂・可児両郡は、かつては木曽川などの水運に大きく依存したが、陸上交通の発達に伴い、JR高山本線、国道19号、41号などや名古屋鉄道などが交通の主役を担っている。また、美濃加茂・可児両市は、企業誘致により工業の振興を図っており、可児市は住宅団地の開発を進めてきた。陶磁器生産などで知られる東濃地域は鉄道により早くから名古屋との結び付きが強くなり、中央自動車道の開通後は交通条件がさらに向上して企業の進出が増え、ハイテク化が指向されている。

 飛騨は、県の北部、県土の約38%を占め、東には約3000メートル級の飛騨山脈(北アルプス)がそびえ、西を白山(はくさん)の連峰に限られている。山国ではあるが、すでに旧石器・縄文の時代から各地に生活空間が広がり、大化改新以前に飛騨国造(くにのみやつこ)が置かれ、奈良時代には飛騨国分寺が建立されている。また、江戸初期には京都文化、中・後期には江戸文化が移入され、高山に伝統的な町人文化が発達し、いまも息づいている。1934年(昭和9)には高山本線が全通し、飛騨の夜明けが訪れた。第二次世界大戦以後、各地に大小のダムが相次いで建設され、道路の改良も進み、近代化の波は飛騨の谷々に広がったが、過疎化の影響も早かった。

 人口は2000年まではおおむねしだいに増加しており、第1回国勢調査の行われた1920年(大正9)には107万人、1940年(昭和15)には126万人で、第二次世界大戦終戦時の1945年には152万人に増加した。戦後1947年には149万人とやや減少したが、1960年には164万人、1970年に176万人、1980年196万人、そして1983年には200万人を超え、1990年(平成2)207万人、2000年には210万7700人、2005年には210万7226人、2010年には208万0773人、2015年には203万1903人、2020年には197万8742人となった。2000年までの人口増加はおもに県庁所在地である岐阜市周辺地区、名古屋市との結び付きの強い可児市においてみられる。しかし、1955年以降、飛騨地方では人口減少が始まり、過疎現象が著しい。人口の多くは南部の平野部に集中し、濃尾平野地域には総人口の約半数以上が住み、飛騨高地では約7%にすぎない。揖斐(いび)川上流の徳山ダムの完成(2008)により、村の主要部が水没した徳山村は1987年に藤橋村に編入。その後、藤橋村は2005年揖斐川町と合併した。

 2020年10月1日現在、21市9郡19町2村からなる。

[上島正徳・合田昭二]

自然

地形

山地・高原・丘陵が県の大部分を占め、平野は南西部の一部だけである。北東部の長野県境には、3000メートル級の山をもつ飛騨山脈が乗鞍火山帯(のりくらかざんたい)を伴って連なり、山国岐阜県のシンボルともなっている。また、北西部の石川・福井県境には両白山地(りょうはくさんち)が白山火山帯を伴って走っている。そして、飛騨山脈と両白山地との間に、飛騨から美濃にかけて、飛騨高地や美濃三河高原などが広く連なっている。そこでは平地はおもに飛騨川、宮川、高原(たかはら)川、庄(しょう)川などの川沿いに少しずつ開け、たいせつな交通路ともなっている。

 日本海斜面はおもに神通川(じんづうがわ)や庄川の上流域にあたり、美濃も含めた太平洋斜面は、おもに木曽、長良(ながら)、揖斐(いび)3川の流域となっており、東濃では高原・丘陵などと南西方に向けて高度を下げており、西濃では伊勢(いせ)湾に向かってしだいに低下している。南北両斜面の河川などの本・支流の河谷に沿って、大小さまざまな河岸段丘がつくられ、電源地として利用されているところが多い。また、木曽、長良、揖斐3川の下流部では、日本有数の沖積平野(濃尾平野(のうびへいや))が、東に高く西に低く広がり、最下流部は低湿で「水屋」をつくる家もあるほどの輪中地帯で、とくに明治以来、河川改修が進んできたが、大水害のおそれは容易に解消しそうにない。濃尾平野の西縁には、伊吹山地(いぶきさんち)とその前山の養老山地(ようろうさんち)の急崖(きゅうがい)が迫り、関ヶ原の狭隘(きょうあい)部は東西交通の通路として重要であり、冬季の寒気が日本海方面から東海地方へ吹き出す通路ともなっている。

 自然公園には、日本を代表する雄大な山岳美を誇る北アルプスを中心とする中部山岳国立公園、日本三名山の一つ白山一帯の白山国立公園、飛騨川沿いの中山七里、飛水峡、木曽川の日本ラインなどで知られる飛騨木曽川国定公園、揖斐峡の渓谷美、関ヶ原古戦場の文化景観、孝子伝説で知られる養老ノ滝などを含む揖斐関ヶ原養老国定公園がある。また、県立自然公園には、胞山(えなさん)、恵那(えな)峡、裏木曽、千本松原、宇津江(うつえ)四十八滝、奥飛騨数河流葉(すごうながれは)、土岐三国(ときみくに)山、位山舟山(くらいやまふなやま)、奥長良川、揖斐、伊吹(いぶき)、野麦(のむぎ)、せせらぎ渓谷、天生(あもう)、御嶽山(おんたけさん)の15か所がある。

[上島正徳・合田昭二]

気候

本県は面積が広く、太平洋斜面から日本海斜面に及び、また高度差も大きいので、気候の地域差も大きいのが特色である。太平洋斜面の気候は、冬季も比較的温暖で、降雪量も少ない東海型である。しかし、気温の影響の大きい温州(うんしゅう)ミカンの栽培は県の南部に限られ、富有(ふゆう)ガキの栽培の限界は濃尾平野の北縁までである。また、6月の梅雨期や9月の台風シーズンには、多量の降雨による河川の氾濫(はんらん)などのため、大きな被害を受ける事が多い。一方、飛騨には高冷地が多く、かつては稲作限界が1000メートルにも届かず、ようやく1955年(昭和30)ごろになって完全に克服されたほどである。飛騨の北部は、冬季の積雪量が多く、交通の障害になるほどの北陸型(日本海式気候)の天候が多い。このように積雪量の多い所は、美濃では、長良川の最上流部や西濃の揖斐谷、根尾谷の奥地、関ヶ原などがあげられる。それに対し東濃では、冬の積雪は少ないが、厳しい寒さと乾燥した晴天が多い天候を利用して、寒天製造が行われている。

[上島正徳・合田昭二]

歴史

先史・古代

県下で旧石器時代前期のもっとも古い遺跡は、東濃の多治見盆地北部の西坂遺跡とされる。この遺跡のある段丘は、いまから7万~10万年前の第三間氷期に形成されたと考えられ、したがって、ここから出土した石器は古いものであると推測されている。また、旧石器時代後期のものとしては、ナイフ形石器などが多数出土している。

 縄文時代草創期の遺跡としては、中津川市坂下の椛の湖遺跡(はなのこいせき)などがあり、前・中期の遺跡は高山市久々野(くぐの)町久々野の堂之上遺跡(どうのそらいせき)(国指定史跡)で、住居跡は43基に及ぶ。各務原(かかみがはら)市の炉畑遺跡(ろばたいせき)は縄文中期の代表的なもので、10基の竪穴(たてあな)式住居跡や多数の土器・石器が出土している。同時代の後期から晩期には、海津市南濃(なんのう)町地区の庭田(にわだ)、羽沢(はざわ)の貝塚のように、当時の海岸近くに大きな集落がつくられたことのうかがわれるものもある。縄文時代の土器は、濃飛の各地に散在する当時の住居跡の範囲を超えて、はるかに広く出土しており、そのころの生活空間は広い範囲に及んでいたことを物語る。なお、縄文時代の晩期に多くつくられた御物(ごもつ)石器は、飛騨を中心に東濃や、北陸にも出土しており、宗教的な行事などに使われたらしい。

 紀元前3世紀ごろ北九州に伝わった稲作技術は、弥生(やよい)土器など文化を伴って、中国・近畿地方を経て、東海地方の沖積平野南部にも広がってきた。本県ではとくに弥生中期以後の遺跡が多く、美濃の平野部および周辺各地や東濃、飛騨方面まで広く分布している。また、銅鐸(どうたく)は畿内(きない)を中心に分布し、本県では岐阜市上加納山(かみかのうやま)、大垣市十六(じゅうろく)町、可児市久々利(くくり)、下呂市萩原(はぎわら)町上呂(じょうろ)などから出土している。

 美濃でもっとも古い古墳は、西濃南端の海津市南濃町庭田の円満寺山古墳で、舶載の三角縁神獣鏡が出土している。このような古墳などの調査から、美濃は、西濃・南濃地方を中心に4世紀中ごろまでには、大和(やまと)朝廷の勢力下に組み込まれたとみられる。飛騨は、5世紀以降になって中央勢力のもとに服属したものと推測されている。また、いくつかの国造(くにのみやつこ)支配地域のあった美濃地方や、飛騨国造氏に支配された飛騨地方が、律令(りつりょう)制下の国として成立したのは、大化改新後である。美濃の国府はいまの垂井(たるい)町府中に置かれ、飛騨の国府は高山市国府町広瀬か高山市の中心街にある国分寺付近にあったと考えられている。672年(天武天皇1)の壬申(じんしん)の乱には、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)に味方した村国男依(むらくにのおより)らの美濃軍は、「不破之道(ふわのみち)」を確保して大友皇子の近江(おうみ)朝廷方を破り、本格的な律令国家体制が確立していくこととなった。律令制下の美濃国は、関ヶ原町にあった不破関(ふわのせき)の管理にあたり、飛騨国は匠丁(しょうてい)の国で、飛騨の匠丁たちは、8~9世紀の宮殿、東大寺、西大寺などの造営のため、厳しい労役に服した。

 次に条里制をみると、その地割は、美濃の大規模な平野では、池田(揖斐郡の一部)、安八(あんぱち)の2郡と、大野、本巣(もとす)、席田(むしろだ)(本巣郡の一部)、厚見(稲葉郡の一部)、方県(かたがた)(稲葉・本巣郡の各一部)、山県(やまがた)の6郡の二つのグループになる。各グループでは、地割は郡界を超えた大規模な統一プランに基づいて実施されているのが注目される。これは、律令国家が実施者であったためであろう。

[上島正徳・合田昭二]

中世

鎌倉時代、美濃の各地には、清和源氏の諸流がすでに美濃源氏として根を張っていたが、美濃は院分国で、源頼朝(よりとも)の目には京方の前縁地帯として警戒すべきところと映ったようである。美濃源氏のなかでも、向背の定まらないものは勢力を弱める措置がとられた。そのなかにあって、土岐(とき)源氏の光衡(みつひら)は早くから頼朝に近仕して関東御家人(ごけにん)となった。その子孫はしだいに力を得て、頼貞(よりさだ)の時代になると、終始一貫して足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って行動し、室町幕府の樹立に功があった。これによって、以後200余年の間、土岐氏は美濃の守護職も確保する基礎を固め、さらに1338年(延元3・暦応1)北畠顕家(きたばたけあきいえ)の大軍の入京を青野原(あおのがはら)の戦いで阻止し、室町幕府における土岐氏の地位は不動のものになった。1467年(応仁1)に応仁(おうにん)の乱が起こると、美濃の守護土岐成頼(なりより)は上京して西軍に加わり、10年以上の長い間、国をあけた。しかし、本国では守護代の斎藤妙椿(みょうちん)が堅く国内を守り、反対派を駆逐し、荘園(しょうえん)、国衙(こくが)領を押領(おうりょう)して支配権を握った。応仁の乱以後、土岐氏の実権は守護代の斎藤氏に、斎藤氏の実権は長井氏に移るなど、下剋上(げこくじょう)の風潮が強くなった。飛騨でも守護京極(きょうごく)氏の実権は多賀氏へ、さらに三木氏へと移っていった。一方、美濃国では、1542年(天文11)に土岐氏を追放した斎藤道三(どうさん)が支配することになったが、そのあと龍興(たつおき)のとき尾張(おわり)の織田信長に滅ぼされた。信長は岐阜の地を根拠地として天下統一事業を進めたが、本能寺の変で横死し、そのあとを豊臣秀吉(とよとみひでよし)が継いだ。秀吉の死後、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が幕府を開くことになる。

[上島正徳・合田昭二]

近世

江戸時代になると、美濃の国は、多くの大名、旗本および幕府直轄地(天領)として分割統治され、この時代を通じて存続したのは、大垣、加納、郡上(ぐじょう)、高須(たかす)、岩村、苗木(なえぎ)、高富、野村(大垣新田)の8藩で、国外藩は尾張、磐城平(いわきたいら)、備中(びっちゅう)岡田の3藩である。また、飛騨の国は、初め金森領、1692年(元禄5)幕府の直轄地となって幕末に及んだ。この時代には、濃尾平野の輪中地帯南西部で新田開発も進んだが、洪水の災害に悩まされることも多かった。美濃の治水には、美濃の郡代と多良(たら)の西高木家があたったが、幕府が1753年(宝暦3)薩摩(さつま)藩に命じた、木曽三川の分流を図る御手伝普請(おてつだいぶしん)の工事が有名である。ほかに美濃では農民の一揆(いっき)が多く発生したが、おもなものは1754~1758年の郡上一揆である(郡上騒動)。なお、飛騨では、重い年貢と検地に反抗して、1771~1789年(明和8~寛政1)の18年に及ぶ大原騒動が起こっている。一方、江戸中期から商品経済の発展により、美濃では脇(わき)百姓の頭(かしら)百姓への進出がみられる。また、岐阜縮緬(ちりめん)、美濃紙、美濃縞(じま)、郡上紬(つむぎ)、和傘(わがさ)、刃物、陶磁器、生糸、春慶塗(しゅんけいぬり)、一位(いちい)細工などの伝統的な郷土産業が各地に発達しており、学問の中心地としては、とくに大垣、岩村藩などが知られている。

[上島正徳・合田昭二]

近・現代

明治になって版籍奉還、廃藩置県、府県の編制替えによって、1871年(明治4)に美濃の諸県は岐阜県に統一され、県庁は1874年に笠松(かさまつ)から岐阜に移された。また、高山県(飛騨県)はいったん筑摩(ちくま)県に編入されたが、1876年岐阜県に編入された。こうして、かつての濃飛両国の統合によって、現在の岐阜県の原型ができあがった。その後1891年の濃尾大地震、1896年の大洪水による大被害を受けたが、画期的な治山治水工事で回復し、その後、近代産業、交通の飛躍的な発展などの施策が推し進められ、第二次世界大戦後、とくに1960年代の高度経済成長政策による諸産業の発展は、本県下においても著しいが、これに伴う農山村の変容、都市の発達が目だってきた。

[上島正徳・合田昭二]

産業

農業の基幹は米作で、水田率は78%(2010)と高いが、野菜・畜産・花卉(かき)部門のウェイトが高まっている。販売農家のうち、専業農家は15.6%にすぎず、第2種兼業農家率は78.2%と高率である。工業は加工組立型工業が中心で、軽工業中心の構造から大きく転換した。工業化は美濃(みの)の平野部から中濃・東濃地域でも進んだが、濃飛山間地域の山村ではスキー場など観光開発が行われつつも、過疎の状態が定着したままである。

[上島正徳・合田昭二]

農業

経営耕地面積は4万0356ヘクタールで、うち水田面積は3万1373ヘクタールを占め(2010)、農家総数7万0770戸のうち専業農家は5671戸にすぎず、兼業農家と自給的農家が6万5099戸を占める。農家経済は圧倒的に農外所得に依存しており、農外収入源は、官公庁、民間企業への通勤、出稼ぎなどによっている。濃尾(のうび)平野などでは、土地改良、機械化が進んでいるが、都市化による農地の転用も著しい。

 本県の農業は、多様な自然条件を生かして、多彩な生産が営まれている。地区別では、西濃では米を中心に、温室やビニルハウスによるイチゴ、トマト、ホウレンソウ、枝豆などの野菜と養鶏(鶏卵)が多く、また県内他地域に比べてバラや鉢物の観葉植物を中心とした花卉(かき)栽培が目だつ。中濃は米に加えて高冷地ダイコン、ニンジン、サトイモ、ナスなど多様な野菜、養鶏(同)が主力部門である。東濃ではさらに養鶏(同)のウェイトが高くなり、産出額はほとんど米に匹敵する。飛騨は野菜が農業産出額の約45%と米を上回る。高冷地の夏ダイコンや夏・秋のトマト、ホウレンソウが中心である。

 ポットローズ(ミニバラ)、セントポーリア、ベゴニアの生産量は全国第1位で、カランコエ、サボテン・多肉植物類、シクラメン、ハイビスカスは全国でも上位の生産量となっている。ほかに都道府県別の生産額で本県が上位を占める農産物としては、花卉(鉢物)、カキがあり、クリ、トマト、枝豆、ホウレンソウ、茶、採卵鶏飼養羽数などでも本県のランクはかなり高い。特産品として岐阜イチゴ、飛騨赤カブ、飛騨モモ、美濃(みの)茶があげられる。

[上島正徳・合田昭二]

林業

森林面積は86万7000ヘクタール(2005)で、県土の81.6%を占め、うち民有林は68万6000ヘクタールで、国有林は飛騨の周辺山地や東濃県境付近などに多い。林業地は長良川流域の山間地や東濃、南飛騨で、関ヶ原町今須(います)地区の択伐林、郡上市明宝(めいほう)町日出雲(ひずも)の挿し木造林による磨き丸太生産、東濃の東濃ヒノキ材生産が有名である。保安林は41万0887ヘクタール(2005)と広い面積を占め、うち65.5%が水源涵養(かんよう)林、31.8%が土砂流出防備林である。人工造林の中心はヒノキ苗によっており、中濃東部から東濃、南飛騨でとくに盛んで、スギ苗造林は不振である。なお、林産物はナメコの生産量が増えている。

[上島正徳・合田昭二]

鉱工業

鉱産資源は比較的多様である。かつて鉛、亜鉛を主とした神岡鉱山が県北飛騨市にあったほか、石灰、ドロマイト鉱山が西濃などの山地に、耐火粘土およびウラン鉱床が東濃丘陵に分布している。なかでも神岡鉱山の歴史は、天正(てんしょう)年間(1573~1592)の金銀の採掘に始まる。明治期には三井組による鉱山経営が始まり、最盛期には4700トン/日を採掘したが、2001年(平成13)閉山。また陶磁器工業の原料である東濃の木節(きぶし)粘土・蛙目(がいろめ)粘土はそれぞれ全国の約70%・約50%を生産しているが、資源の有限性への認識が高まっている。また、東濃には国内埋蔵量の約60%と推定されるウラン鉱床が確認されている。

 1955年(昭和30)の岐阜県の製造品出荷額等の業種別構成をみると、岐阜市、大垣市、羽島市、笹松町を中心に分布する繊維工業が52.6%、ついで多治見市、土岐市、笠原町(現、多治見市)など東濃地区に多い窯業が11.0%を占め、この両部門によって代表される軽工業中心の工業生産であった。高度経済成長期を経過してこの構成は大きく変わり、2010年(平成22)には繊維工業は事業所数では10.5%を占めるが、製造品出荷額ではわずかとなっている。また出荷額でみると、窯業も7.1%と減少、かわって加工組立型工業が主力となり、輸送用機器16.3%、プラスチック製品7.9%、金属製品7.9%の順となっている。

 こうした重化学工業化には、自治体による大企業工場誘致も大きな役割を果たした。また軽工業の有力部門としては、第二次世界大戦後に発達した衣服(アパレル)工業があり、岐阜市を中心に分布して全国有数の産地となっている。金属製品工業は、関(せき)市を中心に広く行われ、包丁、ナイフ、理髪用刃物、はさみなどが生産され、いずれも全国一のシェアをもつ。とくに関市は鎌倉時代以降、関鍛冶(かじ)の名で知られ、関孫六(せきのまごろく)(孫六兼元)などの名刀匠を生んだ地である。また、東濃西部地域は美濃焼の産地として知られ、その生産額は全国屈指であり、タイル類の生産はとくに第二次世界大戦後になって目だって発展したものである。ハイテク部門としては、東濃の陶磁器産地においてファインセラミックスの生産が増え、各務原市には日本を代表する航空機工場が立地している。しかし情報・通信型の工業生産は少ない。そのため、大垣市にマルチメディアの研究施設「ソフトピアジャパン」、各務原市に先端技術を中核とした「テクノプラザ」が建設され、情報通信産業の育成に力が注がれている。なお、本県製造業の事業所数は6528、従業者数は19万2518人、製造品出荷額等は4兆8275億円(2010)となっている。伝統のある工芸品部門としては、飛騨春慶塗(しゅんけいぬり)・一位一刀彫、美濃焼、美濃和紙、岐阜提灯(ぢょうちん)が、伝統的工芸品産業振興法により伝統的工芸品産業として指定されているほか、和傘などがある。

[上島正徳・合田昭二]

開発

第二次世界大戦後、岐阜市、大垣市、各務原(かかみがはら)市などでは、アメリカ軍による空襲被災地域の区画整理、および戦災復興が精力的に行われた。その後、高度経済成長に伴う人口増加に対応し、1960年(昭和35)以後住宅建設が急速に進んできた。とくに1965年過ぎから都市周辺地域に比較的大規模な住宅団地の建設が行われ、なかでも名古屋市などの都市的発展の影響もあって、多治見市周辺、可児(かに)市丘陵地、各務原市東部丘陵地などで住宅団地の造成が盛んに行われたことが注目される。最近では、土地開発公社によって「関テクノハイランド」「ソフトピアジャパン」「テクノプラザ」など、先端技術の工業団地や研究団地が建設されている。

 一方、県下の木曽(きそ)、長良(ながら)、揖斐(いび)の3川、神通(じんづう)川などの河川は、広大かつ全国有数の多雨地域を水源地域としており、豊かな水量に恵まれている。このような水資源の近代的な開発利用は、大正末期から昭和初期にかけて木曽川の本・支流などに本格的な水力発電所が建設されるようになってからである。また、第二次世界大戦以後は、電力用水の開発利用だけでなく、工業用水、都市用水、農業用水および治水などの多目的な利用のために、総合的な開発が各地で行われており、またその開発は大型化して、立退き移転世帯が多いこともある。揖斐川の最上流では建設中に建設差し止め訴訟が起こった徳山ダムが完成している。本県の長良川下流部における治水、利水、漁業に関連の深い長良川河口堰(ぜき)(三重県桑名市長島町)は、環境保護問題をはらみつつ1995年(平成7)に運用が開始された。

[上島正徳・合田昭二]

交通

1889年(明治22)に東海道本線が全通し、鉄道による陸上交通の画期的な発達や地場産業の発展が促されることになった。やがて、1911年に中央本線が全通し、また1934年(昭和9)には高山本線の全線および越美(えつみ)南線、明知(あけち)線が開通し、沿線地域の産業経済などの発展に大きく寄与してきた。一方、都市と周辺地域を結ぶ交通のために、初めは電車がおもな役割を果たしたが、昭和になるとバス交通も発達してきた。岐阜市内および同市と美濃町(現、美濃市)との間には1911年(明治44)に電車が通じ、しだいに各地に電車線が広がり、名古屋市を中心とする交通網が整ってきた。第二次世界大戦後は、1954年(昭和29)東海道本線が稲沢(いなざわ)―米原(まいばら)間で電化したのをはじめ、国鉄(現、JR・以下同)の電化・複線化・ディーゼル化などが進み、1964年には東海道新幹線も開通し、県内には岐阜羽島駅が開設された。しかし、国鉄の貨客輸送量は1966~1967年をピークに減り始め、1980年代の末期まで減少が続いた。これは、1960年代から自動車の普及、道路網の整備拡大に伴い、貨客輸送の一部が鉄道から自動車に移ってきたからである。しかし、国鉄が民営化されたあと、1990年代に入って旅客輸送は回復しつつあり、とくに東海道線岐阜駅の利用は名古屋方面を中心に増加している。第三セクター経営に移管された路線は神岡線(神岡鉄道となったが、2006年に廃止)・樽見(たるみ)線(現、樽見鉄道)・明知(あけち)線(現、明知鉄道)・越美(えつみ)南線(現、長良(ながら)川鉄道)である。県内の民営鉄道の主力は名鉄(名古屋鉄道)であるが、2001年(平成13)以降、谷汲(たにぐみ)線、揖斐(いび)線、八百津(やおつ)線、田神(たがみ)線、岐阜市内線(軌道)、美濃町線などの廃止が相次いでいる。

 高速道は名神高速道路開通以後、中央自動車道、東海北陸自動車道、東海環状自動車道が通じている。

[上島正徳・合田昭二]

社会・文化

教育文化

県内最初の藩校は、1702年(元禄15)に岩村藩が建てた文武(もんぶ)所(のちに知新館)で、全国的にみても創立が古く、林述斎(じゅっさい)、佐藤一斎らの優れた人材を出している。ほかに、郡上(ぐじょう)藩の潜竜(せんりゅう)館(文武館)、大垣藩の致道(ちどう)館、高須(たかす)藩の日新堂、今尾(いまお)藩の文武館(格致堂)、加納(かのう)藩の憲章(けんしょう)館(文武館)、苗木(なえぎ)藩の日新館、高富藩の教倫(きょうりん)学校、野村藩の済美(さいび)館などと、尾張(おわり)藩が岐阜町に建てた教倫館があった。また、文化・文政(ぶんかぶんせい)(1804~1830)になると商人、農民も学問、文芸に志すようになり、その育成を助けたのが、大垣の光風霽月舎(こうふうせいげつしゃ)、澹泊(たんぱく)舎、岐阜の桃迺(とうたい)舎、笠松(かさまつ)の喬木(きょうぼく)舎などの私塾であった。明治になると、1872年(明治5)に学制が公布され、大垣小学校をはじめ各地に小学校が置かれるようになった。これに伴い1873年大垣に師範研習学校が設置され、1875年岐阜県師範学校と改称、1877年いまの岐阜市に移転。1924年(大正13)高等専門教育機関として岐阜高等農林学校が設置された。その後、とくに第二次世界大戦後の学制改革を経て、2008年(平成20)現在、岐阜市および周辺市町など県内に、国立岐阜大学、岐阜県立看護大学、情報科学芸術大学院大学、岐阜薬科大学など国公私立あわせて12大学と11短期大学(公立1、私立10)、名城大学可児キャンパスが設置されている。国立の工業高等専門学校もある。マスコミでは『岐阜新聞』、岐阜放送、岐阜エフエム放送がある。なお、1982年岐阜県美術館が岐阜市に開設された。

[上島正徳・合田昭二]

生活文化

飛騨は山国である。まだ交通がよく開けない時代には、高山の春秋の祭りは、町民にとっても周囲の村々の人々にとっても、大きな楽しみであった。豪華な屋台をつくりだしたのは、有名な飛騨の匠(たくみ)の伝統的な技術であり、高山商人の心意気と財力であった。その商人が多く住んでいた古い町並みは、宮川の東側にあって、電柱や看板などは取り除かれ、古い町の姿を再現し、国により重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。日下部(くさかべ)家、吉島(よしじま)家などは古い町屋建築の代表的なもので、国の重要文化財(重文)になっている。飛騨の冬の食べ物として欠かせないものの一つは赤カブの漬物で、高級品の品漬けのほか、切漬け、長漬けがある。また正月には、のし餅(もち)、お鏡餅、花餅がつくられ、花餅は花のない正月を明るく飾るものである。飛騨の西部、白川郷には、かつて大家族集落が中切(なかぎり)地区(白川村)に多くあった。民家の特色は屋根の傾斜の急な切妻(きりづま)合掌造であり、2、3階などでは養蚕が行われていた。御母衣(みぼろ)の遠山家の建物はこの代表的なもので、国の重要文化財である。白川村荻町(おぎまち)地区は、重要伝統的建造物群保存地区として59棟の茅葺(かやぶ)き合掌(がっしょう)造り家屋が保存・利用されており、1995年(平成7)にはユネスコ世界遺産リストに登録されて、その文化的価値への認識はいっそう高まった。あわせて、家屋改造の制約や観光客の増加に伴って住民生活が受ける支障をいかに解決してゆくかが重要な課題となっている。白川郷をはじめ飛騨の周辺部では、耕地の乏しい山間地や高冷地が多く、かつては焼畑耕作や雑穀作によって食糧を得ていた。また、トチの木の実も食料とされた。いまでは、畜産や、ホウレンソウのハウス栽培などによる現金収入の得られる生活に改善されている。

 東濃の恵那(えな)地域には、美的感覚の鋭い人がよく現れるのであろうか。日本洋画界の草分け山本芳翠(ほうすい)は恵那市、日本画の巨匠前田青邨(せいそん)は中津川市、異色の洋画家熊谷守一(くまがいもりかず)も中津川市付知(つけち)町から出ている。また恵那市明智(あけち)町の町並みは「日本大正村」として観光客を集めている。同市岩村町の岩村町本通りは、江戸時代の商家町として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。美しい花が愛好されるシクラメンの種苗生産の盛んなのは、木曽川の支流阿木(あぎ)川沿いの東野(ひがしの)(恵那市)および阿木(中津川市)である。冷涼な夏の気候が生かされている。水ようかん・ゼリーなどの製菓用として大半が使われる細寒天は、恵那市山岡町地区において冬季の野外乾燥でつくられる。美濃の陶器は、味わい深くやわらかみに富む志野(しの)に尽きる。志野のふるさとは、可児(かに)市久々利(くくり)の大萱(おおかや)・大平のあたりである。原料は美濃の白土がよく、釉薬(うわぐすり)は風化した長石を軸に、多少のケイ酸(藁灰(わらばい))などが加えられている。

 木曽川は濃尾平野に出るあたりに遷急点をつくり、日本ラインの名勝を展開する。長良(ながら)川の清流では、緑豊かな金華山(きんかざん)の山麓(さんろく)を巡って、伝統の鵜飼(うかい)が、5月11日から10月15日まで中秋の名月と増水時を除いて行われる。西濃の大垣は、1635年(寛永12)以来230年間、藩主戸田氏(10万石)のもとに、美濃最大の城下町としての歴史が長い。かつ、学者・文人を多く生んだ文教の町でもあり、17世紀の末期に俳人松尾芭蕉(ばしょう)は4回も大垣の船町に住む門人のもとに立ち寄っている。水門(すいもん)川に沿う船町の川湊は、かつては桑名へ通ずる水上交通の発着点としてにぎわった。この大垣でも大小の多くの輪中(わじゅう)が成立していたが、いまでは大垣輪中に統合された。

 濃尾平野の南西部は低湿地が広く、洪水の氾濫(はんらん)を防ぐために古くから輪中が発達してきたが、明治中期に木曽三川分流の河川改修が行われ、自然堤防上に形成された旧輪中堤は姿を消したものも少なくない。また、自然堤防上に立地した集落も移転したものが多い。岐阜市南郊の旧鶉(うずら)村や、これに連続している旧佐波(さば)村の諸集落は、いまも自然堤防上に存続している好例である。なお、屋敷のなかで一段と高く土盛りして設けられている水屋は、いまも各地に残存している。また、美濃市牧谷(まきだに)の板取(いたどり)川沿いには、蕨生(わらび)、上野(かみの)の2集落に国指定重要無形文化財である美濃和紙の手漉(てす)き技術の伝統が伝わり、「本美濃紙保存会」がその保存に努力している。

 民俗芸能では、高山市で1月24日には本町・安川通りに、農家のつくった民具を売る市(二十四日市)が立つ。4月14、15日、春祭の日枝(ひえ)神社例大祭「山王祭」に、きらびやかな屋台(山車(だし))を曳(ひ)き回すが、この高山祭の屋台行事は国指定重要無形民俗文化財となっている。5月1、2日には飛騨一宮水無(ひだいちのみやみなし)神社の例祭に、鶏闘(けいとう)楽、神代踊、獅子舞(ししまい)が古式に従って行われ、国の選択無形民俗文化財。8月7日には月遅れの七夕(たなばた)祭が高山でも行われる。ついで8月10日には松倉絵馬市が立ち、家内安全・商売繁盛の守(まも)りとして多数の人々が絵馬を求める。そして10月9、10日は秋祭の八幡(はちまん)神社例大祭「八幡祭」が、春祭同様にぎやかに繰り広げられる。高山市以外では、4月19、20日に飛騨市古川町上気多(かみけた)の気多若宮神社の起し太鼓(国指定重要無形民俗文化財)の行事が有名。白川村の「どぶろく祭」では、10月中旬に、荻町(おぎまち)、鳩谷で獅子舞の奉納のあと、参拝者に濁酒(どぶろく)がふるまわれる。南飛騨では、2月14日に下呂(げろ)市森の八幡神社で行われる田の神祭の神事芸能(国指定重要無形民俗文化財)は、中世以来の古式ゆかしい伝承を残している例の数少ないものの一つである。

 美濃では、1月6日に郡上市白鳥(しろとり)町長滝の白山(はくさん)神社例祭で、全国的にみても珍しくなってしまった「延年」の舞(えんねんのまい)が神事芸能として行われ、「長滝の延年」(国指定重要無形民俗文化財)とよばれている。4月13日には本巣市根尾能郷(のうごう)の白山神社の例祭で、猿楽方・狂言方などに分かれ、父祖伝来の家伝として伝えられている能・狂言(国指定重要無形民俗文化財)が演じられる。また、5月4、5日の垂井(たるい)町宮代(みやしろ)の南宮神社(美濃一宮)の例祭では、斎田で、囃子(はやし)・田植歌にあわせて、少年少女が田植の所作を演ずる神事芸能(国指定重要無形民俗文化財)がある。そのほか、3月下旬、本巣市の真桑(まくわ)地区には真桑人形浄瑠璃(じょうるり)(国指定重要無形民俗文化財)が行われている。

 文化財をあげると、岐阜市の金華山(きんかざん)南東の平地にある琴塚古墳(ことづかこふん)(国指定史跡)は、県下第3の規模をもつ前方後円墳で、古墳時代中期のもの。その北東方、芥見(あくたみ)の老洞(おいぼら)・朝倉須恵器窯(すえきかま)跡(国指定史跡)は、美濃の印のある須恵器が出土したことで有名。岐阜駅南東の加納(かのう)城跡(国指定史跡)は、1445年(文安2)美濃守護代斎藤氏が築いた沓井(くつい)城のあたりに、徳川家康が西方の防衛の城として新築した所。この加納から川手(革手)の一帯は、中世後期から近世初頭にかけて守護職土岐(とき)氏の拠点として、美濃の歴史の中心舞台。金華山の北方、雄総(おぶさ)の丘の護国之寺は雄総観音ともいい、国宝の金銅獅子唐草文(ししからくさもん)鉢が寺宝。各務原(かかみがはら)市蘇原(そはら)の山田寺(さんでんじ)の白鳳(はくほう)時代の塔心礎および塔心礎納置銅壺(どうこ)は国指定重要文化財。また同市各務の農村舞台村国座は、国指定重要有形民俗文化財。北方(きたがた)町の円鏡寺(えんきょうじ)には、楼門や3体の仏像(国指定重要文化財)などがある。本巣市の根尾水鳥(みどり)には、1891年(明治24)の濃尾地震のときに生じた高さ6メートルの断層崖(がい)があり、同市の根尾松田の菊花石(きっかせき)とともに特別天然記念物である。

 大垣市内北西の青野町の美濃国分寺跡は国指定史跡で、そこから西の垂井町府中(国府の所在地)の一帯は古代美濃の中心地。府中の南方、南宮大社は金山彦(かなやまひこ)大神を祀(まつ)る美濃国一宮で、杉の古木に囲まれた社殿と太刀(たち)2口・鉾(ほこ)2本が国指定重要文化財。海津市南端の油島(あぶらじま)千本松原の締切(しめきり)堤は国指定史跡で、宝暦(ほうれき)治水で犠牲となった薩摩(さつま)義士を祀る治水神社がある。大垣市上石津町の桑原家住宅(国指定重要文化財)は江戸時代の在郷武士の住居として代表的なもの。関ヶ原古戦場は国指定史跡で、不破関跡(ふわのせきあと)もある。大垣市北隣の神戸(ごうど)町の日吉神社(ひよしじんじゃ)三重塔と石造狛犬(こまいぬ)などは国指定重要文化財。大野町の牧村家住宅も国指定重要文化財で、同町の「揖斐二度ザクラ」は、池田町霞間ヶ渓(かまがたに)のサクラなどとともに、国指定天然記念物。また、揖斐川町谷汲(たにぐみ)神原の横蔵寺(よこくらじ)には国指定重要文化財の板彫法華曼荼羅(ほっけまんだら)や、多くの仏像があり、美濃の正倉院(しょうそういん)といわれるほどである。

 関市の新長谷寺(しんちょうこくじ)は関の吉田観音と親しまれ、その本堂、三重塔、釈迦(しゃか)堂、阿弥陀(あみだ)堂、大師堂、鎮守堂、薬師堂、客殿は室町時代後期~江戸時代初期の建築物で、いずれも国指定重要文化財。郡上市八幡(はちまん)町那比(なび)の新宮神社所蔵の那比新宮信仰資料(国指定重要文化財)は、神仏習合の高賀(こうが)山信仰(山岳信仰)をうかがわせる。また、郡上市明宝気良(めいほうけら)の明方(みょうがた)の山村生産用具(国指定重要有形民俗文化財)は、山村生活の生産様式を知るうえで貴重。美濃加茂市太田町の旧中山道(なかせんどう)太田宿脇(わき)本陣林家の住宅は、「うだつ」をつけた千本格子造の家で、国指定重要文化財。木曽川の南岸御嵩(みたけ)町の願興寺は、本堂および24体もの仏像を国指定重要文化財としてもつ珍しい寺院。多治見市虎渓(こけい)山永保(えいほう)寺の観音堂および開山堂は国宝で、観音堂の前庭をなす庭園および郡上市大和町牧の東氏館跡庭園は国指定の名勝。中央本線土岐市駅北方の久尻(くじり)の元屋敷(もとやしき)陶器窯跡(国指定史跡)は、南面する傾斜地を利用した連房式登窯(のぼりがま)である。

 飛騨の旧国分寺の所在を明示する大きな塔心礎石(国指定史跡)が高山市のJR高山駅北東にあって、礎石の表面に円柱座が刻まれている。高山市荘川(しょうかわ)町中野から高山城跡に移築された照蓮寺(しょうれんじ)(本堂は国指定重要文化財)は、浄土真宗のもっとも古い建築様式の書院造の形をとどめている。また、高山市には国指定史跡の高山陣屋跡、国指定重要有形民俗文化財の高山祭屋台、同無形民俗文化財の高山祭屋台行事がある。ほかに、日下部(くさかべ)家・吉島(よしじま)家・松本家や、飛騨各地から移された旧田中家・旧田口家・旧若山家・旧吉真家など、国指定重要文化財の民家が多く保存されている。下呂市萩原(はぎわら)町上呂(じょうろ)の久津(くづ)八幡宮は南飛騨の総鎮守であり、拝殿と本殿は国指定重要文化財である。また、同市森地区の旧大戸家住宅(国指定重要文化財)は、白川村から移築したものである。なお、下呂市門和佐(かどわさ)の白山神社境内の舞台(国指定重要有形民俗文化財)は「こま回し式」舞台。白川村の旧遠山家住宅、和田家住宅は茅葺(かやぶ)き切妻合掌(きりづまがっしょう)造で、国指定重要文化財。高山市国府町地区の安国寺経蔵は国宝、荒城(あらき)神社、阿多由太(あたゆた)神社はともに延喜(えんぎ)式内社で、両神社の本殿は国指定重要文化財である。

[上島正徳・合田昭二]

伝説

飛騨の天生(あもう)(飛騨市)は飛騨匠(ひだのたくみ)の祖といわれた止利仏師(とりぶっし)(飛鳥(あすか)時代)の故郷で、止利は天生峠の匠(たくみ)神社に祀(まつ)られ各地に伝説を残している。高山市にあった飛騨国分寺(奈良時代)の七重塔には、建立にまつわる伝説がある。高山市丹生川(にゅうかわ)町下保(しもぼ)の千光寺は「両面宿儺(りょうめんすくな)」を祀る寺として知られている。円空作の宿儺像は顔二つ、手4本、足4本を備えた異形の木彫である。宿儺は貧しい農民に味方して天下を騒がせたが、のち降服し首をはねられた。農民は宿儺を守護神として信仰したという。白川村保木脇(ほきわき)の帰雲(かえりくも)山は、いまも山崩れの跡を残しているが、昔この山麓(さんろく)に「帰雲(きうん)城」があり、大地震の地すべりのため一夜にして埋没したという。そのとき黄金もともに土中深く埋まったと伝えている。孝子伝説で名高い「養老ノ滝」は養老公園にある。滝が美酒になったという孝子の徳にちなみ、年号を養老と改めたことが『十訓抄(じっきんしょう)』(1252)にみえる。この説話をもとに謡曲『養老』がつくられた。下呂(げろ)市瀬戸の孝子池も、病母に飲ませようと子が水を汲(く)みに行った間に母は死んだ。子が泣き崩れて地に水がこぼれ、それで池ができたと伝える。この伝説は類話が多く、「子は清水」として各地に伝承されている。各務原(かかみがはら)市鵜沼(うぬま)に「苧ヶ瀬池(おがせいけ)」がある。山姥(やまうば)が水底で機(はた)を織っているという。各地の淵(ふち)での水底から機織りの音が聞こえてくるという伝説も、山姥のしわざと伝える。岐阜市岩井の延算(えんざん)寺の本尊薬師如来(やくしにょらい)は鳥取から飛来した伝説があって「飛(とび)薬師」といっているが、また「かさ薬師」の名があるのは、瘡(かさ)を病んだ小野小町(おののこまち)が祈願して治ったからという。美濃加茂市上蜂屋(かみはちや)にある「小野寺」は、小町が老後を養った地と伝える。諸国の小町伝説地と同様で、諸国を遊行(ゆぎょう)した人々が伝説を運んでいったあとと考えられる。平家落人(おちゅうど)伝説は白川村や、山県(やまがた)市、高山市上宝(かみたから)町地区、郡上市大和(やまと)町地区など各地に多い。本県はほとんど山岳に占められ、木曽川、揖斐(いび)川、長良(ながら)川などの大河があるので「天狗(てんぐ)・河童(かっぱ)」伝説が大変多い。

[武田静澄]

『岐阜県教育会編『我等の岐阜県』(1948・大衆書房)』『上島正徳著『わが郷土岐阜県』(1949・清水書院)』『『岐阜県史』22冊(1965~1973・岐阜県)』『青野寿郎・尾留川正平編『日本地誌12 愛知県・岐阜県』(1969・二宮書店)』『中野効四郎著『岐阜県の歴史』(1970・山川出版社)』『高橋俊示著『新しい岐阜県地理』(1970・大衆書房)』『長倉三朗著『日本の民俗21 岐阜』(1974・第一法規)』『岐阜地理学会編『岐阜県地理地名辞典』(1978・地人書房)』『船戸政一編『郷土史事典・岐阜県』(1979・昌平社)』『『角川日本地名大辞典17 岐阜県』(1980・角川書店)』『『日本歴史地名体系21 岐阜県の地名』(1980・平凡社)』『『週刊朝日百科 世界の地理 長野・岐阜』(1984・朝日新聞社)』『岐阜県高等学校教育研究会編『新版 岐阜県の歴史散歩』(1988・山川出版社)』『丹羽邦男・伊藤克一著『岐阜県の百年』(1989・山川出版社)』『岐阜県編著『わかりやすい岐阜県史』(2002・岐阜新聞社)』『『岐阜県史 通史編』全11巻(1997~2003・岐阜県)』


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