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中国革命の協力者。明治3年12月3日、熊本県荒尾の郷士の家に生まれる。本名寅(虎)蔵。西南戦争で西郷軍に加わって戦死した熊本民権党の八郎、土地復権同志会の民蔵(たみぞう)、「支那(しな)革命」主義者の弥蔵(やぞう)を兄にもち、気丈な母に育てられた。徳富蘇峰(とくとみそほう)の大江義塾に学んだが、1886年(明治19)出京、東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)に学びキリスト教に入信。長崎のミッションスクールに転学後、スウェーデン籍の老無政府主義者イサク・アブラハムに感化されて棄教。弥蔵の影響で中国革命運動援助を志す。亡命中の孫文と知り合い、終生親交を結び、日本での活動を援助した。1900年(明治33)10月、孫文は2回目の挙兵を決行したが失敗した(恵州事件)。その際、滔天は武器調達に奔走したが、代議士中村弥六の背任によって不成功に終わり、日本人同志間の内訌(ないこう)から浪曲師へ転身、「落花の歌」などを演じた。02年に半生の自叙伝『三十三年の夢』を刊行、日本のみならず中国にも多数の愛読者を得た。05年の中国同盟会設立にも尽力。その後同志と発行した雑誌『革命評論』(1906~07)で世論の喚起に努め、中国人留学生の援助などを訴えた。晩年は『上海(シャンハイ)日日新聞』での文筆活動に従事したが不遇であった。大正11年12月6日、51歳で病没。竜介(りゅうすけ)は長男。
[滝澤民夫]
『宮崎龍介他編『宮崎滔天全集』全5巻(1971~76・平凡社)』
(上村希美雄)
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…主として軍事学を学ぶとともに,軍国民教育会等の反清革命組織を結成し,翌年長沙に帰って華興会,同仇会(会党との連絡組織)を組織した。04年,蜂起に失敗して日本に逃げ,宮崎滔天にめぐりあった。翌年,滔天を介して来日した孫文と対面し,協力して中国同盟会を創立,ナンバー2の地位に就いた。…
…孫文はまた,会党の哥老会,三合会を糾合して興漢会を作り,戦力強化をはかった。05年8月,宮崎滔天の斡旋で孫文と黄興の握手が実現し,興中会も,中国同盟会へと発展的解消をとげた。【藤本 博生】。…
…岡倉天心は,汚辱に満ちたアジアが本性に立ち戻る姿を〈アジアは一つ〉と言い表し,美の破壊者としての西欧的なものを排斥すべきものとした。宮崎滔天は,終始一貫した同情と犠牲的精神をもって中国の革命に尽力した。 しかし,このようにさまざまな側面をもっていた大アジア主義も,自由民権の衰退,国家機構の整備,清やロシアに対する軍備拡張の過程でしだいにアジアへの侵略へと収斂(しゆうれん)されていった。…
…やがて大勢は,侵略に抵抗するための侵略,という大義名分に滔々として流れてゆく。だが中国の生れ変わりに協力し,中国を真に強くすることによって連帯を実現しようとした宮崎滔天のような人も,やはりいたのである。 要するに中国は日本にとって,愛憎二面的な対象である。…
…号は白浪庵滔天(とうてん)。宮崎滔天の呼称でも知られる。父は郷士の長蔵,母は佐喜,長兄は八郎,ほかに民蔵・弥蔵の兄がいる。…
※「宮崎滔天」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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