宮沢渡戸(読み)みやざわわたど

日本歴史地名大系 「宮沢渡戸」の解説

宮沢渡戸
みやざわわたど

根岸ねぎし村の宮沢から仙台城下に入る渡しで、「封内風土記」にいう三渡戸の一。ほかは牛越うしごえ渡戸・こめふくろ渡戸。現宮沢橋の約五〇メートル上流で、城下内に属した。近世初期、奥州街道から城下に入る渡しは、宮沢からふな丁に至る当渡が主で、開府当初からあったとされる(仙台市史)。この下流では文治五年(一一八九)の奥州合戦のとき大激戦が行われ、同地によろい淵の名が残る。「残月台本荒萩」には宮沢の青竜山宗禅そうぜん寺の北裏にあったが今は廃止とあり、「奥陽名数」が数える三渡戸も牛越・誓願寺せいがんじ・米ヶ袋で、当渡戸は中絶していることが知られる。城下の南材木みなみざいもく町や河原かわら町が割出されるにつれ、正保仙台城絵図にみえる長町ながまち(のちに長町橋)が利用されるようになり、廃れたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報