日本大百科全書(ニッポニカ) 「室戸台風」の意味・わかりやすい解説
室戸台風
むろとたいふう
高知県室戸岬付近に上陸した二つの超大型台風のことをさす。二つとは、第一室戸台風(1934年襲来)と第二室戸台風(1961年襲来)であるが、一般的にただ「室戸台風」とのみよぶ場合は、第一室戸台風のことをいう。
〔1〕第一室戸台風 1934年(昭和9)9月21日、高知県室戸岬付近に上陸して、四国から近畿地方を中心に激しい暴風雨と高潮をもたらした台風。速度が速く21日5時ごろ室戸岬に上陸後、近畿・北陸・東北地方を通って同日18時には三陸沖へ抜けた。名前の由来となった室戸岬では911.9ヘクトパスカルという記録的な最低気圧を観測した。関東地方などでは高潮のことを「津波」「風津波(地震津波や山津波に対応する呼称)」などとよんでいたが、室戸台風以降「高潮」ということばが全国的に広まり定着した。台風の中心が通過した地方では高潮が発生し、とくに大阪湾一帯がもっとも激しく、平均海面を4メートル超えた。台風中心付近と南東側を中心として風の被害も甚だしく、学校校舎が全国で約300校倒壊し多数の教師や生徒の死傷者を出している。被害にあった児童・職員の大部分は、登校途中か登校後で校舎内や近くにおり、児童を迎えに学校を訪れた保護者たちも倒壊に巻き込まれた。また台風の北西側、とくに高知・大分・岡山・鳥取の各県では水害が多かった。これら暴風雨と高潮による被害は大阪府がもっとも大きく、近畿・四国を中心として全国で死者・行方不明者は3036人に至った。この台風の被害が甚大であった原因として以下のことがあげられる。
(1)記録的な規模の強い台風であった。
(2)暴風警報がすばやく伝達されなかった、伝達されてもその意味が理解されず利用されないことが多かった。
(3)有線の切断によって、室戸岬での観測データが、ただちに大阪方面や東京に伝わらなかった。
この台風による被害は、明治初期の始まりから約60年を経過しようとしていた日本の気象事業にとって大きな衝撃となり、暴風警報の全面的改正など種々の改革が行われた。翌1935年からは、暴風警報(大風雨の襲来時に発表)と気象特報(現在の気象注意報に相当する)を明確に分け、用語も平易にわかりやすく改めた。また、滋賀県瀬田の鉄橋上で列車が転覆するなどの鉄道被害も多かったため、鉄道省と中央気象台との申し合わせによる鉄道気象通報が本格的に始動した。しかし、第二次世界大戦が始まり、これらの防災対策は機能しなくなっていく。室戸台風を契機に生まれた各種の防災対策が活用されるようになったのは、戦後の復興過程においてである。
〔2〕第二室戸台風 1961年(昭和36)9月16日室戸岬付近に上陸した第18号台風は、第一室戸台風に匹敵する超大型台風で、しかもほぼ同じ経路を通ったため第二室戸台風とよばれる。日本に接近したころは少し衰えたとはいえ、室戸岬では最低気圧930.9ヘクトパスカル、最大瞬間風速84.5メートルを観測した。気象警報などが十分に行われ、防災活動が適切であったため、大阪湾ではほぼ4メートルと第一室戸台風に次ぐ高潮があったにもかかわらず、第一室戸台風に比べると、被害状況の数値は減少していた。第一室戸台風襲来時に比べ、適切な情報伝達、早めの避難、防潮堤の効果、建物の耐久性など、防災対策が格段に進歩した成果もあったが、それでも、全国で死者・行方不明者は202人に達しており、第二室戸台風もやはり非常に大きな災害であった。
[饒村 曜]