山本鼎(読み)やまもとかなえ

精選版 日本国語大辞典 「山本鼎」の意味・読み・例文・類語

やまもと‐かなえ【山本鼎】

洋画家、版画家愛知県出身。東京美術学校卒業後渡欧。帰国後、日本美術院同人となり、さらに日本創作版画協会創立農民美術運動および自由画教育に取り組む。春陽会結成に参加。代表作「サーニャ」(油絵)、「ブルトンヌ」(木版画)。明治一五~昭和二一年(一八八二‐一九四六

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デジタル大辞泉 「山本鼎」の意味・読み・例文・類語

やまもと‐かなえ〔‐かなへ〕【山本鼎】

[1882~1946]洋画家・版画家。愛知の生まれ。大正7年(1918)日本創作版画協会を結成し、創作版画の発展に尽力。また、児童のための自由画運動の推進、日本農民美術研究所の設立など、多方面で活躍

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百科事典マイペディア 「山本鼎」の意味・わかりやすい解説

山本鼎【やまもとかなえ】

洋画家,版画家。愛知県生れ。1906年東京美術学校を卒業し,翌年森田恒友石井柏亭らと美術・文芸雑誌方寸》を創刊,1912年―1917年渡欧後,再興院展に出品して認められた。1918年日本創作版画協会を興し,創作版画の育成に尽力。1919年長野県に日本農民美術研究所を設け,また児童画を提唱するなど美術教育家としても活躍した。上田市山本鼎記念館がある。
→関連項目赤い鳥クレヨン春陽会パンの会村山槐多

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本鼎」の意味・わかりやすい解説

山本鼎
やまもとかなえ
(1882―1946)

洋画家、版画家。愛知県岡崎生まれ。幼少のころ上京、木版師桜井暁雲(ぎょううん)の内弟子となる。1906年(明治39)東京美術学校西洋画科を卒業し、翌1907年同志と『方寸』誌を創刊、これに版画や文章を発表。1912~1916年(大正5)滞仏し、モスクワ滞在ののち帰国。翌1917年日本美術院洋画部同人となり、1918年同志と日本創作版画協会を創立、また自由画教育と農民美術運動に積極的に取り組む。1922年春陽会の創立に参加、翌1923年長野県大屋に日本農民美術研究所を建設する。重厚な写実で知られ、著書『油絵の描き方』『自由画教育』などもある。代表作は油絵の『サーニャ』、木版画の『海辺の子供』『ブルトンヌ』ほか。

[小倉忠夫 2017年1月19日]

『山越脩蔵編『山本鼎の手紙』(1971・上田市教育委員会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「山本鼎」の意味・わかりやすい解説

山本鼎 (やまもとかなえ)
生没年:1882-1946(明治15-昭和21)

画家,版画家。愛知県岡崎市に生まれる。桜井暁雲に木口木版を学ぶ。東京美術学校卒業。1907年石井柏亭らと美術雑誌《方寸》を創刊,創作版画運動を起こす。春陽会等に油絵を発表するとともに,日本創作版画協会,日本版画協会創立の立役者となり,日本近代版画の確立と普及に尽力した。この間,12-16年フランスに遊学。帰国の途次,ロシア農民美術に啓発され,長野県上田近郊に日本農民美術研究所を設立,農家の副業としての農民美術の育成に努めた。また自由画運動を提唱し,図画教育のみならず,画一的形式的学校教育を問い直す幅広い運動を展開した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山本鼎」の意味・わかりやすい解説

山本鼎
やまもとかなえ

[生]1882.10.24. 岡崎
[没]1946.10.8. 長野,上田
版画家。 1906年東京美術学校西洋画科卒業。翌年石井柏亭,森田恒友らと雑誌『方寸』を創刊して創作版画運動を推進。 12~16年ヨーロッパへ留学,ロシアを経て帰国後,再興日本美術院洋画部の同人となり,同展に多くの滞欧作を発表。 18年恩地孝四郎らと日本創作版画協会を創立。翌年には長野県小県郡神川村小学校で児童の自由画教育運動を起し,また同村に日本農民美術研究所を設立。 20年には小杉放庵らと院展を脱退,22年春陽会の結成に参加。簡潔で清新な木版画を得意とした。村山槐多の従兄。主要作品『漁夫』 (1904) ,『支那の女』 (12) ,『ブルターニュの小湾』 (12) ,『サンマルタンの冬』 (14) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本鼎」の解説

山本鼎 やまもと-かなえ

1882-1946 大正-昭和時代前期の洋画家,版画家。
明治15年10月14日生まれ。山本太郎の父。村山槐多の従兄。北原白秋の義弟。大正1-6年滞欧。7年日本創作版画協会を創設,また児童の自由画教育,農民美術運動を推進する。11年春陽会創立会員。昭和21年10月8日死去。65歳。愛知県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「サーニャ」「ブルトンヌ」など。

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世界大百科事典(旧版)内の山本鼎の言及

【赤い鳥】より

…また,同誌は作家に子どものための作品を書く場を提供したばかりでなく,子どもにも自由な表現を促す場を提供した。そして,子どもの応募作品に対して,毎号,三重吉が綴方を,北原白秋が児童自由詩を,山本鼎(かなえ)が自由画を選び,批評し,指導することにより児童文化の領域を広めるとともに全国の子どもの表現に影響を与えた。身のまわりの現実の生活をリアルに描き出す子どもの作品に目を開かされた三重吉は,綴方をたんなる文章表現の練習としてでなく,〈人そのものを作りとゝのへる,`人間教育’の一分課〉ととらえた。…

【アトリエ】より

…美術雑誌。1924年4月,洋画家山本鼎の企画のもとに北原義雄によって創刊された。平易で新鮮な誌面をめざし,絵画技法の解説や外国美術の紹介に力をそそぎ,月刊総合美術雑誌として《みづゑ》とともに戦前の美術ジャーナリズムの中心にあって日本の美術界に影響力をもった。…

【美術教育】より


[日本の美術教育の変遷]
 日本でも,1872年(明治5)の〈学制〉で設けられた〈幾何学罫画大意〉という教科以来,図画は〈眼及手ヲ練習シテ通常ノ形体ヲ看取シ正シク之ヲ画クノ能ヲ養ヒ兼ネテ意匠ヲ練リ形体ノ美ヲ弁知セシムルヲ以テ要旨トス〉という臨画主義の方針が長く影響を与えてきた。この実用主義的な臨本模写の教育に対し,版画家・洋画家であった山本鼎(かなえ)は1919年ころより〈小児には小児の感情理性――生活があるんです。印象,感覚,認識に据へられる彼れ等の実相があるのです〉という児童観によって,〈各人の眼を心を直ちに万象へ導き,其処に自然を知り,其美を知り,其美術を知り,其趣味の深淵を会得する〉ことをめざす自由画教育運動を推進した。…

【明治・大正時代美術】より

…文展を離れて闘うことになったこの青年画家たちが,京都画壇に与えた刺激は小さなものではなく,彼らの出現によって栖鳳以降にきざしていた京都画壇の近代化への脱皮をうながすことになった。 20年の第7回院展後,日本画部との感情的対立から日本美術院洋画部を解散した小杉放庵,森田恒友(つねとも)(1881‐1933),山本鼎(かなえ)(1882‐1946),倉田白羊(1881‐1938),足立源一郎(1889‐1973)らは,梅原竜三郎を加えて,22年春陽会を結成する。ほかに客員として,岸田劉生,木村荘八,中川一政,椿貞雄の草土社勢,院展系の石井鶴三,今関啓司,山崎省三,それに万鉄五郎が迎えられた。…

※「山本鼎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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