山方村(読み)やまがたむら

日本歴史地名大系 「山方村」の解説

山方村
やまがたむら

[現在地名]山方町山方

久慈川と枇杷びわ川に挟まれた平坦地の村。西北に山を負い、枇杷川は東南に流れ久慈川へ合流する。北は舟生ふにゆう村。南郷なんごう街道の宿場町として栄えた。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「弐千五拾石六斗四升 山方村」とあり、元禄郷帳にも「山方村」とみえる。「水府志料」によると村の東西五〇町余・南北三四町ほど、戸数およそ二五六、水戸まで八里であった。同書に「保内領より水戸城下への往還道筋なり。又舟生村の地より来れる用水の江ありて、野上村に流る」「久慈川 舟生村の地より来り、野上村に流る。

山方村
やまがたむら

[現在地名]伊万里松浦町まつうらちよう山形やまがた

ももかわ盆地の西部を占め、中央を東西に伊万里道が黒尾岳くろおだけ川に沿い、北からは藤川内ふじんこうち川が南流、これは提川さげのかわ村との境界であるとともに佐賀領と武雄領との境でもある。宿分しゆくぶん久良木きゆうらぎ・藤川内の三字からなる。慶長絵図に村名がみえる。

村内に山形古窯跡群がある。「葉隠」に「有田皿山は、直茂公高麗国より御帰陣の時、日本の宝に成さるべきと候て、焼物上手頭六七人召し連れられ候金立山に召し置かれ、焼物仕り候。その後、伊万里郷の内、藤の河内山に罷り移り、焼物仕り候。

山方村
やまがたむら

[現在地名]木次町山方

里方さとがた村の北東に位置し、斐伊川支流のうけ川がほぼ中央を流れる。近世の郷帳類などには里方村と合せて日井郷ひいごう村と記された。一説には寛文年間(一六六一―七三)に山方村と里方村の二村に分離したという。「雲陽大数録」に村名がみえ、高四六〇石。「郡村誌」によると田五〇町余・畑二七町余・宅地五町余、戸数九六(うち社四)・人口四五九、牛六三・馬二、物産は米・櫨実・楮・薪・木綿。

山方村
やまかたむら

[現在地名]三重町久田ひさだ 山方

玉田たまだ村の南西、玉田川西岸にある。西方奥岳おくだけ川が北東流する。近世を通じ臼杵藩領。玉田村の内で(「雑録」臼杵藩政史料)、文政六年(一八二三)には上玉田組大庄屋に属した(万用集)。旧高旧領取調帳では山方村として独立して記され、高一一六石余。江戸時代後期の免は五ツ一分(雑録)。奥岳川を挟んで岡藩領と相対するため当村に目付が置かれた(「小高家記録」小高家文書)

山方村
やまがたむら

[現在地名]吉川町山方

北東は原之町はらのまち村、西は大滝おおたき新田に接し、南東に六角ろつかく山がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「諸越彦七郎分此外五方分山方村 下」とみえ、本納一〇六石八斗四升・縄高一二三石六斗四升六合四勺、家三軒・九人とある。正保国絵図に村名がある。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高二三一石七斗余。天和三年郷帳によれば高三二七石余。文政七年(一八二四)の五人組帳(明治大学刑事博物館蔵)によると家数二八(本棟六・名子棟二二)、男一〇一・女八七である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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