寄合(読み)よりあい

精選版 日本国語大辞典 「寄合」の意味・読み・例文・類語

より‐あい ‥あひ【寄合】

〘名〙
① 互いに近づくこと。近づき接すること。また、そのところ。
※万葉(8C後)二・一六七「葦原の 瑞穂の国を 天地の 依相(よりあひ)の極み 知らしめす 神の命と」
② 人が集まること。同じ資格の人々が、目的を持って集まること。朝廷や幕府で合議のために担当の職員が集まること。あるいは村落で村民が集会して決議すること。また、そのような集まり。寄(より)
※吾妻鏡‐宝治元年(1247)六月二六日「今日内内有御寄合事
江戸時代、旗本のうち祿高三千石以上で非職の者。若年寄の支配下にあり、寄合肝煎(きもいり)が監督した。寄合衆
※禁令考‐前集・第三・巻二九・享保七年(1722)四月「出火之節屋敷々見廻之儀被仰渡候 寄合 村瀬伊左衛門」
④ 連歌や俳諧の付合で、前句のことばや物と縁のあること。たとえば松に鶴、雁に便りなど。より。
※連理秘抄(1349)「言葉あくまで優しく、よりあひすくなく、するするとすべし」
⑤ 親戚をいう。〔日葡辞書(1603‐04)〕
⑥ 相撲で、互いに四つ身に組み、自分の体を相手に密着させて押し合うこと。

よせ‐あわ・せる ‥あはせる【寄合】

[1] 〘自サ下一〙 よせあは・す 〘自サ下二〙
① 近づいて攻撃をしかける。また、互いに攻撃する。
※平家(13C前)七「さる程に、源平両方陣をあはす。陣のあはひわづかに三町ばかりによせあはせたり」
② 出あう。出くわす。
※虎明本狂言・磁石(室町末‐近世初)「あんのことく人うりによせあわせた」
③ 雌雄が番(つが)う。また、男女が情を通じる。
史記抄(1477)五「呂不韋が古きずを起して太后とよせあはするぞ」
[2] 〘他サ下一〙 よせあは・す 〘他サ下二〙 寄せて一つに合わせる。寄せ集める。寄せ合わす。
※咄本・醒睡笑(1628)六「大児と小児と額を寄せ合はせ」

よせ‐あわ・す ‥あはす【寄合】

[1] 〘自他サ下二〙 ⇒よせあわせる(寄合)
[2] 〘自サ四〙 めぐりあう。出くわす。出あわす。
※虎寛本狂言・宗論(室町末‐近世初)「例の精強者によせ合いた、何と致う」
[3] 〘他サ五(四)〙 =よせあわせる(寄合)(二)
※虎寛本狂言・八句連歌(室町末‐近世初)「宿におらいで悲しう御座るに、又唯今是で御目に掛って嬉しさに、夫を寄せ合いてうれしがなしいと申まして御座る」

より‐あ・う ‥あふ【寄合】

〘自ワ五(ハ四)〙
① 互いに寄る。寄り集まる。集合する。参集する。
※万葉(8C後)一一・二三五一「新室の壁草刈りに坐し給はね 草のごと依逢(よりあふ)少女は君がまにまに」
② 夫婦になる。〔日葡辞書(1603‐04)〕

より‐あわ・す ‥あはす【寄合】

〘他サ下二〙 寄り集まるようにする。
※今鏡(1170)九「おなじやうにおいたるものとふたり、ごうちて、哥うたふ様によりあはせて、大方聞きも入れす」

よせ‐あわせ ‥あはせ【寄合】

〘名〙 寄せ合わせること。寄せ集めること。

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デジタル大辞泉 「寄合」の意味・読み・例文・類語

より‐あい〔‐あひ〕【寄(り)合(い)】

人が集まること。ある目的をもって集まること。また、その集まり。会合。集会。「同業者の寄り合いがある」
種々雑多なものの集まり。「寄り合い世帯」
相撲で、双方の力士がたがいに寄ること。
中世・近世の郷村で、農民の自治的会合。祭礼や入会いりあい、年貢の割り付けのことなどを相談した。
江戸時代、旗本で3千石以上の無役の者の称。若年寄の支配下にあり、寄合肝煎きもいりが監督した。
連歌・俳諧の付合つけあいで、前句の中の言葉や物に縁のあるもの。例えば、松に鶴、梅にうぐいすなど。
[類語](1)(4会合会議集会集まりミーティング座談会集いまどい団欒協議評議商議審議合議会談話し合い討論相談打ち合わせ討議謀議密議衆議シンポジウムディスカッションパネルディスカッションフォーラムフォーラムディスカッションディベート

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改訂新版 世界大百科事典 「寄合」の意味・わかりやすい解説

寄合 (よりあい)

ものごとを協議するために会合すること。人が出会ったり,集まることを寄り合うとか寄合ということは古くからの表現であるが,社会的に重要な意味をもつようになるのは中世以降のことと考えられる。寄合とは原則として同じ資格をもつ者が,同一目的のために集会することをいい,政治の集会,連歌や俳諧など趣味を同じくする人の会合から,惣村,惣町での村人(),町衆の集会まで寄合といった。政治史的には朝廷や鎌倉幕府室町幕府江戸幕府における,合議のための関係人員の集合を寄合といい,その人員を寄合衆といった。惣村,惣町における寄合には掟があった。近江国蒲生郡得珍保(とくちんのほ)今堀郷の1556年(弘治2)の村寄合で決定された条項の中に〈新座之者,惣並之異(意)見きんせひ事〉とあり,新しく寄合に参加した者が,従来から参加している者と同等の意見を述べることを禁止しているように,座寄合の掟は新参の者の発言に制限を加えている。惣町でも,1587年(天正15)の京都立売組14町の町内連合は,寄合について〈於御寄合等ニ其町内ニ而,可然御仁躰御出したるべき事〉と各町内の寄合出席を義務づけており,今堀郷では1448年(文安5)に〈寄合ふれ二度に出でざる人は,五十文の咎たるべきものなり〉と村寄合出席を厳重に通達している。町(ちよう),村の自治の基礎は寄合での合議,決定にあるから,自治的な秩序を維持するためには,寄合への出席が重視された。寄合への出席を拒否されることは,町衆,村人の権限を停止され,地域共同体から疎外されることを意味する。中世末期から江戸時代を通じて,京都の町内では寄合の際〈町汁(ちようじる)〉といわれる簡単な菜飯が出席者に提供された。寄合は座,一座と表現される場合もあり,集会によって共同意志の確認と運用の機能を果たすのである。
執筆者:

都市における公私の会合は参会ともいわれた。町支配に際し,町奉行や町役人が集まり協議を行うものが公的寄合である。江戸の場合には,複数の町奉行が幕府の評定所に出仕して会合するものを寄合と称したらしい。このため,町奉行どうしが月番の奉行役宅で協議を行うことを〈内寄合〉として区別していた。町々には奉行所に協力し,市中の治安維持にあたる〈手先(下引)〉と称する者がいたが,彼らが情報の収集を行ったり,奉行所からの通達の連絡,容疑者の取調べなどをする会所があった。この会所には市中の茶屋が定められており,〈寄合茶屋〉といわれている。町役人が集まる寄合も必要に応じて開かれた。しかし,しだいにその費用を町人に負担させたり,酒食を出させるような傾向が生じている。たとえば1790年(寛政2)江戸の町名主の取締機関として名主(なぬし),肝煎(きもいり)47名が任命されたが,その申合せに,肝煎仲間の寄合に際しては各自で費用を出し酒菓子などは用いないこと,仲間宅での会合でも茶,タバコのほかは出さないこと,寄合は朝10時に開き,遅くとも午後4時には終了すること,などを定めている。

 私的な寄合としては,町人の仲間・組合の寄合がある。これには商人や職人の全体集会もあれば,代表である行事たちの集りもあった。商人や職人仲間の集会は,仲間の結束を固めるとともに,各種規定の改変などのために必要であった。とくに,大工,左官,木挽(こびき)など建築関係の職人たちは〈太子講〉という講の組織のもとで,強い結束を保持していた。太子講の寄合は例年正月ないし2月に行われ,各組別に棟梁たちが集まる場合と,各組の棟梁の全員の集会とがあった。江戸の木挽仲間の例をみると,例年正月22日に各組の全棟梁と年寄が茶屋に集合し,さらに26日に各組別の集会が行われている。前者を〈大寄合〉と呼んでいるが,この集会の重要議題は,その年の挽賃を定めることであった。大寄合で基本方針が決まると各組別の寄合で確認されたのち,棟梁の代表が材木屋大行事の寄合へ出席し,賃上げの要求をしている。寄合は仲間内の紛争の調停や各種の取決めの確認の役割も果たしたのである。寄合に要する費用には座敷代,食事代,茶代,筆墨紙代,ろうそく代,炭代などの経費があるが,会の終了後各自に分割された。江戸の小間物問屋の例にみられるように芸者などを呼ぶ場合もあった。こうした集会の場として,繁華地の水茶屋や料理茶屋が発達した。このほか,江戸では諸大名の江戸屋敷に置かれた留守居役(聞番(ぶんばん))が常時寄合を開き,相互の情報交換を行っている。この費用は多額であり,大名の財政を圧迫するほどであった。このように寄合は,都市においては公私ともに情報交換の場としても重要な意味をもっていた。
執筆者:

中世における惣村の発達に伴って,自分たちの集会を寄合と呼び,村落の運営について種々協議し,掟を決めることが盛んになった。近世の村においてもしばしば村寄合は開かれ,自分たちの問題を協議したが,それに加えて名主,庄屋を通して領主側からの命令を言い聞かされ,それに対し順守することを誓う請書を作成することが重要な機能となった。明治以降も市町村の行政の末端部で上意下達の場として,また行政に対する地域の意志をまとめる場として利用されてきた。村落の構成単位は家を基本とするので,寄合は各家より1人ずつ,原則として世帯主の出席によって開催されたが,村落の存亡にかかわるような特別な事項を協議するための寄合のときには,村落の成人男子全員が集まることもあった。

 寄合は名主,庄屋あるいは区長などの村役人や役職者の家を会場とすることが多かったが,近畿地方では古くから会所(かいしよ)とか会議所と呼ばれる施設が設けられていた。会所はしばしば村の鎮守の境内にあり,神前でものごとを決める伝統をうかがわせる。寄合と神仏の関係を示す会場としては東海地方の神社境内の庁屋(ちようや)や関東地方の寮(りよう)(仏堂)がある。また寺の本堂が使用されることも少なくなかった。第2次大戦後は公民館が全国的に設置され,寄合もそこで開かれることが一般化した。寄合の席次はその地域の社会構造によってさまざまであるが,家を代表する列席者という考えが強く,家格や家柄意識の強固な所では,家として寄合の席が固定していることが多い。家格の高い家や旧家が上席に座り,分家や新しい転入者が下座に座り,その席次は超世代的に継承される。それに対し,年齢階梯制が顕著に発達している所では,年齢順に着席することが一般化している。近年ではそのような伝統的な座順は不明確になってきており,役職者を中央に,他の者は到着順に任意に座るというのが普通になっている。その場合,上座に座るのは政治的発言権や威信のある者という傾向は見られる。

 寄合では役職者の司会で議事が進行し,議論を経たのち結論を出すが,その決定方法については多くが全会一致制をとっている。全会一致といっても,列席者各人に拒否権を認めるような厳密なものではない。司会者が全体の意見をまとめるかたちで結論を出し,それに対し特別に異議を唱える者がなければ全会一致とする形式である。したがって,投票とか挙手という方式はほとんど採用されてこなかった。これは,村落内の対立や矛盾を顕在化させずに,有力者層の意志を全体の意志として決めて地域の平和を維持する方法といえる。しかし,日本の寄合に多数決の議決の伝統がまったくなかったわけではない。惣の掟に〈諸事申合せ候儀,多分に付くべき事〉(近江今堀,1590年)とか〈いかやうにも多分ニ付キ,談合仕るべく候事〉(近江宇治河原,1605年)と表現されているように,多数決が採用されていた。しかし,近世以降は多数決で決定する機会は少なくなり,第2次大戦に至った。近年は住民意識の高まりとともに,寄合においても多数決や投票などの方式が制度化され,実施されることが多くなったが,出席者が各世帯の代表1人で,投票が各世帯1票という原則は相変わらず強固に存続している。
執筆者:

寄合と文芸との結びつきは宗教行事を媒介とするものであろうが,連歌作者の文芸的連帯感と,講衆の宗教的連帯感は相互に深め合ったと考えられる。俳諧の〈〉も寄合の一種であり,精神共同体としての性格を帯びていた。この性格は,連衆心を尊んだ芭蕉ら蕉風俳諧の座に最も著しい。寄合の語には,このほか次のような狭義の2義がある。(1)独吟に対して,複数の作者が寄り合ってする連歌,俳諧を指す。(2)連歌,俳諧の付物(つけもの)(付詞(つけことば))のうち,梅に鶯,紅葉に鹿のごとく,その関係が詩歌,故事,来歴などによって広く知れわたっていることば。寄合のことばを集めた書に《連珠合璧(れんじゆがつぺき)》などがある。
執筆者:

寄合 (よりあい)

江戸時代の旗本で,番方・役方に就かない者の呼称。享保期(1716-36)に禄高3000石以上は寄合,それ以下は小普請組として再編成された。100石につき2両の小普請金上納が通常の義務であったが,江戸城門・中川番所の警衛,駿府加番,御法事勤番,日光御門主差添,火事場見廻りなどを命ぜられることがあり,その場合は小普請金を免除された。1790年(寛政2)に寄合肝煎を置き,寄合の文武・行儀作法を取り締まらせた。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寄合」の意味・わかりやすい解説

寄合
よりあい

人々の会合や、その場所に出席できる家格・身分をいう。一般には近世の村寄合がよく知られている。村寄合は中世の惣(そう)寄合の発展したもので、村役人を中心に組織され、村落共同体の運営上必要とされる共同労働や用水・入会(いりあい)利用の配分、祭礼行事の執行、村極(むらぎめ)などを決定した近世的自治機関である。また年貢・夫役(ぶやく)の割掛けなども村寄合で相談されることもあり、幕藩領主支配の末端を担った。村寄合は名主の私宅や寺社などで開催されたが、参加資格は本百姓を中心とした。近世後期には水呑(みずのみ)百姓の参加が認められることもあったが、村内の家格によって着座の順が定まり、発言・決定などもこうした序列が重んじられた。

 江戸幕府では、3000石以上の旗本で無役の者を寄合といい、若年寄(わかどしより)支配であった。なお交替寄合は、1万石未満でも譜代(ふだい)大名なみの待遇を受けて参勤交代の義務を負い、老中支配に属した。

[白川部達夫]

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百科事典マイペディア 「寄合」の意味・わかりやすい解説

寄合【よりあい】

(1)室町中期以降,郷村制の発達した畿内農村の会合。惣(そう)の合議・決定機関で,そこで役員を選び,掟(おきて)を定め諸事項を決定,自主的に運営された。江戸時代の農村にも残った。(2)江戸時代,役職についていない3000石以上の旗本の組。柳間(やなぎのま)詰で,年始・八朔(はっさく)・五節供・月次(つきなみ)に登城。100石につき2両の役金を上納。→小普請交代寄合
→関連項目奥医師荘家の一揆定火消

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寄合」の意味・わかりやすい解説

寄合
よりあい

(1) 中世封建社会で,惣に付随するものとして設けられた合議機関で,一般には村寄合に代表される (→郷村制 ) 。 (2) 鎌倉幕府の職制の一部で,執権邸における重臣 (評定衆のうち得宗の一族および被官 ) の会議のこと。 (3) 江戸幕府では旗本のうち 3000石以上ないし布衣以上の者で,役職についていない者の総称として用いられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「寄合」の解説

寄合
よりあい

①人びとが集まり相談すること
南北朝時代以降,惣 (そう) が発達し,寄合は有力名主(乙名 (おとな) ・年寄など)を中心とした自治的決議機関となる。戦国末の自治的都市でも同様。江戸時代,私的寄合は禁止され,庄屋の役宅で本百姓以上が集まり行事・年貢割当てなどを行ったが主として伝達機関となった。のち水呑百姓も参加。また真宗教団では布教の足場として寄合を奨励した。
②江戸時代,3000石以上の旗本のうち,無役の者。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寄合」の解説

寄合
よりあい

鎌倉幕府の合議体のうち,得宗の私邸で開催された秘密会議。北条時頼時代の私的秘密会議に源を発し,やがて制度的に整備され,幕府制度として位置づけられた。審議内容は,人事などの重要案件にわたり,本来の最高議決機関である評定(ひょうじょう)の上位に位置。構成員は寄合衆とよばれた。

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世界大百科事典(旧版)内の寄合の言及

【鎌倉幕府】より

…こうして摂家将軍にかわり親王将軍が登場したが,その結果,鎌倉殿はいっそう名目的なものとなった。得宗が一部の要人や御内人を集めて行う私的な寄合(よりあい)が,評定衆の正式の評議にかわって実質的な政務審議機関となり,評定衆は形骸化し,公的な執権よりも私的な得宗の地位の方が,政治上は重要となった。得宗専制の強化に伴い,得宗や御内人に対する御家人の不満は強まったが,85年の弘安合戦では,御家人の期待をになった安達泰盛をはじめ,多数の御家人が滅ぼされ,ここに御家人に対する得宗の専制が確立した。…

【共食】より

…神と人とが同じ食物を味わうことによって,両者の親密を強め,生活安泰の保証を得ようとするものである。神人共食の儀礼は人間どうしの共食の風にもおよび,村運営のための寄合その他各種集会にも共同飲食がおこなわれる。〈一味同心〉といい,同じ飲食物をともに味わうことによって親密感を増し,心を一にして共同体的結合を強化しようとするもので,中世郷村制成立期の惣村・郷村における茶寄合もその一つである。…

【中世社会】より

…集団の内部規範である村法を定め,村の秩序維持のため地下(じげ)検断をも行使した。これら村落は,沙汰人(さたにん)・番頭(ばんとう)などとよばれる有力農民によって実質的に指導されたが,村の意志決定は,村落民全員の集会である寄合で決定された。その構成は年齢階梯制をとるものも多く,〈百姓の習は一味〉と主張されたように,ヨコ型結合の原理が強くはたらいていた。…

【付合】より

…連歌・俳諧用語。〈寄合(よりあい)〉と同義に用いることもあるが,普通には17音節(5・7・5)の長句と14音節(7・7)の短句を,ことば,意味,情趣などを契機として付け合わせたもの,また交互に付け連ねることをいう。付合の集積によって成立した連句文芸では,発句(ほつく)以外の句をすべて付句(つけく)と呼ぶが,2句一章の最小単位では,付けられる句を前句,付ける句を付句と称する。…

【日待】より

…集りの日取りにより,甲子待(きのえねまち),庚申待(こうしんまち)などと称しているが,十九夜待,二十三夜待,二十六夜待などは月の出を拝む行事で,日待と区別して月待と呼ぶ。自治的な村の運営の相談をするような村の寄合を日待と称していた地方もある。この種の日待は,旧暦1,5,9月の15日前後に行う例が多い。…

【評定所】より

…構成員の中心は寺社,町,勘定の三奉行で,これに大目付,目付が審理に加わり,勘定所からの出向者を主とする留役(とめやく)(書記)が実務を担当した。初期には老中も出席したが,1660年代(寛文年間)ごろに寄合(会議)が式日(しきじつ),立合,内寄合(うちよりあい)の3種に分かれて,老中は式日にのみ出座することになり,さらに1720年(享保5)からは月1回出座となった。また側(そば)用人,側衆あるいは江戸出府中の所司代や遠国(おんごく)奉行が評席に参列することもあった。…

【本百姓】より

… 近世初頭において,高請農民として領主に掌握されながらも役負百姓の庇護下にあった半隷属的小農は,17世紀前半期の農業生産力の発展を基礎にして自立的な百姓に成長し,17世紀末ごろには小農村落を形成してその構成員となる。高持百姓の資格において年貢負担者になると同時に,村入用の負担者にもなり,村の寄合(よりあい)に列序して用水,林野の共同利用と共同管理に参画する。無高のものは原則として,このような権利・義務関係の外部におかれている。…

【御内人】より

…また泰時の所領を管理する得宗公文所なる機構が設けられて,御内人がその運営にあたった。この後,北条氏の家督である得宗とその被官とは強いきずなで結ばれ,得宗邸には得宗を中心に一族,御内人が集まって寄合(よりあい)という私的な会合を開き,そこで幕府の事実上の政治的決定を行った。ここに御内人の地位は一躍上昇し,御内人筆頭の得宗家の家令は内管領(うちかんれい)と呼ばれて強力な権限を握り,評定衆以下の幕府の人事をも左右した。…

【小普請】より

…江戸時代の旗本,御家人で老幼,疾病や処罰などにより無役の3000石以下のもの。3000石以上の旗本は寄合に編入された。はじめ留守居支配に属し,1719年(享保4)から老中支配のもとに小普請支配が置かれ,これに属した。…

※「寄合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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