山田(読み)やまだ

精選版 日本国語大辞典 「山田」の意味・読み・例文・類語

やま‐だ【山田】

[1] 〘名〙
① 山の中にある田。山間の田。山田の代(しろ)。《季・秋》
※古事記(712)下・歌謡「あしひきの 夜麻陀(ヤマダ)を作り 山高み 下樋を走せ」
[2]
[一] 福岡県中部の地名。遠賀川の上流域にある。筑豊炭田南部の炭鉱都市として発展したが、石炭合理化によって衰微。昭和二九年(一九五四)市制。
[二] 常陸国(茨城県)の古郷名。現在の常陸太田市北部。久慈川の支流、山田川の流域にあたる。
[三] 奈良県桜井市南西部の地名。古代、山田寺があった。
※万葉(8C後)一三・三二七六「百足らず 山田の道を 波雲の 愛(うつく)し妻と 語らはず 別れし来れば」
[四] 三重県伊勢市の地区名。伊勢神宮外宮の門前町で、祠官宅を中心に形成された。
[五] 兵庫県小野市の地名。山田ノ里。

やまだ【山田】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「山田」の意味・読み・例文・類語

やまだ【山田】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「山田」姓の人物
山田顕義やまだあきよし
山田浅右衛門やまだあさえもん
山田五十鈴やまだいすず
山田詠美やまだえいみ
山田克郎やまだかつろう
山田検校やまだけんぎょう
山田耕筰やまだこうさく
山田忠雄やまだただお
山田長政やまだながまさ
山田久志やまだひさし
山田美妙やまだびみょう
山田風太郎やまだふうたろう
山田方谷やまだほうこく
山田正紀やまだまさき
山田盛太郎やまだもりたろう
山田洋次やまだようじ
山田孝雄やまだよしお

やま‐だ【山田】

山中にある田。
[類語]水田たんぼ田地青田稲田泥田棚田新田本田美田

やまだ【山田】[地名]

福岡県中部にあった市。遠賀おんが川上流域にあり、筑豊炭田の炭鉱町として栄えた。閉山後は酪農などが行われた。平成18年(2006)3月、稲築町・碓井うすい町・嘉穂町と合併して嘉麻市となる。→嘉麻

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日本歴史地名大系 「山田」の解説

山田
やまだ

南北朝時代頃からみえる地名。現山田町一帯および都城市の一部に比定される。現山田町の中心部の丘陵上大字山田の脇之馬場わきのばばに山田城跡があり、城は龍廻たつめぐり城・朝霧あさぎり城ともよばれた。戦国時代には北郷久家が城主であった。城域は後世の破壊によりほとんど原形をとどめていないが、古図などにより本丸・上総かずさ城・安房あわ城などの曲輪と、長堀とよばれる延長一・三キロに及ぶ長大な空堀があったことが確認されている。

嘉慶三年(一三八九)二月二五日の山田華舞六所権現棟札(庄内地理志)によると、地頭島津幸久は「山田六所権現」(現山田神社)の宝殿を造営している。南九州の領主配置を伝える文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には、庄内しようないと山田の領主として肝付大炊介の名がみえる。明応四年(一四九五)六月二一日の島津忠昌宛行状(樺山文書)によれば、樺山長久は島津庄郡元こおりもと(現都城市)四〇町などとともに山田三〇町を戦功の賞として与えられている。この頃、樺山氏は野々美谷ののみたに(現都城市)方面から山田に触手を伸ばしていたのであろう。永正一六年(一五一九)四月一六日の山田荒神棟札(庄内地理志)には、島津数久が檀越となって造立したことが記される。大永二年(一五二二)伊東氏が梶山かじやま(現三股町)方面から都城の北郷氏を攻めた際、伊東・北原両氏は北郷久家の守る山田城を落し、山田は北原氏の本領ということで同氏の知行になったという(日向記)。この頃のものとみられる二月七日の肝付兼興宛の北原久兼書状(肝付文書)には、久兼は庄内を自領としているが、北郷氏と北原氏は境目で緊張状態にあり、志和池しわち(現都城市)・山田の城の修造を行い、庄内より大隅国財部たからべ(現鹿児島県財部町)梅北うめきた(現都城市)を通路として櫛間くしま(現串間市)方面とつなぐことを新納氏に連絡したことが述べられている。

山田
やまだ

能都町西部の山田川流域から穴水あなみず町北東部にかけての、中世の広域地名と考えられ、大屋おおや庄の庄域でもあった。文明一二年(一四八〇)七月二二日に重蔵じゆうぞう神社(現輪島市)を勧請したとされる今蔵いまくら神社蔵の棟札には、山田郷として院内いんない名・木住きずみ名・はち名・神道じんどう名・吉谷よしたに名・武連むれ名・柏木かしわぎ名・魚地うおのじ名・木戸きど名・本江ほんごう名および曾山そやま名・伊久留いくろ名・菅谷すげんたに名・此木くのぎ(現穴水町)の一四名がみえる。

鎌倉末期頃と推定される崇徳院御影堂目録案(華頂要略)に大屋庄一〇ヵ村の一つとして「山田村」がみえ、一二貫文の年貢が課され、庄家役の仕丁として山田は一一月が割当てられていた(年未詳「西保田数以下注文案」同書)

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改訂新版 世界大百科事典 「山田」の意味・わかりやすい解説

山田 (やまだ)

伊勢神宮外宮鎮座地,またその鳥居前町。現在,内宮の鳥居前町宇治とともに三重県伊勢市の中心部。《止由気(とゆけ)宮儀式帳》《延喜式》は外宮の所在地を度会(わたらい)郡沼木(ぬき)郷山田原(やまだのはら)とし,12世紀には山田村,あるいは山田郷としても現れる。1181年(養和1)には熊野山衆徒が宇治・山田を侵略,民家を破壊した事件が生じている。山田が外宮の門前市として発展するのは室町時代からで,御師(おし)による伊勢信仰の広がりと参宮者(道者)の増加による。1413年(応永20)には道者数十人が船の転覆により死亡したという。15世紀末には,三日市(岩淵町),五日市(下馬所前(げばどころまえ)町),六日市(岡本町),八日市(八日市場町)の市場がみられ,米,麴,酒,瀬戸物,釜など多数の座が存在したことが知られる。

 門前市として発展するにともない,その指導権をめぐり,神人(じにん)と神役人=地下人(じげにん)との間に抗争が生じた。すでに1392年(明徳3)神人の確執があったが,1429年(永享1)には神役人が徳政を要求,土一揆を起こして神人と衝突し,山田民屋数百軒が焼失した。この土一揆は幕府の調停で翌年収拾したが,41年(嘉吉1)ふたたび勃発した。結果は神人の敗北に終わり,神役人が山田の指導権を掌握した。この間31年山田は外宮から,度会,多気,飯野の神三郡の所務知行権の3分の1を賦与され,自治都市へと成長していく。

 49年(宝徳1)山田が宇治への参道を塞いだことにより,宇治と対立したが,翌50年の和談の場には〈山田三方〉から長3人が代表として出席しており,〈三方〉の原型がこのころ形成されたことが知られる。この三方とは岩淵方,須原(すはら)方,坂方をいい,15世紀中葉には単独で行動する場合が多かったが,文明年間(1469-87)には〈三方老分〉として,結束して知行地の支配,座の統制,神宮との交渉,警察司法などに〈公界沙汰〉としてあたった。その際には三方の公印(花押)を使用して,自治的性格を強めている。しかし一方では山田は,宇治と,参詣人の獲得,関所の設置などをめぐり,幾度か激しい闘争をひき起こしている。49年の確執をはじめ,60年(寛正1)には外宮造営料関山田関をめぐる抗争,85年(文明17)には山田が岡本番屋を設置し,宇治への通路を塞いだため,翌年宇治は国司北畠氏を頼んで山田に侵寇,このときは外宮正殿のほか,民家多数が炎上した。その後も抗争はたびたび生じており,93年(明応2)にはふたたび北畠氏の侵寇にあい,山田は荒野に帰したという。その後復興したが,1544年(天文13)の火災で,6000軒が焼失したと伝えられる。69年(永禄12)織田信長の伊勢進出とともに,山田は,実質的に織田信雄(のぶかつ)の支配下に入った。
執筆者: 近世になると伊勢信仰の普及,交通路の整備で参宮客が増え,彼らを泊めて神楽を奏し,祈禱をする御師の邸宅を中心にする町になった。遊興的な要素もあったが,御師の手に入る物品が商業に活気を与え,17世紀初期には家数8400軒余,人口3万人余に及ぶ伊勢第一の都市になった。山田・宇治両域の公事(くじ)裁判,監視,両宮警備は幕府山田奉行所の管轄だったが,町の内政は神仏の意を受ける祭政一致の考えに立って会合衆(えごうしゆう)が行った。山田では重立(おもだち)衆24家が数人ずつ交代で会合所に出勤して町政に当たり,支配下の町々の町年寄衆を支配した。各町は十人組制をとった。自治領の経費は〈貫(つなぎ)〉と称し,軒割(のきわり)で徴収した。会合所を維持する定時貫のほかに,宮川堤修理,京・江戸表への年始・慶賀などにあてる臨時貫があった。寛政改革後は自治の権限が弱まった。1889年宇治山田町となり,1906年市制,55年伊勢市と名称を変更した。
伊勢[市]
執筆者:

山田[町] (やまだ)

岩手県東部,下閉伊(しもへい)郡の町。人口1万8617(2010)。陸中海岸の中央部に位置し,内陸部は北上高地からの支脈がのびて急峻な山岳地帯を形成する。東部は船越半島が北の山田湾と南の船越湾を分ける。山田湾奥の山田と船越湾奥の船越はともに三陸海岸中部の良港であり,国道45号線とJR山田線によって結ばれる。湾内ではカキ,ホタテガイなどの養殖漁業が行われ,三陸漁場ではスルメイカ,サンマ漁などが盛んである。漁港,加工施設,魚市場も整備され,大型外来船の入港が増えている。海岸は,陸中海岸国立公園に属し,〈海の十和田湖〉と称される山田湾をはじめ,原生林におおわれた船越半島,その南のタブの自生北限地船越大島など景勝地が多い。2011年3月の東日本大震災では,死者行方不明848人,全壊住宅2790戸にのぼった。
執筆者:

山田[温泉] (やまだ)

長野県北部,上高井郡高山村にある温泉。純食塩泉,58℃。白根山の西麓,松川の渓谷にのぞむ段丘上にわく。1319年(元応1)の発見と伝えられ,古くから付近の山仕事に携わる人々に利用されてきた。湯は松川河岸にわくものを引湯し,滝ノ湯,金毘羅湯などの共同浴場がある。付近に松川の雷滝があり,山田牧場にも近く,冬季は志賀高原や万座方面へのスキーツアーの基地としてもにぎわっている。長野電鉄須坂駅からバスが通じている。
執筆者:

山田(福岡) (やまだ)

山田(千葉) (やまだ)

山田(宮崎) (やまだ)

山田(富山) (やまだ)

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百科事典マイペディア 「山田」の意味・わかりやすい解説

山田【やまだ】

三重県(伊勢国)の地名。現在の伊勢市中心部にあり,伊勢神宮の内宮の鳥居前を宇治,外宮(げぐう)の鳥居前を山田と呼んだ。室町時代から伊勢御師(おし)による伊勢信仰の広がりによって外宮の門前市が発展したが,市の指導権をめぐって山田神人(じにん)と神役人の地下人(じげにん)との間に争いが生じた。同時期自治組織として山田三方が形成される一方,宇治との間に参詣人獲得や関所の設置をめぐってたびたび抗争が起きている。江戸時代は幕府直轄下におかれ,山田奉行が支配。1788年の戸数は約6300で,宇治にくらべて商業都市としての性格が強い。1889年山田と宇治が合併し宇治山田町,1906年市制施行,その後の町村合併を経て1955年伊勢市と改称。→伊勢[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山田」の意味・わかりやすい解説

山田
やまだ

福岡県中部,嘉麻市北東部の旧市域。遠賀川支流の山田川上流域にある。 1954年市制施行。 1955年猪位金村の一部を編入。 2006年稲築町,碓井町,嘉穂町と合体して嘉麻市となる。 1894年古河鉱業下山田鉱,1895年三菱鉱業上山田鉱が開鉱されてから炭鉱都市として急激に発展。最盛期には人口約4万に達した。 1960年頃からの石炭不況に伴い大部分の炭鉱が閉山,産炭地域振興事業により布靴,食品,自動車関連部品などの企業が進出した。農村部では果樹を産し,畜産も行なわれる。白衣観音で名高い天台宗安国寺,大法山公園がある。

山田
やまだ

富山県中部,富山市の西部に位置する旧村域。飛騨山地北部にあり,神通川の支流井田川の支流山田川に沿う。 1889年村制。 2005年富山市,大沢野町,大山町,八尾町,婦中町,細入村と合体して富山市となった。大部分は丘陵性の山地。農林業が主産業。米作のほかタバコ,ダイコン,カキ,木材を産する。過疎対策として村営牛岳スキー場の造成や集落再編成が進められた。山田川の渓谷に山田温泉がある。

山田
やまだ

宮崎県南西部,都城市西部の旧町域。都城盆地の北西部にある。 1952年町制。 2006年都城市,山之口町,高城町,高崎町と合体して都城市となった。江戸時代は都城支藩領。霧島山の東山麓を占め,火山灰台地が広がり,大淀川の支流丸谷川が東流。山林が過半を占める。農業は米,野菜の栽培のほか,畜産も行なわれる。「山田のイチョウ」は巨樹として有名。

山田
やまだ

千葉県北東部,香取市南東部にある旧町域。 1954年府馬町 (1925年町制) と八都村,山倉村の2村が合体して成立。 2006年佐原市,栗源町,小見川町と合体して香取市となった。下総台地に位置し,古くからサツマイモ,ラッカセイなどの畑作地帯で,花卉,ナシ栽培なども行なわれる。北東部には水田地帯が広がる。中心地区の府馬にある大クスは国指定天然記念物。

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20世紀日本人名事典 「山田」の解説

山田

昭和期の仏文学者 東京大学名誉教授。



生年
大正9(1920)年11月3日

没年
平成5(1993)年6月21日

出生地
東京

学歴〔年〕
東京帝国大学文学部仏文学科〔昭和19年〕卒

経歴
昭和21年同志社大学予科講師、22年助教授、25年東京大学教養学部助教授、39年文学部助教授、41年教授、57年成城大学文芸学部教授を歴任。フローベールの研究で知られ、「ボバリー夫人」「感情教育」「紋切型辞典」などの訳書がある。

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普及版 字通 「山田」の読み・字形・画数・意味

【山田】さんでん

山中の田。

字通「山」の項目を見る

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旺文社日本史事典 三訂版 「山田」の解説

山田
やまだ

宇治山田

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世界大百科事典(旧版)内の山田の言及

【伊勢[市]】より

…三重県南東部の市。1906年宇治山田町が市制,55年豊浜,北浜,城田,四郷の4村を編入して改称。人口10万2632(1995)。…

【伊勢商人】より

…中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。安濃津(あのつ)(現,津市)も大神宮領からの年貢物の取扱い,さらには海外貿易港として発展し,山田の三日市・八日市には多数の市座商人や土倉がたむろし,活躍していた。これら商人の中には大湊の角屋氏のように海外貿易に進出するもの,後北条氏の城下町小田原に進出して住みつくもの,さらには遠く会津若松など東国に行商を行うものも現れた。…

【伊勢国】より

…桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。伊勢神宮は,垂仁天皇の世に倭姫命が五十鈴川上に天照大神の斎宮をたてたのが内宮のはじまり,雄略天皇の世に豊受大神を山田原にまつったのが外宮のはじまりとされる。桑名郡多度町の多度神社は,鉄工業の神として古来尊崇され,788年(延暦7)の〈神宮寺伽藍縁起幷資財帳〉がある。…

※「山田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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