小関三英(読み)おぜきさんえい

精選版 日本国語大辞典 「小関三英」の意味・読み・例文・類語

おぜき‐さんえい【小関三英】

江戸後期の医者、蘭学者。名は好義。出羽の人。幕府天文台の和解御用翻訳係)となる。高野長英渡辺崋山らと親交を結び、蛮社の獄の際、自殺。訳著「泰西内科集成」など。天明七~天保一〇年(一七八七‐一八三九

こぜき‐さんえい【小関三英】

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デジタル大辞泉 「小関三英」の意味・読み・例文・類語

こせき‐さんえい【小関三英】

[1787~1839]江戸後期の蘭学者・医者。出羽の人。名は好義。江戸で医学・蘭学を学び、岸和田藩医・幕府天文台翻訳掛を務めた。尚歯会の一員となり、蛮社の獄に連座して自刃。

おぜき‐さんえい〔をぜき‐〕【小関三英】

こせきさんえい

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朝日日本歴史人物事典 「小関三英」の解説

小関三英

没年:天保10.5.17(1839.6.27)
生年:天明7.6.11(1787.7.25)
江戸後期の蘭学者。名は好義,号は篤斎,はじめ三栄と称し,のちに三英に改めた。庄内(鶴岡)藩足軽組外れ弥五郎兵衛知義の次男。若いころ江戸に出て吉田長淑と馬場貞由に蘭医学と蘭語を学んだ。文政6(1823)年仙台藩に招かれ,医学館で蘭医学を教授した。同8年職を辞し,一時帰郷したが,同10年に再び出府。湊長安,次いで桂川甫賢の食客となり,勉学にいそしんだ。三英が渡辺崋山をはじめて訪ねたのは,天保2(1831)年4月16日のことである。この日の崋山の日記に「小関三英来たる。三英は出羽庄内の人,よく洋書を読み,医を業とするが,治療を好まず,唯一の楽しみは読書と飲酒である」とあり,その人柄がよくわかる。とはいえ三英も,所詮は人の子である。同3年に岸和田藩の藩医にあげられた際,早速庄内の長兄にこのことを報じ,破格の給人格に取り立てられた,と誇らしげに告げている。崋山が西洋事情の研究をはじめるに当たり,高野長英と三英に蘭書の翻訳を依頼して以来,彼らは身分を越えて親しく交わった。三英が崋山のために翻訳したもののうち訳書が伝存しているのは,プリンセンの地理書(1817)を全訳した『新撰地誌』およびフレーヴェの『教育ハンドブック』(1807)の第1篇を訳述した『鋳人書』である。ほかにニューエンホイスの『学芸辞典』の一部を翻訳したものが,崋山の『外国事情書』に引用されている。 もっとも三英は学研肌で,政治的関心が乏しかったから,崋山や長英のように,幕府の対外政策を批判するようなことはなかった。だから天保10年5月に起こった蛮社の獄の際,この疑獄を演出した目付鳥居耀蔵の訴状には,三英の名は載っていない。それにもかかわらず崋山と長英の入獄を知った三英は,いずれ司直の手が身におよぶと信じて江戸溜池の岸和田藩邸内で自殺した。長英は獄中手記の中で「元来あまりに実直小胆な生まれつきなので,ひとえに世評を信用し,はやまって自殺した」と述べているが,おそらくその通りであろう。江戸青山の竜厳寺に葬られた。<著作>『西医原病略』『泰西内科集成』『那波列翁伝』<参考文献>山川章太郎「小関三英とその書簡」(『中外医事新報』),佐藤昌介『洋学史論考』

(佐藤昌介)

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百科事典マイペディア 「小関三英」の意味・わかりやすい解説

小関三英【こせきさんえい】

江戸後期の蘭学者。名は好義。通称良蔵。号は鶴洲,あるいは篤斎(とくさい)。出羽(でわ)国鶴岡の生れ。江戸で吉田長叔(ちょうしゅく)・馬場佐十郎(さじゅうろう)に蘭学を学ぶ。コンスブルフの内科書を訳して《泰西内科集成(たいせいないかしゅうせい)》の大業をなす。1832年和泉(いずみ)国岸和田(きしわだ)藩の藩医となる。のち幕府天文方の翻訳係を勤めたころ渡辺崋山(かざん)・高野長英(ちょうえい)らの尚歯会(しょうしかい)に加わり歴史や地理を講じたが,蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)の際,崋山に《耶蘇伝(やそでん)》を口訳したことを苦にして自殺。
→関連項目尚歯会

小関三英【おぜきさんえい】

小関(こせき)三英

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改訂新版 世界大百科事典 「小関三英」の意味・わかりやすい解説

小関三英 (こせきさんえい)
生没年:1787-1839(天明7-天保10)

江戸末期の蘭学者。名は好義,号は篤斎,三英は通称。出羽庄内藩の軽輩の子で,若いころ江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,のち1832年(天保3)岸和田藩医に挙げられた。渡辺崋山と親しく,盟友の高野長英とともに崋山の蘭学研究を助けた。39年に蛮社の獄がおこると,三英は彼の身にも司直の手が及ぶことをおそれて自殺した。訳書に《泰西内科集成》《新撰地誌》等がある。
執筆者:

小関三英 (おぜきさんえい)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小関三英」の意味・わかりやすい解説

小関三英
こせきさんえい

[生]天明7(1787).出羽,庄内
[没]天保10(1839).5.23. 江戸
江戸時代後期の蘭学者,蘭方医。名は好義,また三英,号は篤斎,別に鶴州ともいう。初め江戸に出て蘭学を学び,次に長崎の P.シーボルトの門に入り,高野長英と偶然同門になって深く相交わった。のち京都に出,文政9 (1826) 年『コンスブルックの内科書』の翻訳に従事し,『泰西内科集成』を編纂,これを要約して『西醫原病略』を刊行した。天保5 (34) 年幕府の天文台翻訳係となる。三英は生来虚弱な体質で,そのうえ足疾があり,活動的ではなかったが,渡辺崋山,高野長英らの志には加担するところあり,天保 10 (39) 年崋山,長英捕えられるの報に接し,みずからに罪状の及ぶ以前に頸動脈を切って自殺した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小関三英」の解説

小関三英
こせきさんえい

1787.6.11~1839.5.17

江戸後期の蘭学者。出羽国鶴岡藩の軽輩の家に生まれる。藩校で漢学を学び,江戸にでて吉田長淑(ちょうしゅく)・馬場佐十郎に師事。1823年(文政6)仙台藩医学校教授となるが2年後辞職。のち出府し幕府医官桂川甫賢(ほけん)方に寄寓。蘭書翻訳に専念した。31年(天保2)渡辺崋山を知り,翌年岸和田藩医,35年には幕府天文方蛮書和解(ばんしょわげ)御用を命じられた。39年蛮社の獄がおきると,逮捕される前に自刃。翻訳「泰西内科集成」「卜那把盧的(ボナパルテ)戦記」「那波列翁(ナポレオン)伝初編」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小関三英」の解説

小関三英 こせき-さんえい

1787-1839 江戸時代後期の蘭学者,医師。
天明7年6月11日生まれ。吉田長淑(ちょうしゅく)に蘭学,医学をまなぶ。和泉(いずみ)岸和田藩医をへて,幕府天文方蘭書翻訳係となる。尚歯会で渡辺崋山(かざん),高野長英らとまじわる。天保(てんぽう)10年蛮社の獄に際し,自分にも罪がおよぶことをおそれ,同年5月17日自殺した。53歳。出羽(でわ)鶴岡(山形県)出身。名は貞義,好義。字(あざな)は仁里。通称ははじめ良蔵,貞吉。号は篤斎,鶴洲。訳書に「泰西内科集成」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小関三英」の解説

小関三英
こせきさんえい

1787〜1839
江戸後期の蘭学者
出羽(山形県)鶴岡の人。長崎でシーボルトに学び,『泰西 (たいせい) 内科集成』を翻訳。のち幕府の天文方阿蘭陀 (オランダ) 書籍和解御用となった。尚歯会 (しようしかい) に加わり,高野長英・渡辺崋山らが蛮社の獄で捕らえられると,連坐を恐れて自殺した。

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367日誕生日大事典 「小関三英」の解説

小関三英 (こせきさんえい)

生年月日:1787年6月11日
江戸時代後期の蘭学者
1839年没

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世界大百科事典(旧版)内の小関三英の言及

【小関三英】より

…江戸末期の蘭学者。名は好義,号は篤斎,三英は通称。出羽庄内藩の軽輩の子で,若いころ江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,のち1832年(天保3)岸和田藩医に挙げられた。渡辺崋山と親しく,盟友の高野長英とともに崋山の蘭学研究を助けた。39年に蛮社の獄がおこると,三英は彼の身にも司直の手が及ぶことをおそれて自殺した。訳書に《泰西内科集成》《新撰地誌》等がある。【佐藤 昌介】…

※「小関三英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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