山田 顕義(読み)ヤマダ アキヨシ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「山田 顕義」の解説

山田 顕義
ヤマダ アキヨシ


肩書
司法相,日本大学創始者

別名
通称=山田 市之允 号=韓峯山人 空斎 不抜 養浩斎

生年月日
天保15年10月9日(1844年)

出生地
長門国松本村(山口県萩市)

経歴
長州藩士。安政4年吉田松陰の松下村塾に学び、文久2年高杉晋作らの討幕誓書に加盟、元治元年禁門の変に参加、同年馬関戦争と第1次幕長戦争で活躍。慶応2年四境戦争に活躍、明治2年戊辰戦争に東征大総督参謀、箱館五稜郭の榎本武揚征討には陸海軍総参謀で従軍した。同年兵部大丞、4年岩倉具視遣外使節団理事官として米欧に随行。6年東京鎮台司令官、同年清国特命全権公使兼任(赴任せず)、7年佐賀の乱を鎮定、8年刑法草案を作成、10年西南戦争に別動隊第2旅団司令官として熊本で活躍、11年中将となった。この間、7〜12年司法大輔。12年参議兼工部卿、16年司法卿、17年伯爵、18年第1次伊藤内閣の司法大臣、その後も黒田内閣、第1次山県内閣、第1次松方内閣の司法相を歴任した。この間20年から法律取締委員長を務め、法典整備に尽力し、“法典伯”の異名を取った。21年皇典講究所(現・国学院大学)所長となり、また22年には日本法律学校(現・日本大学)を創立。24年大津事件の責を負って司法相を辞任した。25年病死したとされるが、没後の平成元年日大学術調査団の石棺発掘調査によって坑道の立て坑での転落死と鑑定された。

没年月日
明治25年11月11日

家族
孫=山田 顕貞(日大教授)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

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