山本浩二(読み)ヤマモトコウジ

デジタル大辞泉 「山本浩二」の意味・読み・例文・類語

やまもと‐こうじ〔‐カウジ〕【山本浩二】

[1946~ ]プロ野球選手・監督広島の生まれ。昭和44年(1969)広島東洋カープ入団。1年目からレギュラーとして活躍し、同50年には首位打者を獲得するなど、球団初のリーグ優勝に貢献MVPも獲得し、「ミスター赤ヘル」と呼ばれた。同52年からは5年連続40本塁打100打点以上をマーク。引退後は、同球団の監督を二度務めた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本浩二」の意味・わかりやすい解説

山本浩二
やまもとこうじ
(1946― )

プロ野球選手(外野手:右投右打)、監督。10月25日、広島県生まれ。廿日市(はつかいち)高卒業後、法政大学へ進学。大学では田淵幸一(たぶちこういち)、富田勝(まさる)とともに「法政三羽烏(がらす)」とよばれて注目を集めた。ドラフト1位で1969年(昭和44)に広島東洋カープに入団、すぐに頭角を現した。1年目からホームラン12本を打ち、引退まで18年間、2桁(けた)本塁打を記録し続けた。1975年には29歳で初の首位打者となり、球団初のリーグ優勝に貢献して最優秀選手(MVP)を獲得。本格的にその才能が開花したのは30代になってからで、とくに1977年からは5年連続でホームラン40本以上、打点100以上を記録し、「ミスター赤ヘル」とよばれた。衣笠祥雄(きぬがささちお)とともに打線中核を担って1979年からの2年連続日本一を支え、80年には2回目のMVPに選ばれた。持ち前の長打力で右方向にもホームランを飛ばし、守っては強肩を武器にして1972年から10年連続してダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞、また83年にはサイクル安打も達成した。1987年に27本塁打を打ちながらも引退。通算536本塁打は歴代4位(2007年現在)。背番号8は球団史上初の永久欠番となった。1989年(平成1)広島の監督となり、91年にリーグ優勝を飾ったが、93年に辞任。2001年にはふたたび広島の監督に就任し、05年まで務めた。

[出村義和]

 選手としての18年間の通算成績は、出場試合2284、安打2339、打率2割9分、本塁打536、打点1475。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、本塁打王4回、打点王3回、最優秀選手(MVP)2回、ベストナイン10回、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)10回。監督としての通算成績(8年)は、1075試合、531勝520敗24分け、勝率5割5厘、リーグ優勝1回。2008年(平成20)野球殿堂入り。

[編集部]

『山本浩二著『浩二の赤ヘル野球』(1989・文芸春秋)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本浩二」の解説

山本浩二 やまもと-こうじ

1946- 昭和後期-平成時代のプロ野球選手,監督。
昭和21年10月25日生まれ。大学時代,田淵幸一,富田勝とともに「法政三羽烏(がらす)」といわれ,昭和44年広島に入団。50年首位打者となり,広島初優勝に貢献。不動の4番,強肩の外野手で「ミスター赤ヘル」とよばれた。実働18年,本塁打王4回,打点王3回。通算2339安打,2割9分,536本塁打,1475打点。平成元-5年広島監督(3年リーグ優勝)。13-17年ふたたび広島監督。19年北京五輪日本代表コーチ。20年野球殿堂入り。25年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表監督。広島県出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「山本浩二」の解説

山本浩二 (やまもとこうじ)

生年月日:1946年10月25日
昭和時代;平成時代の元・プロ野球選手,野球日本代表コーチ

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android