寺村(読み)てらむら

日本歴史地名大系 「寺村」の解説

寺村
てらむら

[現在地名]交野市寺・寺一―四丁目・寺南野てらみなみの青山あおやま五丁目・向井田むかいだ一―三丁目・私部南きさべみなみ三丁目

私部村の南東、竜王りゆうおう山の北西麓から平地部にかけてを村域とし、集落は竜王山越の峡崖かいがけ道の登り口にある。村域内に寺村たつみ山・寺村南山の弥生後期の遺跡があり、竜王山頂から寺集落までの山丘尾根や山腹に後期古墳が点在、これまでに一一基が確認されている(寺古墳群)。破壊されたものが多いが、山頂の一一号墳のほか一〇号墳(鍋塚)・七号墳は比較的残存状況がよい。なお寺集落北東の低地、南川べりの丘陵地形先端に円筒埴輪が発見された南川みなみかわ古墳(前期)があったが、すでに崩壊した。さらに付近には前期末頃から中期に及ぶ車塚くるまづか古墳群があった。

寺村
てらむら

[現在地名]小田町寺村

小田川の右岸に集落が発達し、北に山を負う。川を隔ててまち村に対し、ともに小田郷の中心をなす。寺村の名称は村内に清盛せいじよう寺があるによる。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高四百七拾八石七斗三升九合 寺村 雑木山少有、茅山有、川有」とある。

戦国時代、久万大除くまおおよけ城の枝城赤岩あかいわ城があり、大除二代城主大野利直の六男東筑前守がいた。「大洲旧記」寺村の条に、この村に慶長一五年(一六一〇)六月吉日の浮穴郡大田之内清盛寺村御検地差出帳のあることを記し、

<資料は省略されています>

とあるが、現在文書の所在は不明。

寺村
てらむら

[現在地名]宮崎村寺・蝉口せみぐち

すえの谷に位置し、東は末野大谷すえのおおたに村・上野うわの村、村域内を和田わだ川が流れ、西は山地。枝村に夏虫なつむし国重くにしげがある(越前国名蹟考)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「末村」に含まれると考えられ、正保郷帳に村名がみえ、田方四六四石余・畠方一四六石余。元禄郷帳から鯖江に向かう道の北にある蝉口村が独立して記される。両村とも初め福井藩領、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、享保五年(一七二〇)再び福井藩領となるが、宝暦八年(一七五八)以降美濃国郡上藩領。

寺村
てらむら

[現在地名]蒲生町寺

綺田かばた村の西、佐久良さくら川流域に位置。集落内にある稲荷神社付近から奈良時代の軒丸瓦が出土し、方二町の寺域が想定されている。「蒲生旧趾考」では本願成就寺の跡とされ、現在は綺田廃寺とよんでいる。地名はこの寺に由来するとされる。中世には綺田庄として推移。戦国時代の在地領主は六角氏家臣寺村氏で綺田境、高藪たかやぶと称する微高地が同氏の居館跡と考えられている。江戸時代前期は幕府領、正徳元年(一七一一)遠江掛川藩領となり、寛延元年(一七四八)幕府領に復す。宝暦六年(一七五六)大坂城代井上正経領となる。

寺村
てらむら

[現在地名]夢前町寺

夢前川の支流菅生すごう川下流域左岸に位置し、西は同川を挟んで菅生澗すごうだに村。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は龍野藩領(正保郷帳)、明暦四年(一六五八)幕府領になったと思われる。享保五年(一七二〇)姫路藩預となり、延享元年(一七四四)大坂城代・出羽山形藩堀田氏領、同三年三卿の一橋領となり、幕末に至る(新版「姫路市史」など)。正保郷帳では田方二四五石余・畑方二四四石余。

寺村
てらむら

[現在地名]下郷町中妻なかづま

中妻村の南、阿賀川右岸の丘陵と山地に立地。村名は往古寺があったことに由来するといい、東の山麓に古寺ゆかりのなかさわ観音堂がある。南山御蔵入領松川組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では九九布こうぶ郷に属する。元禄八年(一六九五)の小松川五ヶ村差出帳(下郷町史資料集)に村名がみえ、高三一石余、反別田一町五反余・畑二町四反余。用水は延宝三年(一六七五)完成の飯田いいだ堰により観音かんのん川から取水した。

寺村
てらむら

[現在地名]八日市市寺町

横居よこい村の北、林田はやしだ村・岡田おかだ村の東にある。北は愛知えち川で、北西部には対岸の愛知郡いもと(現愛東町)の村地が一部食込む。村名はかつて当地にあった天台宗大蔵だいぞう寺にちなむとされる。寛永石高帳に村名がみえ、高四〇九石余、彦根藩領。集落は北部にまとまってあり、元禄八年大洞弁天寄進帳では家数四四・人数一五七(男七八・女七九)こま井は当村の愛知川縁の道木どうきから取水され、林田村・中小路なこうじ村・妙法寺みようほうじ村・村を経て小脇おわき郷へ向かうが、当村の水田は南部を西流するたか井に依存していた。明治六年(一八七三)の地券図(八日市市教育委員会蔵)では高井以北の耕地のほとんどは水田化されており、同一四年の調査でも総面積四二町三反余のうち過半の二七町七反余が田地(明治物産誌)

寺村
てらむら

[現在地名]綾部市寺町てらまち

本宮ほんぐう山の南の谷を隔てた丘陵地に位置する。綾部郷一二ヵ村の一。東は野田のだ村、西は田野たの村、南は須知山しちやま(質山)峠を経て天田郡台頭だいと(現三和町)に至る。村名の古名を「須知寺」といい(丹波志)、寛文一一年(一六七一)に寺村と改名したというが(何鹿郡誌)不詳。

寛文修正検地では高九四石余、面積は畑方が六割を占める。天保年間(一八三〇―四四)の家数三六、人数一四四(「田畑反別石高其他」沼田家文書)。佐藤信淵の「巡察記」は当村の農作について次のように述べる。

寺村
てらむら

[現在地名]西仙北町大沢郷寺おおさわごうてら

北は九升田くしようだ村、西は宿しゆく村に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に記載される大沢郷一二ヵ村のうち、桝沢はじかみさわ村・金剛寺こんごうじ村はこの地と比定される。

元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡仙北郡之内生駒主殿同権之助知行高辻帳(秋田県庁蔵)に、「高百二十五石八斗六升八合、昔ハ桝沢村 大沢寺村」とあって矢島領であった。享保一四年(一七二九)の郷村御調覚書(秋田県庁蔵)にも「正保、十二郡高帳を以見申候所ニ」として、「桝沢村、但大沢寺村之事也」と注記している。

寺村
てらむら

[現在地名]明科町南陸郷みなみりくごう 寺村

松本藩領安曇あずみ池田いけだ組の一村。小立野おだつの(現生坂村)の対岸にあり、南は荻原おぎわら村、北は小泉こいずみ村に接する。西の大穴おおあな山の山腹に真言宗の古刹泉福せんぷく寺があるところから、寺村の名が生れた。

この地は小泉村とともに古代の大穴おおあな庄の地と考えられる。天正検地の時は、安曇郡池田郷二千四〇二石余の中の一集落であったが、寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に初めて独立して、寺村七一石七斗九升七合とある。

寺村
てらむら

[現在地名]亀岡市曾我部そがべ町寺

東はたつ山、北は南条なんじよう、北西は犬飼いぬかい、西は法貴ほうき、南西はなか、南は春日部かすかべの村々。穴太あなお村より南方にさくら峠を越え、東掛とうげ村へ通じる道沿いの山麓の村落。

村内にある式内社与能よの神社の別当寺であった神宮寺跡から、奈良時代と思われる礎石や瓦が発見され、地名はこの寺の所在によるものと思われる。

寺村
てらむら

[現在地名]彦根市日夏町ひなつちよう

いずみ村の南東に位置し、朝鮮人街道が通る。慶長高辻帳に村名がみえ高一五四石余、うち九石四斗余は小物成。寛文四年(一六六四)の彦根分高帳(間島文書)によると定免で五ツ。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数二一九、うち寺社方三〇。明治七年(一八七四)泉村などと合併して日夏村となる。臨済宗妙心寺派千手せんじゆ寺・真宗大谷派安立あんりゆう寺がある。千手寺はかつて寺村村域であった荒神こうじん山北麓にあり、行基が開いたという伝承がある。江戸時代の初めには退転していたが、明暦年中(一六五五―五八)僧実酬が再興したという(江佐三郡録)

寺村
てらむら

[現在地名]三田市寺村町

三田村の東、武庫むこ川右岸に位置し、大部分は八景はつけい丘陵の山地。灌漑池が山裾に点在する農業地域。村名は金心こんしん寺の寺領であったことに由来するという。慶長国絵図に寺村とみえ、高三一四石余。正保郷帳では高六四四石。天保郷帳では高六五一石余。当村は三田藩陣屋南側のおお池の水利権をもっているが、江戸時代には陣屋守備のため寺村がどんなに干害で困っても池の水は三番樋より下の樋を抜かせなかった(喜多家文書)

寺村
てらむら

[現在地名]上越市寺

大日だいにち村の南に位置し、村内で大道だいどう用水と子安こやす用水が合流する。文明一二年(一四八〇)一二月二九日、守護上杉房定は長尾重景をして津有つあり郷寺村を春日部又四郎に返付させているが(「上杉房定奉行連署奉書」武州文書)、この寺村は当地のことであろう。戦国期(年月日欠)の高梨氏所領注文(高梨文書)にも寺村がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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