宗助国(読み)そうすけくに

精選版 日本国語大辞典 「宗助国」の意味・読み・例文・類語

そう‐すけくに【宗助国】

鎌倉中期の武将。資国とも。右馬允対馬守護少弐資能の地頭代文永の役で戦死。文永一一年(一二七四)没。

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デジタル大辞泉 「宗助国」の意味・読み・例文・類語

そう‐すけくに【宗助国】

[1207~1274]鎌倉中期の武将。対馬つしま守護代文永の役で蒙古軍と戦い、討死した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗助国」の意味・わかりやすい解説

宗助国
そうすけくに
(1207―1274)

鎌倉時代の武将。知宗(ともむね)の子。右馬允(うまのじょう)。少弐(しょうに)氏被官として、対馬(つしま)守護代・地頭代を勤める。鎌倉中期、わが国と蒙古(もうこ)(元)との関係が切迫した際、幕府の命を受けて最前線の防備に努め、1274年(文永11)いわゆる文永(ぶんえい)の役には、蒙古軍の対馬上陸を佐須郷小茂田(さすごうこもた)浦(長崎県対馬市厳原町(いづはらまち))に迎え撃ち、また郎党使者として急を大宰府(だざいふ)に伝え(蒙古襲来の第一報)、幕府方に通報、自らは一族・国人(こくじん)らとともに奮戦して現地で戦死した。島民は、戦場だった小茂田浦に祠(ほこら)を建て帥(かみ)大明神として祀(まつ)る。

[山口隼正]

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朝日日本歴史人物事典 「宗助国」の解説

宗助国

没年:文永11.10.6(1274.11.5)
生年:生年不詳
鎌倉中期,対馬国の武士。右馬七郎,右馬允。対馬国国府に居住し,守護少弐氏の守護代,地頭代であったとするが確証はない。『八幡愚童訓』には地頭宗馬允資国とある。文永11(1274)年10月5日,モンゴル軍船が対馬国佐須浦に襲来した。このことを知った助国は手勢80騎を率いてかけつけ,翌6日早朝より合戦におよんだが,衆寡敵せず,助国以下討死した。助国の郎等小太郎,兵衛次郎が舟で博多に渡り,急を告げた。佐須には助国の首塚,胴塚といわれるものが残っている。<参考文献>伊藤常足編『対馬島』,藤定房編『対馬編年略』

(瀬野精一郎)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗助国」の解説

宗助国 そう-すけくに

?-1274 鎌倉時代の武将。
対馬(つしま)(長崎県)の地頭代。確実な史料にみえる宗氏と称した最初の人。文永11年蒙古(もうこ)軍の対馬襲来を佐須浦(さすうら)小茂田浜(こもだはま)にむかえうち,奮戦のすえ10月6日討ち死にした。「家譜」では宗知宗(ともむね)の子,宗重尚(しげひさ)の弟という。名は資国ともかく。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗助国」の意味・わかりやすい解説

宗助国
そうすけくに

[生]承元1(1207)
[没]文永11(1274).10.5. 対馬,佐須浦
鎌倉時代の武将。対馬国守護代知宗の子,重尚の弟。右馬允。一説に,資国とも書く。文永 11 (1274) 年 10月5日蒙古の軍船が佐須浦に現れたとの報告を受けると,80騎余を率いて応戦したが,衆寡敵せず戦死。

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