宮津(読み)みやづ

精選版 日本国語大辞典 「宮津」の意味・読み・例文・類語

みやづ【宮津】

京都府北西部の地名若狭湾支湾の宮津湾に面する。天然の良港をもち、江戸時代本庄氏城下町、西回り航路寄港地として栄えた。名勝「天の橋立」があり、沿岸部は若狭湾国定公園の一部。昭和二九年(一九五四市制

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デジタル大辞泉 「宮津」の意味・読み・例文・類語

みやづ【宮津】

京都府北西部、若狭湾に臨む市。もと京極・本庄氏らの城下町、西廻り航路の寄航地として栄えた。繊維水産加工業が盛ん。天橋立あまのはしだてがある。人口2.0万(2010)。

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百科事典マイペディア 「宮津」の意味・わかりやすい解説

宮津【みやづ】

丹後国与謝(よさ)郡の宮津湾に面する城下町。現京都府宮津市の市街地部にあたる。近世に宮津城下となった地域は古代の宮津郷(《和名抄》),中世の宮津荘の一部で,一色氏の支配下にあった。1580年細川藤孝(幽斎)・細川忠興(ただおき)父子が織田信長から丹後を与えられて宮津に入部,八幡山城に入ったが,ただちに宮津平地部での新城(宮津城)築城の許可を求め許された。また藤孝の隠居城として別に田辺(現京都府舞鶴市)に城を築造している。忠興の宮津城は1600年に関ヶ原の戦に関連して大坂(豊臣)方の攻撃を受けた際,自焼したと伝え,正確な場所や城下町形成の様子は不明である。同年細川氏は関ヶ原の戦功により豊前中津(なかつ)へ転封,そのあとは京極高知が丹後一国を領した。1622年高知が没して遺領が3子に分与され,宮津は嫡子高広が引き継ぎ,宮津藩(7万8200石)を立藩した。高広没後は高国が継ぐが1666年改易となり,以後幕府領を経て永井氏2代(7万3600石),阿部正邦(9万9000石),奥平昌成(9万石),青山氏2代(4万8000石)と藩主が交替,1758年入封の松平(本庄)氏(7万石)でようやく安定,同氏7代で廃藩置県を迎えた。江戸時代の宮津城及び城下町は京極高広によってほぼ完成された。京極氏は築城に際し資材を田辺から運ぶとともに,職人・町人の多くを宮津城下へ移したと伝え,後世〈田辺越し〉〈宮津越え〉などの語を生んだ。城下は大手川(宮津川)を挟んで2地区に分かれ,東部は本丸,二の丸,三の丸,家中屋敷がほとんどを占め,町家はわずかである。西部は町家と家中屋敷が混在する。家中屋敷のうち足軽長屋は周辺部に分散していた。町家地は6つの幹(みき)町とその町〈分〉と称するいくつかの枝町から構成されていて(町家全体を惣町と称する),各幹町には町年寄(当初1−2名,のち1名)が置かれた。町家の支配は町奉行の指図を受ける複数の年寄(のち名主)と組頭五人組5組に1名)によって行われた。1703年(奥平氏時代)の惣町中家数は1169,1718年(青山氏時代)には家中を含む家数・人数は1917軒・7231人,幕末の家数は町家1760,出家17,社家6,家中833,人口は町家6168,出家67,社家25,家中3346。宮津は天然の良港で,西廻航路西廻海運)の商船や諸藩の江戸廻米の船が寄港して盛況を呈した。また漁業も盛んで京極氏の城下形成時にすでに〈猟師町〉が成立,城下周辺の在方にも猟師町が散在していた。藩では城下に魚納屋を置き,領内の漁獲物いっさいを集荷統制していた。古くから鍛冶屋が多かったことも特徴で,宮津城下は〈鍛冶・猟師両村〉を取り潰した地であるという(《宮津日記》)。1718年には鍛冶屋32軒を数えた。江戸時代中ころからは紺屋(こうや)が急速にふえ,1718年には156軒あった。次いで(はた)織が盛んになり,1820年代には縮緬(ちりめん)機屋およそ230戸,下職工600戸に達した。その後衰退傾向を示すが,幕末ころにも機数1000台を数えた。1889年旧城下地域は宮津町となり,1954年宮津市となる。
→関連項目郡上藩

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改訂新版 世界大百科事典 「宮津」の意味・わかりやすい解説

宮津[市] (みやづ)

京都府北部,若狭湾に面する市。1954年市制。人口1万9948(2010)。若狭湾西端の宮津湾をはさんで市域が広がり,天橋立が南北に分かれた市域を結んでいる。中心市街は宮津湾の湾奥にあり,織豊期に細川氏,江戸初期に京極氏が築城して,城下町として栄えた。現在も城下町のおもかげがよく残る。西廻海運の港町としてもにぎわい,〈二度と行くまい丹後の宮津,縞の財布がからになる〉とうたわれた。藩の奨励もあって江戸時代は縮緬(ちりめん)機業が発展したが,現在はメリヤス,化学繊維などの繊維工業や水産加工業が行われる。天橋立北方,成相(なりあい)山のふもとには西国三十三所28番札所の成相寺がある。国分には丹後国分寺跡(史),大垣には丹後一宮とされた籠(この)神社があり,府中と呼ばれるこの一帯は古代丹後国府の所在地と考えられている。天橋立の南の文珠(もんじゆ)には〈九世戸(くせど)の文殊〉として信仰された智恩寺がある。海岸部の多くは若狭湾国定公園に含まれる。北近畿タンゴ鉄道宮津線,国道178号線が通じるが,市域北部の山間地域では過疎化が進む。
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宮津は古代より運輸・交通の要地で,地名は平城宮跡出土木簡に〈宮津郷烏賊二斤〉とみえるのが初見。中世には長講堂領宮津荘があった。守護一色氏を下して1580年(天正8)丹後を平定した細川氏は,宮津に入り築城と城下町建設に着手した。1622年(元和8)宮津7万8200石を襲封した京極高広が本格的な工事を進め,宮津川以東に城郭と武家屋敷,以西に武家屋敷や町屋を配置して町割りを完成した。町屋は本町,魚屋町,万町,職人町,白柏(しらかせ)町,川向町の6町を幹に町組を構成した。1759年(宝暦9)入部した本庄(松平)氏時代には1町組に町名主1名,そのもとにそれぞれ10名余の組頭が設けられた。宮津藩は藩主の交替が激しく石高もさまざまであったが,1803年(享和3)には町屋家数1917軒,人数7231人(《丹後宮津誌》)で,これに武家人口約3000人とすると1万人程度の城下町であったと考えられる。港町としても栄えた文化年間(1804-18)より遊廓も許可された。陸上には領内に通じる3本の主要街道(宮津道)が発達した。
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世界大百科事典(旧版)内の宮津の言及

【大矢野島】より

…島ではミカン,花卉,牧草を栽培,乳牛,肉用牛を飼育し,沿岸の入江では真珠,ハマチ,タイ,クルマエビ,ワカメの養殖漁業が盛ん。城本(しろもと)の丘は元寇で勇名をはせた天草五人衆の一人大矢野氏の居城跡,宮津は島原の乱の総帥天草四郎時貞ゆかりの地で銅像が立つ。1966年天草五橋が開通し,宇土半島,天草上島と結ばれ,75年千束蔵々島(維和島),80年野釜島との架橋も完成し,76年本土の氷川ダム(八代郡)からの上水道が八代海を経て引かれた。…

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