履物(読み)はきもの

精選版 日本国語大辞典 「履物」の意味・読み・例文・類語

はき‐もの【履物】

〘名〙 草履、下駄、靴など、足にはくものの総称。
※蘇悉地羯羅経略疏寛平八年点(896)七「の字は即ちの字也〈略〉或にの字に為れり。舞履(ハキモノ)ぞ」
※閑居友(1222頃)上「はきものしてかほほふみたりける」

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デジタル大辞泉 「履物」の意味・読み・例文・類語

はき‐もの【履物】

靴・サンダル・下駄・草履など足に履く物の総称。

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改訂新版 世界大百科事典 「履物」の意味・わかりやすい解説

履物 (はきもの)

足につけて歩くものの総称。歩いたり仕事をしたりする際の足の保護や整容のために用いる。形によって大きく閉塞性履物と開放性履物とに分けられる。閉塞性履物は被甲性履物とも呼ばれサボモカシンのように足を包みこむ形のもの,開放性履物はサンダルスリッパー下駄(げた),足半(あしなか),草鞋(わらじ),草履(ぞうり)などのように甲をおおわないもので,鼻緒をもつものも含まれる。かつては前者は寒国性,後者は暖国性履物と呼ばれていたこともあるが,交通機関,冷暖房の発達,用途によってはき分ける習慣とも相まって,現在はこの呼称は使われていない。また両者の中間の形のものもある。このほかに性別,年齢別(ベビー靴,子ども靴など),雨靴,スポーツ用などの用途別によっても分類される。材料は皮革,木材,布,ゴム,合成皮革,人工皮革,コルク,稲わらなどが用いられ,皮革の中では牛革がもっとも多い。

履物は足や身体を寒さや暑さから保護するために起こったとする説があるが,これは疑わしい。一般に閉塞性履物は寒い地域,開放性履物は温暖な地域に多く分布しているが,これは履物が衣服の一環となってからのことである。理由として履物が使用される前に,人類の出現以来,およそ400万年近くのはだしの歴史があること,現在でもなおはだしの民族が見られることがあげられよう。有名な事例として,南米の最南端に位置するフェゴ島は一年のうち5ヵ月も降雪を見る寒い所であるにもかかわらず,数十年前までここに住んでいたオナ族は,毛皮をまとうだけで履物を用いていなかったことが知られている。また北海道に住むアイヌを描いた古い絵巻類を見ても,衣服は着ているが足もとははだしのままである。彼らが日常的に履物を使用するようになったのは,内地から履物が移入されてからである。

 実在する標本としての最古の履物は,前2000年ころの古代エジプトのサンダルである。しかし当時のサンダルは特殊な階級,たとえば王族,僧,戦士にしか許されておらず,しかも儀式のようなときしか用いていないことなどから,暑さから足を守るために起こったとは考えられない。このように,履物が階級性あるいは職業を示すものであったことはギリシアやローマにも受け継がれ,貴族のサンダルの甲の部分には月型模様の飾りがつき,また戦士は爪先部が開いた重いブーツをはいていた。履物や衣服が上流階級と下層民で異なっていたことは,前5世紀のアテナイの少女ヘゲソの墓碑にも見られる。貴族の少女が腕を露出した衣服にサンダルをはいているのに対し,奴隷の少女は衣服,履物ともにすっぽりと体や足をおおう閉塞性のものをつけている。ヨーロッパにおける労働用履物としてはサボがあり,古代ローマから現代にいたるまで男女ともに愛用されてきている。

 日本における履物の起源についての手がかりとしては,縄文時代後期に深沓(ふかぐつ)をかたどった土器が一例あるにすぎない。弥生時代には農耕に伴って大型の下駄状の田下駄があらわれてくるが,これは道具であって履物として用いられたものではない。しかし古墳時代には,下駄をかたどった石製模造品が各地から出土しており,古くから下駄をはいたと思われる。また熊本県の江田船山古墳出土の金銅製の沓(くつ)は,朝鮮のものと同系統で,おそらく豪族たちに用いられたものであろう。日本では温暖湿潤の気候と相まって素足で用いる下駄,草履など開放性履物の発達がいちじるしい。これら在来の履物の使い方が外国のものと異なる点は,足指の活用にあるといえよう。たとえば下駄や草履の前緒(前鼻緒)を親指と第2趾できつくはさんで歩き,働くのは,独自の使い方である。また足半にいたっては足指が台部からはみ出して地面をつかむことができるため,ふんばりがきき,鎌倉時代の武士には多用された。また材料のわらは水に濡れてもすべらないため,近年まで漁師や農夫に広く愛好されてきた。草鞋もまた農作業や旅行に広く使われてきた。労働との関連では大正時代に作られ全国的に普及した地下足袋があげられる。なお,個々の履物の沿革については,〈足半〉〈〉〈〉〈下駄〉〈草履〉ほか,それぞれの項目を参照されたい。
執筆者:

日本では履物は,実用の用途だけでなく,民俗儀礼の中でも多様な役割を果たしている。それは,履物が個人の魂の宿るものとされたことや,履物が別の世界へ行くための重要な手段とされたことにかかわる面が多いと思われる。

 神仏に履物を奉納したり,正月や季節の折り目などに村境に履物を吊るして魔除けとする風習は各地に見られる。また,各家でも流行病の際に戸口に履物を吊るして難を避ける呪いとしたり,正月の仕事始めに草鞋や馬の沓などを作って竈神(かまどがみ)に供えたりする。道切りなどではなるべく大きな履物を作って巨人がいることを示して悪魔を退散させるのだという説明がなされているが,この世と異界の境で神迎えをするためのものだとも説かれている。履物はこの世と異界とをつなぐとともに,また,二つの世界を分け隔てるという役割も有しているのである。《日本書紀》には,伊弉諾(いざなき)尊は泉津平坂(よもつひらさか)で伊弉冉(いざなみ)尊に対して,〈此よりな過ぎそ〉といって杖,帯,衣,褌(はかま),履(くつ)を投げたとある。通常,この神話は身につけているものを投げて身を潔めたのだと説明されているが,投げたものがみな岐神(くなどのかみ)など道の神,境の神になっており,この世と黄泉国(よみのくに)を結界したものとも考えることができる。

 履物は婚姻儀礼において縁結びの役割も古くから果たしていた。平安時代の貴族社会では,〈沓取り(くつとり)の儀〉といって,婚姻の日から3日間女の両親が婿のはいてきた沓を抱いて寝る風習があった。男が永く娘の元に通ってくれることを願ったものといわれる。これに関連して,女が密通した場合には脱いである男の沓が自然に重なるという俗信も行われていた。民間においても,履物は結婚祝いや結納品の一つとされ,草履を贈ることが娘への求婚の手段となっていた土地もある。〈女護ヶ島〉伝説では,島の女たちが草履を浜に並べ,それをはいた男が女の結婚相手や客となったとされている。逆の縁切りの場合にも,足袋や履物がヒマジルシとして男に贈られることがあった。これは女が結婚するときに,それまで交際をしていた男と別れる際の作法である。縁切寺では女が駆けこむ代りに,寺の境内にその履物を投げこめば,夫と別れることができたとされている。

 履物は婚姻習俗だけでなく,葬式にもかかわる。野辺送りに近親者がはく草履は〈アッチ草履〉とか〈金剛草履〉などといい,座敷から直接地面にはいたまま下りるほか,墓地や辻などに脱ぎすててくる習慣がある。このため,ふだん履物をはいたまま家から外へ下りるのは忌まれているが,野辺送りの履物を拾ってはくと百難を逃れるとか,蚕のあがりがよいという所もある。また,棺には旅装束の一つとして草鞋を入れたり,墓に墓印として草履や足半を供える風習もある。死霊の帰ってくるのを恐れて,〈逆さ草履〉など細工をした履物を納棺する所もある。納棺する履物は,笠や杖と同様にあの世へ旅する道具であろうが,これは,まだ死者が顕幽どちらにも属していない中間的な存在であることをあらわしている。

 この世と異界(聖域も含めて)の違いは,履物とはだしの対立関係であらわすこともできるように思われる。山伏には〈山入り〉の際に麓で新しい草鞋にはきかえ,山での草鞋は杖にかけて大事に持ち帰る風習があり,峠などに多い沓掛(くつかけ)という地名は,俗界と聖界の境と考えられる所になっている場合がある。これらは,履物をかえることで異なった空間であることをあらわしているのだが,湯殿山の奥の院などははだしで参ることになっている。沖縄の池間島でも御嶽の鳥居から先は履物をぬぐきまりになっている。神隠しにあったときも,履物はきちんと揃えてあるといい,自殺などの際も履物を揃えて死ぬ場合が多いようである。神仏に履物を奉納することが,神迎えの作法に由来するという説明がされる根拠はここにあるといえる。西洋ではサンタクロースの来る晩に暖炉の側に靴を並べたり,また日本の〈正月様〉の童唄では必ず正月様が何をはいて来るかに言及されている。履物をはくべき所ではいていないという状況は,非日常的な異常な状態にあることを表象していると考えることもできる。《万葉集》の〈沓はけわが背〉の歌を,鎮魂歌とみる解釈の根拠も,古く日本では履物をはかない姿で異界へ赴いたと想像され,また履物には遊離した魂を呼び戻す力があるものと,ひろく人々に信じられていたことにある。履物をつけない者は,神または異界の者とみていたのである。

 履物がこの世と異界を結ぶものであることは,〈天人女房〉の昔話で蔓をもつ植物の根元に履物を埋めて天上界に男が行くと語られていることからもわかる。履物をめぐる多くの俗信も,このことを裏付けている。とくに,夜下駄をおろすことは忌まれているが,これは夜が死の世界に通じるためであろう。便所や井戸といったこの世と異界の境をなすような場所にまず下駄をはいて行くなどともいう。ほかにも履物には多くの俗信がともなっており,下駄が自然に割れたり歯が欠けたり,あるいは緒が切れると縁起が悪いとか不思議なことが起こるという。履物を投げあげてその表裏で天気を占ったりもする。
執筆者:

聖と俗ないしは非日常と日常の違いが,履物とはだしの対立で示されることは,外国においても古くから多くの宗教にその例を見る。旧約聖書《出エジプト記》3章5節には,神の言葉として〈足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる地だからである〉とあり,《ヨシュア記》5章15節にも同様の記事がある。ギリシア,ローマでも,たとえばロドス島のアレクトの神殿,ローマのイシスおよびキュベレの神殿などへの参内ははだしでなければならなかったと伝えられ,エジプトやインドでも神官たちははだしで神殿に入った。イスラム教徒は,今日でもモスクに入るときは履物を脱ぐ。参加者がはだしである祭礼も多い。これらは一般に,履物を世俗のものとみて,聖所ではそれを着けることを避けるとともに,より積極的にははだしが神の前での卑下と服従を示すものと考えられたからであろう。キリスト教には,フランシスコ会,改革カルメル会などはだしを旨とする修道会があって跣足(せんそく)修道会と称されるが,清貧のモットーということ以外に上記のような意味を認めることができる。一方,聖所に入ったり神事を執り行う際,特定の履物をはく風習も知られており,神官は,ギリシアやシリアでは犠牲獣の皮で,エジプトではパピルスやヤシの葉で作った履物を用いたという。この場合も,あくまで聖別された特別の材料から履物が作られることには留意しなければならない。

 片方の履物にまつわる多くの伝承がギリシア文化圏にはある。トゥキュディデスは,プラタイアイの兵士の一隊が片方のみはだしで城塞(じようさい)から脱出したことを伝え(《戦史》第3巻22章),女怪ゴルゴンを退治したペルセウスはサンダルを片方しかはいておらず,片方のサンダルの男に注意せよとの神託を受けていたイオルコス王ペリアスの前に現れたイアソンはそのままの格好であったために,金羊皮を求めて旅に出ることになる。J.G.フレーザーは《金枝篇》で,はだしの右足を犠牲獣の皮の上に置いて行われるギリシアの宗教儀礼に言及しているが,履物の片方だけをはいたいわば異形の姿と,神の加護あるいは神意の顕現という観念には強い関連のあることが予想される。なお,ヘロドトスによれば,ペルセウス崇拝はエジプトにも及んでおり,ケンミスなる町にはその神殿があるが,ペルセウスはしばしばここを訪れ片方のサンダルを残していくという。そして,このサンダルの出現はエジプトの繁栄を約する吉兆であると信じられている(《歴史》第2巻91節)。

 またヒュギヌスによれば,ヘルメスには次のような伝説がある。すなわちヘルメスは美神アフロディテに恋したが拒まれ,これを哀れんだゼウスが鷲に変じてアフロディテのサンダルの片方を盗んで彼に与えたため愛はかなえられた。同趣向の伝説はストラボンも伝えており,鷲に盗まれたロドペRhodopēのサンダルの片方がエジプト王プサンメティコスの胸の上に落ち,王はその持主を国中に捜し求めたという。いずれも履物と愛の成就,後者はさらに身元確認の主題が結びついている点で,シンデレラの〈ガラスの靴〉などとの共通性や,履物の性的な象徴性を示唆しており興味深い。なお,履物が身元の証明の手だてとなる例はテセウスの伝説にも見られ,上記ペルセウス,ヘルメスはともに有翼のサンダルの持主として知られる。

 履物の象徴的,呪術的な使用も多々ある。特異なものとして,旧約聖書には,権利譲渡のしるしとして売手が買手に履物を渡す例(《ルツ記》4:7),子なくして死んだ兄の妻との結婚を拒む弟は,履物を脱いで女に渡さなければならないという例(《申命記》25:9)をはじめ,土地占有の象徴的行為として履物を投げる例(《詩篇》60:8)などが見える。履物の呪術については,頭の上に不揃いに履物を置いて寝れば夢魔に悩まないというドイツの伝承,新婚夫婦の背に古靴を投げて祝福するイギリスの習俗をその一例として挙げておこう。死を冥界への旅と観じて,死者に履物を持たせるという習俗もまた,広く見られるものである。
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