富樫氏(読み)とがしうじ

改訂新版 世界大百科事典 「富樫氏」の意味・わかりやすい解説

富樫氏 (とがしうじ)

〈とがせ〉ともいう。中世後期の加賀守護家。鎮守府将軍藤原利仁を祖とする林氏の庶流。平安時代末までに在庁官人として勢力を築き,富樫荘を本拠とする。館は野々市。林氏が木曾義仲とともに没落した後,鎌倉御家人として勢力を拡大。泰家は,奥州へ逃亡する源義経を安宅関で阻んだ人物として著名。家春,泰明は鎌倉末期に北条氏に従って活躍し,この時期以降,富樫氏の歴史は,伝説から史料の時代をむかえる。高家は1335年(建武2)初めて加賀守護職補任される。以後昌家の代に至るまで,観応の擾乱(じようらん)の際なども終始足利尊氏・義詮勢の一員として活躍。遠江,伊豆,越中等の所領も次々に獲得し,守護家としての地位の確立をめざした。

 だが南北朝・室町期を通じて,加賀守護職の地位は必ずしも安定しなかった。外様守護家であるから,いっそう歴代将軍に近侍せねばならず,そのため容易に中央の政争政変に巻き込まれることとなった。1400~10年代,守護職は一時斯波氏に与えられた。その後守護職は還付されたものの,満成と満春に二分された。嘉吉の乱後,教家・成春勢と泰高勢が,また応仁文明の乱のときには,政親勢と幸千代勢が,それぞれ国内を二分して戦った。その間一時赤松氏が半国守護に補任されたこともある。加賀には幕府財政を支える料所や五山系荘園が多く,それは国内支配権の強化に大きな壁となった。内紛や領国外出兵の軍費は一般の荘園に集中的に課せられ,1488年(長享2)の長享一揆一因をなした。政親没後,泰高が再度守護となったが,稙泰以降守護職は,本願寺・一向一揆と将軍と富樫氏の3者の意向が一致するときのみ,断続的に付与された。富樫氏はしだいに在国奉公衆と化し,1570年代初期に滅亡した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富樫氏」の意味・わかりやすい解説

富樫氏
とがしうじ

「とがせ」とも称す。室町時代の加賀守護家。鎮守府将軍利仁(としひと)を祖とする林氏の庶流。加賀国石川郡富樫庄(しょう)(金沢市)を本拠とし、平安時代末までに在庁官人(ざいちょうかんじん)富樫介(とがしのすけ)として勢力を築く。林氏が木曽義仲(きそよしなか)とともに没落したのち、勢力を拡大。泰家(やすいえ)は、源義経(みなもとのよしつね)を安宅(あたか)ノ関で阻んだ人物として著名。建武新政(けんむのしんせい)から観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)の時期にかけて終始足利尊氏(あしかがたかうじ)・義詮(よしあきら)勢として活躍。1335年(建武2)高家が初めて加賀守護の地位についた。外様(とざま)守護家たる富樫氏は、その地位の確保のため、将軍に近侍し、中央の政争・政変に巻き込まれていった。守護職はその後一時斯波(しば)氏へ渡り、15世紀初頭に還付され、満成(みつなり)と満春(みつはる)とに分けられた。嘉吉(かきつ)の乱(1441)後、教家(のりいえ)・成春(なりはる)勢と泰高(やすたか)勢とが、さらに応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱時には、政親(まさちか)勢と幸千代(こうちよ)勢とが一向衆を巻き込んで、国内を二分して戦った。その間一時赤松(あかまつ)氏が半国守護に補任(ぶにん)されもした。

 加賀には幕府財政を支える料所や五山(ござん)系荘園(しょうえん)が多い。その存在は国内支配権強化の壁となった。内紛・外征の軍費は一般荘園に集中的に課せられ、長享一揆(ちょうきょういっき)(1488)の一因となり、政親は高尾城(たこうじょう)で自害した。政親没後、守護職は泰高(やすたか)、稙泰(たねやす)へと継承されたが、16世紀初期から在国奉公衆と化し、その後歴史の表面から姿を消した。

[金龍 静]


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百科事典マイペディア 「富樫氏」の意味・わかりやすい解説

富樫氏【とがしうじ】

中世後期の加賀国守護家。〈とがせ〉ともいう。加賀富樫荘(現金沢市)を本拠とする。15世紀初頭一時守護職を斯波氏に奪われ,還付後に守護職は二分され,家督争いで分裂抗争した。応仁・文明の乱では政親(まさちか)が東軍,幸千代が西軍について国内を二分,政親が勝利するが,1488年一向一揆に攻められて自害。その後加賀での実権を事実上失い,織豊政権のころ滅亡したという。
→関連項目斎藤氏

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「富樫氏」の解説

富樫氏
とがしし

中世加賀国の豪族。鎮守府将軍藤原利仁(としひと)を始祖とする斎藤氏の支族。本拠は石川郡富樫郷(現,金沢市)。在庁官人として成長し,富樫介を称した。承久の乱後,加賀最大の武家に発展。南北朝初期,高家のときに加賀国守護となり,幕府方の武将として活躍。15世紀中頃,教家(のりいえ)が将軍足利義教の勘気にふれ,家督を泰高(やすたか)に替えられたことから家督争いが生じ,教家・泰高両派に分裂。それぞれ半国守護となったが,以後も対立抗争が絶えなかった。教家の孫政親(まさちか)は,一時期一国を統一したが,1488年(長享2)一向一揆に攻められ滅亡。泰高が名目上あとを継いだが,1574年(天正2)泰高の孫泰俊(やすとし)も一向一揆に討たれ滅亡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富樫氏」の意味・わかりやすい解説

富樫氏
とがしうじ

平安時代中期の鎮守府将軍藤原利仁の一流と伝えられ,加賀国石川郡富樫郷に住した豪族。室町時代初期,加賀守護に任じ,以後栄えたが,室町時代中期に家督争いから成春,泰高に分裂しそれぞれ半国守護となる。成春の子政親は一向一揆と戦って敗れ,泰高も国人に攻められ,富樫氏は滅亡。

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世界大百科事典(旧版)内の富樫氏の言及

【富樫氏】より

…泰家は,奥州へ逃亡する源義経を安宅関で阻んだ人物として著名。家春,泰明は鎌倉末期に北条氏に従って活躍し,この時期以降,富樫氏の歴史は,伝説から史料の時代をむかえる。高家は1335年(建武2)初めて加賀守護職に補任される。…

【応仁・文明の乱】より

…室町時代末期にあたる1467‐77年(応仁1‐文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】

[家督争い]
 乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。…

【加賀国】より

…鎌倉期の荘郷地頭のほとんどは得宗家,名越氏,結城氏,摂津氏などの東国御家人であり,とくに承久の乱後に新補された外来地頭がめだっている。承久の乱後,地元領主のなかで有力化したのは加賀斎藤一門の富樫(とがし)氏であるが,鎌倉期には守護職入手の機会は得られなかった。鎌倉末期の流通経済の支配者は,守護北条氏や有力地元領主富樫氏よりもむしろ白山宮加賀馬場本宮であり,特産の紺布,酒,油などの流通機能は本宮衆徒が掌握していた。…

※「富樫氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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