尚泰(読み)しょうたい

精選版 日本国語大辞典 「尚泰」の意味・読み・例文・類語

しょう‐たい シャウ‥【尚泰】

琉球王国最後の王。第二尚氏王統一九代。一八六六年清国より琉球国中山王に任ぜられ、明治五年(一八七二)日本政府より琉球藩主として華族に列せらる。同一二年上京を命ぜられて明治天皇に謁見し、東京移籍を命ぜられて、侯爵となる。(一八四三‐一九〇一

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改訂新版 世界大百科事典 「尚泰」の意味・わかりやすい解説

尚泰 (しょうたい)
生没年:1843-1901

琉球王国最後の国王。尚育王の次子で,長子早世のため1847年7月,わずか4歳で第二尚氏王朝19代目の王となった。66年8月,中国(清朝皇帝の命により派遣された使節の手で冊封(皇帝名による即位式典)をうける。その治世中,王国は動揺し,内外ともに多事多難を極めた。琉球を日本の版図に編成することを目ざした明治政府により72年(明治5)9月〈琉球藩王〉に封ぜられ,79年3月の〈琉球処分〉(沖縄県の設置)に際しては王宮首里城の明渡しを強要され,臣下とともに城を出た。ここに450年に及ぶ琉球王国の歴史は終止符を打たれた。翌月上京,侯爵に列せられ,東京に屋敷を与えられた。84年8月から翌年3月まで一時帰郷した以外は余生を東京でひっそり送った。死後,沖縄で旧例により国王としての葬儀がとり行われた後,歴代国王の眠る玉御殿(たまうどん)(玉陵)に葬られた。
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朝日日本歴史人物事典 「尚泰」の解説

尚泰

没年:明治34.8.19(1901)
生年:尚育9.7.8(1843.8.3)
琉球王国の最後の王。第二尚氏王朝19代に当たる。尚泰1(1848)年,父尚育の跡を受け6歳で王位に上り,王国末期の激動に遭遇する。明治維新(1868)により発足した新政府は琉球を編入すべく事業に着手するが,明治5(1872)年に琉球王国を「琉球藩」に,尚泰を「琉球藩王」とすると通告した。これを前提に廃藩置県を行うこととし,政府内に琉球処分官を置いた。しかし琉球側は言を左右にして従わず,中国(清国)も宗主権を楯に厳重に抗議した。明治政府は強行突破する方針をかため,同12年春,軍隊・警察を動員して首里城の明け渡しを迫った。尚泰が臣下と共に城を出たため,ここに450年間続いた王国体制は崩壊し沖縄県が発足した(琉球処分)。尚泰は政府の命令で上京し,侯爵に列せられて東京に住んだ。東京で病死したが,その亡骸は沖縄に運ばれ,古式に則った盛大な葬儀が行われたのち,王家の墓玉陵に葬られた。<参考文献>金城正篤『琉球処分論』

(高良倉吉)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尚泰」の意味・わかりやすい解説

尚泰
しょうたい
(1843―1901)

琉球(りゅうきゅう)王国最後の国王。天保(てんぽう)14年7月8日、尚育(しょういく)の次男として生まれたが、長子早世のため1847年(弘化4)弱冠4歳で王位に上り、1866年(慶応2)中国皇帝の派遣した趙新(ちょうしん)らの手で冊封(さくほう)を受けた。農村の疲弊や王府財政の逼迫(ひっぱく)、異国船来航など、その治世は内憂外患に明け暮れ、やがて琉球所属問題の難局に直面した。1872年(明治5)「琉球藩」設置に伴い「琉球藩王」の称を明治政府より与えられ、1879年には、軍隊、警察を投入して王宮首里城の明け渡しを命ずる政府の要求に屈し、臣下とともに城を出て長い王国の歴史に終止符を打った(琉球処分)。その後、侯爵となり、東京に屋敷を与えられて住んだ。明治34年8月19日死去。歴代国王の眠る玉御殿(たまうどぅん)に安葬された。

[高良倉吉]

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百科事典マイペディア 「尚泰」の意味・わかりやすい解説

尚泰【しょうたい】

琉球王国最後の王。1848年わずか4歳で即位し,1854年に琉米修好条約,1855年に琉仏修好条約,1859年に琉蘭修好条約を結んだ。1872年琉球藩設置に伴い,琉球藩王となり,華族として東京に藩邸を与えられた。1879年琉球藩に沖縄県が設置されると首里城も出ることとなり,琉球藩は消滅した。明治政府より上京を命令され,華族として東京へ居を移した。のち華族令の発令により侯爵となり,1901年に59歳で亡くなった。墓所は沖縄県那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵である。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尚泰」の解説

尚泰
しょうたい

1843.7.8~1901.8.19

第二尚氏王統の第19代で琉球王国最後の王(在位1848~79)。侯爵。父は尚育(しょういく)。1848年6歳で即位したが,冊封は大幅に遅れ,66年ようやく行われた。当時琉球には異国船が頻繁に渡来し,異国人が逗留するなど国事多端,財政的にも窮乏していた。72年(明治5)明治政府は琉球の処分方針にもとづき,尚泰を琉球藩王とし華族に列した。75年から一連の処分が断行され,79年廃藩置県。尚泰は命じられて上京,84年帰郷が許された。没後王陵の玉陵(たまうどうん)に葬られたが,葬儀は王府時代同様に挙行された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尚泰」の解説

尚泰
しょうたい

1843〜1901
最後の琉球国王
1872年に琉球藩が置かれると琉球藩王とされ,華族に列せられた。'79年の沖縄県設置(琉球処分)により,首里城の明け渡しと東京移住を命じられた。'85年華族令により侯爵。

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世界大百科事典(旧版)内の尚泰の言及

【琉球処分】より

…79年3月27日,松田は300名の兵士,160名余の警官を率いて〈琉球藩〉を廃し〈沖縄県〉を設置する旨を琉球側に布告し,3月31日限りで王宮首里城の明渡しを命じた。この威圧の前に琉球側はなすすべがなく,国王尚泰(しようたい)はやむなく首里城を明け渡した。ここに450年に及ぶ琉球王国はその歴史を閉じたのである。…

※「尚泰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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