山陽瀆(読み)さんようとく

世界大百科事典(旧版)内の山陽瀆の言及

【漕運】より

… 三国から南北朝時代にかけて,北方が荒廃するに反して南方の開発が進み,隋が全国を統一したときには南方から物資の供給を受けなくては,国家が立ち行かないまでになっていた。そこで都の長安から渭河に沿って広通渠,淮河(わいが)と長江(揚子江)とを結ぶ山陽瀆(さんようとく),黄河と淮河とを連ねる通済渠をつぎつぎに開いて,都から長江まで水路を直通させた。さらに黄河から北へ今日の天津付近まで永済渠を,長江から南へ今日の杭州まで江南河をつくったので,中国の東部を縦貫する大運河の骨格ができ上がった。…

【大運河】より

…これは584年(開皇4)に都の長安の北で渭水を導き,東方の潼関(どうかん)まで達した運河で,国都の物資を充実させるのが目的であった。次が588年に陳国討伐のために開かれた山陽瀆で,だいたいにおいて春秋時代の呉の邗溝を利用し,江都(揚州市)から北は山陽(淮安市)に達した。605年(大業1)に開通した通済渠は,洛陽から洛水を下って,いったん黄河に入り,もとの汴水に沿って南東に向かうものであった。…

【文帝】より

… 彼の治績中とりわけ注目されるのは589年(開皇9)の南朝併合であり,南北統一国家にふさわしい中央集権化のため中央官制・地方行政制度の整備改革に腐心している。すでに即位の翌年,従来の長安城東南にあたる竜首原に,中国最初の計画都市である新長安城すなわち大興城を築いているが,584年に長安と黄河を結ぶ運河,広道渠を,587年には淮河(わいが)と長江(揚子江)を結ぶ山陽瀆(刊溝)を開き,東西・南北の円滑な交流を図った。また開皇律令を制定したこと,均田,租庸調・府兵などの各制度はいずれも北朝にならったとはいえ,全国一律に体系化したことは高く評価される。…

※「山陽瀆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」