小山田荘(読み)おやまだのしょう

百科事典マイペディア 「小山田荘」の意味・わかりやすい解説

小山田荘【おやまだのしょう】

武蔵国多摩郡から都筑(つづき)郡にかけて成立した荘園。現在の東京都町田市上小山田町・下小山田町が遺称地で,同所を含む一帯が荘域。のち小山田といった。平安末期の秩父重弘の子有重は小山田別当を称しており,当荘の荘官であったと考えられる。秩父氏流小山田氏は一族畠山重忠の乱後に没落。1364年関東管領上杉憲春は小山田庄内黒河郷(現川崎市麻生区)半分を〈御仁々局〉に沙汰しつけるよう加治実規に命じ,御仁々局は1367年黒河郷半分を鎌倉円覚寺黄梅(おうばい)院に寄進。1404年鎌倉府は黄梅院領の小山田保山崎郷(現町田市),同保黒河郷半分への六所宮(現府中市大国魂神社)造営段銭催促を停止。鎌倉公方足利持氏は1422年山崎郷内今井村を相模大山寺本宮(現神奈川県伊勢原市大山阿夫利神社)に寄進。このほか荘(保)内には下矢部郷(現町田市),鶴間郷(現町田市・神奈川県相模原市・大和市)などの郷が含まれていた。なお南北朝期以降に当荘に依拠した小山田氏は関東管領上杉氏の庶流である。

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改訂新版 世界大百科事典 「小山田荘」の意味・わかりやすい解説

小山田荘 (おやまだのしょう)

荘域ははっきりしないが武蔵国多摩郡から都筑郡にかけての荘園。現在の東京都町田市上小山田町,下小山田町にその名称が伝存するが,荘域はひろく町田市北半から川崎市麻生区にかけてひろがっていたとみられる。鎌倉初期の幕府御家人に,桓武平氏秩父流の小山田別当有重なる人物がいるが,有重は小山田荘の荘官であったとみられる。保元・平治の乱には参戦しなかったが,保元の乱に敗れた源為義一家が,東国に落ちのびたら頼るべき武士の一人として名があげられている。有重は源頼朝の旗揚げに際しては平家に属して在京していたので参加しなかったが,のちに御家人となった。1372年(文中1・応安5)には,小山田荘内黒河郷(現,川崎市麻生区黒川付近)半分が円覚寺塔頭黄梅院に寄進されている。〈享徳廿六年九月十日〉の日付をもつ報国寺寺領目録に,〈武州小山田保下矢部郷真光寺〉とみえる。小山田荘の具体的内容等は不明。
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