山片蟠桃
やまがたばんとう
(1748―1821)
江戸後期の町人学者。大坂の米商人で大名貸(だいみょうがし)を営む升屋(ますや)山片家の別家番頭。町人学塾懐徳堂(かいとくどう)の逸材。無神論者で、蘭学(らんがく)の影響を受けた実学思想家である。寛延(かんえん)元年、農業長谷川十兵衛(はせがわじゅうべえ)の次男として、播磨(はりま)国印南(いなみ)郡神爪(かづめ)村(兵庫県高砂(たかさご)市)に生まれる。名は有躬(ありみ)。蟠桃は号。13歳のとき山片家別家叔父久兵衛の養子となった。商才を発揮して主家再興に努力し、1783年(天明3)仙台藩の依頼を受けて藩財政の再建に成功、主家の親類扱いによって山片芳秀(よしひで)を名のった。専業の間に懐徳堂で中井竹山(なかいちくざん)・履軒(りけん)兄弟から儒学を、先事館で麻田剛立(あさだごうりゅう)に天文暦学を学び、その見識は松平定信(まつだいらさだのぶ)にも知られた。蘭癖(らんぺき)の主人の協力を受けるとともに、歴代堂主の学風である真の知識と実体験による確認、西欧医学・科学の積極的理解の態度を摂取し、自然・人文両界の本質の把握に努めた。その成果を晩年の失明にも屈せず、大著『夢の代(しろ)』全12巻にまとめた。地動説を確信し、『日本書紀』応神(おうじん)紀以前を否定、あらゆる俗信の否認、無鬼(霊魂・鬼神否定論)の強調など、その主張は今日国際的に評価されている。文政(ぶんせい)4年2月28日没。墓は大阪市北区善導(ぜんどう)寺にある。
[末中哲夫 2016年7月19日]
『水田紀久・有坂隆道校注『日本思想大系43 富永仲基・山片蟠桃』(1973・岩波書店)』▽『源了円編『日本の名著23 山片蟠桃・海保青陵』(1984・中央公論社)』▽『末中哲夫著『山片蟠桃の研究 夢之代篇』(1971・清文堂出版)』
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山片蟠桃【やまがたばんとう】
江戸中・後期の経済論者・思想家。長谷川有躬,のち改姓して山片芳秀(よしひで)。通称升屋久兵衛,小右衛門(升小)。播磨(はりま)の人。大坂に出て丁稚(でっち)となったが,両替商升屋山片平右衛門に理財の才を認められ,その番頭となる。経営危機にあった升屋本家を再興,また陸奥(むつ)仙台藩,豊後(ぶんご)岡藩ほか諸藩の財政再建をなしとげ,その功により升屋本家の親類次席となり改姓。のち独立して両替商を営んだ。かたわら儒学を懐徳堂で中井竹山・中井履軒(りけん)兄弟に,天文学を麻田剛立(ごうりゅう)に学んだ。朱子学の影響を受けてはいたが,思想的根底には西洋の自然科学から得た広い知識があった。主著《夢の代(しろ)》。
→関連項目草間直方
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山片蟠桃 やまがた-ばんとう
1748-1821 江戸時代中期-後期の商人,学者。
寛延元年生まれ。大坂の豪商升屋の別家をつぎ,本家の番頭となる。本家再興,仙台藩の財政再建に手腕を発揮。一方懐徳堂で中井竹山・履軒(りけん)兄弟に師事し,天文学を麻田剛立(ごうりゅう)にまなぶ。地動説を確信し,神代史や霊魂を否定するなど,実学的合理思想をとなえ,失明にもめげず「夢之代(しろ)」12巻をあらわした。文政4年2月28日死去。74歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。本姓は長谷川。名は有躬,芳秀。字(あざな)は子厚,子蘭。通称は升屋小右衛門。
【格言など】経済は民をして信ぜしむるにあり(「夢之代」)
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山片蟠桃
やまがたばんとう
[生]寛延1(1748).播磨,神爪
[没]文政4(1821).2.26.
江戸時代中期~後期の儒学者。本姓は長谷川。幼名は有躬,通称は升屋小右衛門。蟠桃は号。幼時から大坂に出て両替商升屋平右衛門に仕えた。主家の興隆に尽し,58歳で別家して山片氏を名のり,みずから両替商を営み,諸藩の蔵元として,諸藩の経済を掌握するにいたった。懐徳堂で中井竹山,履軒兄弟に朱子学を,麻田剛立に天文学や蘭学を学んだが,合理的かつ功利的な思考において傑出。主著『夢之代』『大知弁』『一致共和対策弁』。
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山片蟠桃
やまがたばんとう
1748〜1821
江戸後期の大坂の町人学者
播磨(兵庫県)の人。大坂の両替商升屋(山片氏)につとめ,養子となった。懐徳堂で儒学を中井竹山らに学び,麻田剛立 (ごうりゆう) に天文学を学んだ。蘭学の科学思想の影響のもと,卓抜な経済論や唯物論的無神論を展開した。著書に『夢の代 (ゆめのしろ) 』など。
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やまがた‐ばんとう【山片蟠桃】
江戸後期の経済学者。播磨国(兵庫県)の人。
本名長谷川有躬、通称升屋小右衛門。大坂の豪商升屋の番頭となり、仙台藩の財政再建に功があった。中井竹山、麻田剛立に学び、徹底した無神論と合理主義に立った
農本主義の経済論を主張した。著書「夢の代」。寛延元~文政四年(
一七四八‐一八二一)
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デジタル大辞泉
「山片蟠桃」の意味・読み・例文・類語
やまがた‐ばんとう〔‐バンタウ〕【山片蟠桃】
[1748~1821]江戸後期の商人・学者。播磨の人。本名、長谷川有躬。大坂の両替商升屋に番頭として仕え、主家の興隆に尽くした。また、懐徳堂で儒学を学び、さらに天文学・蘭学を修め、合理主義精神を持つ独創的思想家として知られる。著「夢の代」など。
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やまがたばんとう【山片蟠桃】
1748‐1821(寛延1‐文政4)
江戸後期の大坂の町人学者。長谷川有躬,字は子厚,のち改姓して山片芳秀,字は子蘭,蟠桃は号。通称は升屋久兵衛,七郎左衛門,小右衛門。播磨国印南郡神爪村小兵衛の次男。1760年(宝暦10)大坂に出て米仲買,大名貸で名高い升屋平右衛門の別家升屋久兵衛(蟠桃の伯父)の家を継ぐ。番頭として経営危機の本家再興に尽力し,18世紀末には東は仙台藩,西は豊後岡藩の財政を再建,全国数十藩の蔵元・掛屋・立入として異例の成功を収めた。
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世界大百科事典内の山片蟠桃の言及
【実学】より
… 徂徠以後,実学思想は一変した。中期になると,山片蟠桃などは天文地理と医術のようなものを実学と考え,海保青陵は学問を経世済民という目的に奉仕すべきもの,今の世に役だつ学問こそ実学とした。本多利明にいたると,蘭学の影響を受け,西洋流の航海術,天文・地理,算数などの海外交易に役だつ学を実学と考えた。…
【太陽暦】より
…日本では1873年(明治6)から太陽暦が採用されたが,一部の人たちにはそれ以前にも太陽暦は知られていた。古くは戦国時代の末ころよりキリシタンの人々に利用されていたが,江戸時代の本多利明は太陽暦の便利さを説いているし,同じころ,中井履軒や山片蟠桃は太陽暦の見本を作っていた。1795年には太陽暦の1月1日に蘭方医大槻玄沢によってオランダ正月が祝われた。…
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