将軍宣下(読み)ショウグンセンゲ

デジタル大辞泉 「将軍宣下」の意味・読み・例文・類語

しょうぐん‐せんげ〔シヤウグン‐〕【将軍宣下】

朝廷宣旨せんじを下して、征夷大将軍を任命すること。建久3年(1192)源頼朝を任じた時に始まる。

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精選版 日本国語大辞典 「将軍宣下」の意味・読み・例文・類語

しょうぐん‐せんげ シャウグン‥【将軍宣下】

〘名〙 朝廷が宣旨を下して、征夷大将軍を任命すること。建久三年(一一九二)、源頼朝を任じたときにはじまり、勅使が宣旨を将軍に手渡し、将軍は宣旨の箱に砂金を入れて返すのが例であった。
※歴代皇紀(14C後か)五「東使前常陸介行顕上洛申将軍宣下事云々」

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世界大百科事典(旧版)内の将軍宣下の言及

【徳川家光】より

…この前後,かぶきの風俗が流行し,家光もこれを好んで衣装・髪・化粧に凝り,合せ鏡をしたり,市中を微行して辻斬のうわさをたてられたり,躍り(おどり)にうちこんだりしたが,忠俊の強い諫言もあって改まった。23年父とともに上洛して将軍宣下を受け,正二位内大臣,26年(寛永3)再度上洛,後水尾天皇の二条城行幸を迎え,従一位左大臣。29年には勅許紫衣(しえ)停止の幕命に背いた大徳寺の沢庵らを流刑にし(紫衣事件),朝廷に対する幕府の優位を確定し,34年の上洛を最後に幕末まで歴代将軍の上洛はなく,将軍宣下は勅使を江戸城に迎えて行うようになった。…

【徳川家康】より

…翌年閏3月五大老の一人前田利家の死後,秀吉の築いた伏見城本丸に入り,〈天下殿になられ候〉(《多聞院日記》)と評されるにいたった。この地位は1600年の関ヶ原の戦の後はますます強化されたが,なお〈世間後見〉という実力上のものにすぎず,名実ともに日本の統一的支配者となるには03年の天皇による将軍宣下が必要であった。 1605年には将軍職を秀忠に譲り,将軍が徳川氏に世襲されるべきものであることを天下に示すとともに,官位の束縛を受けない大御所として公家・寺社勢力を含めた全国支配の実権を握りつづけた。…

※「将軍宣下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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