小向村(読み)こむかいむら

日本歴史地名大系 「小向村」の解説

小向村
こむかいむら

[現在地名]南部町小向

三戸村(現三戸町)の北、馬淵まべち川左岸の沖積地に位置する。南を馬淵川の支流猿辺さるべ川が東流し、馬淵川に合流する。東は沖田面おきたおもて村、西は蛇沼じやぬま(現三戸町)、南は袴田はかまだ村・川守田かわもりた(現三戸町)、北は五戸通手倉橋てぐらばし(現五戸町)に接する。

戦国時代には三戸南部氏の本拠地であったと考えられ、同氏の居城といわれる本三戸もとさんのへ(聖寿寺館)馬場ばば館が所在し、隣接する沖田面村には平良ヶ崎へらがさき館、大向おおむかい村には大向館があった。伝承のうえでは天文八年(一五三九)に居城が焼失したとされるが、それ以後居城は三戸城に移ったものとみられ、天正一八年(一五九〇)同城が正式な居城とされるに及んで本拠地としての地位を失った。

小向村
こむかいむら

[現在地名]栃尾市小向

東から南にかけて守門すもん岳が集落を背負うように連なり、北は刈谷田かりやだ川の急流を隔てて栃堀とちぼり村、西は支流幾地野いくじの川の渓流によって赤谷あかたに村と境する。南北に長く東西に短い。西向きに棚田が開かれるため日当りが悪く、守門岳の残雪が六、七月頃までのこともあった。刈谷田川の洪水や氾濫による被害を受けやすかった。永正(一五〇四―二一)頃と推定される一一月二九日付の古志長尾氏の家臣庄田内匠助宛安吉資忠書状(上杉家文書)によると「小向居」の年貢の所納はむずかしく、たとえ年貢を引いてでも年貢収納を果さねばならず、そのため「小向村田帳」を写し送り、田帳に基づいて徴収してほしいとしている。この小向村田帳は伝存する(「古文書集」所収文書)

小向村
こむかいむら

[現在地名]三郷市鷹野たかの高州たかす東町あずまちよう

樋口ひのくち村の南に位置し、西は高須たかす村、東は江戸川に臨む。金町かなまち(現東京都葛飾区)の関所辺りを大向というのに対し小向と称するようになったとされ、もとは高須村の内に含まれたという(風土記稿)元禄郷帳では小向樋口村と記されるが、貞享三年(一六八六)に関東郡代伊奈忠篤が取調べた利根川通関所之外脇渡場改覚(竹橋余筆)には小向村と樋口村が別々の村として記されている。

小向村
こむかいむら

[現在地名]椎葉村大河内おおかわうち たけ枝尾日添えだおひぞえ

小中尾こなかお村の北西の山腹に位置し、小崎こざき川を隔てて西は嶽枝尾たけのえだお村。大河内掛一六ヵ村の一つで、掛内三組のうち嶽枝尾組に属する。村内には小村として水越みずこし村・いま村・川内くうち村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として小向とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑五反余(高五斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)大河内村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(相良家文書)によれば「そてんの山」に焼畑五四枚・四町五反余があり、その年貢米一石余・代銀六一匁余。

小向村
おぶけむら

[現在地名]朝日町小向

縄生なおう村の南、東海道に沿って家が並ぶ。西方は丘陵。「神鳳鈔」に「内宮小向御園三十丁、二石七斗」と出る。室町時代にはこの地に小向庄があり、室町幕府の料所であった。江戸時代を通じ桑名藩領。延享二年(一七四五)の定法覚(「天春家文書」四日市市立図書館蔵)では、戸数五二、うち高持三三・無高一九。人数男一三六・女一三七の計二七三。

小向村
こむかいむら

[現在地名]幸区小向・小向町・小向東芝こむかいとうしば町・小向仲野こむかいなかの町・小向西こむかいにし町一―四丁目・東古市場ひがしふるいちば

東と北は多摩川に面し、南は戸手とで村に接する。西方古川ふるかわ村との境を川崎用水が通る。宮脇みやわき通・宮前みやまえ通・坊屋敷ぼうやしき高畑下たかはたしたの小字がある。天正一八年(一五九〇)八月一日、徳川家康は「小むかひ」を通って多摩川を渡り江戸へ入ったという(天正日記)。田園簿に村名がみえる。近世は初め幕府直轄領、享保二年(一七一七)江戸芝増上寺領となり、川崎宿助郷を免除された。

小向村
こむかいむら

[現在地名]小須戸町小向

信濃川右岸に立地し、横川浜よこがわはま村の南に連なる。慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)に「弐百参拾四石八斗五升 水田村 小向村」とあり、同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)には「壱斗 こんや 小向村二郎右衛門」とある。正保国絵図は二三〇石余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数三二・人数一七四とある。元禄郷帳は二三六石六斗余。文化一一年(一八一四)の小須戸組庄屋名主御役付田畑仕訳帳(桂家文書)によれば名主藤七の先祖は梅木うめのき(現新津市)の開発名主であったが、元禄一四年(一七〇一)当村に場所替えを命じられ、梅木村内の役付田畑高と村内の名主給としての役付田畑二町余・分米四石五斗余は打替えられたという。

小向村
こむかいむら

[現在地名]和田町小向

黒岩くろいわ村東部の北に位置し、西は滝原たきのはら村・上三原かみみはら村、北は上三原村。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高九五石余、うち田方五一石余。里見氏直轄領。同一一年・一五年の里見家分限帳では給人領。元和六年(一六二〇)東条藩西郷氏に与えられた。村高は四二石余(東条藩領知目録)

小向村
こむかいむら

[現在地名]窪川町小向

東又ひがしまた川と仁井田にいだ川の合流地東北にあるほぼ四角形をなす平地の村。承応年間(一六五二―五五)小倉少助によって開発され(南路志)、元禄地払帳には「柿木山村之内小向村新田」とみえ、高一三四石余。うち四一石余は貢物地、残りは小森喜八郎ら二人の知行と吉村伝丞領知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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